2021/04/06

第228号:前門の虎、後門の狼、更に刹那の波

<コンテンツ>
前門の虎=パンデミック、後門の狼=世界経済危機に対し、更に刹那の波
  ・現憲法の社会構成と行政法枠組を壊されている
  ・これに、中堅中小企業はどう、立ち向かうのか

GAFAに翻弄されない「ものづくり」=利潤利益率を確保
  ☆要するに、利潤利益率を確保する事業展開のポイント
  ・高度な固有価値製品の「ものづくり」
       =Art域労働版(2021年4月6日改訂)

  ・新型コロナ感染で崩壊後の、経済史的な打開策は
  ・消費財の固有文化価値商品「ものづくり」①~⑨の9個
 [コラム1]Art域の能力が無いとは、物理的障害だけのこと
 [コラム2]物事を理解実行するとか習得する方法を認識論という

「国民が働いて借金を返す」、それが“労働貨幣論”
  ・MMTへと、ワラをもつかむノメリ込み
 [コラム3]≪ゲオルク・ジンメル:Georg Simmel、1858年-1918年≫


§前門の虎=パンデミック、後門の狼=世界経済危機に対し、更に刹那の波
新型コロナ感染を何かにつけて、経験も無ければ実力もない輩の集団に任せるとか、“こんな輩”に牛耳ることを許したわけだから、今さら文句を云っても批判を繰り返しても、新型コロナ感染の打開の道は、開くわけでもない。

“こんな輩”にとっては、奇跡的に握った地位や権力の座、無能かつ、愚かな体面を晒すことなど苦とも思わない。彼らにとっては、生涯一度も出くわしそうにないチャンス。だから、その心理を順風満帆に育ったエリートや、誰かに依存しながら生きてきた一般大衆には理解ができない。むしろ彼の輩らは、騒ぎや混乱が拡大すれば、再びドサクサ紛れでのチャンスをつかもうと、必死で意気込むのだ。見ての通り“こんな輩”は利権と自己保身目的だ。

本来の帝王学においても、物事が上手くいかなければ、多くの人物の知恵を集め、より多くの人物の参画を組織し、肝心な微に入り細に至る部分での実績を蓄積する。それを通し全体の成功を収めるわけである。それは、“光は波であり粒である”といった人類数千年の経験則であって、現在は量子力学(アインシュタインが発端で2012年に証明)のイメージで語られるに至っている。ところが、無経験・無実力の“こんな輩”にとっては、それを聞いたこと無く、能力の幼稚さからも理解できず、まるっきり、(巷で読者もよく遭遇したことのある)詐欺行為で成り立つ経営者とか、高級サラリーマン層にも存在する“ちょい借り詐欺”師の類なのである。
日本の義務教育における、“社会科・公民科”教育の不十分さから、一般大衆は“こんな輩”を見抜けない、一般大衆のおぼこさが世間に蔓延していると見るのが正解だ。ひいては諸専門家も先頭に、おぼこい。大衆の無関心とか日本人の従順さではない。
だからこそ、公衆衛生(但し国立感染研は保身に走っている)の趣旨が理解できず、難しく表現すれば公衆衛生と臨床医学の、差異と共通点にも気がつかないのだ。たとえば、ワクチンは公衆衛生目的の手段にもかかわらず、感染しないとの誤った期待に騙される。そう、個々人の感染予防や重症化対策は、臨床医学実態として、結果としては感染も重症化も無防備状態と見るのが妥当だ。

現憲法の社会構成と行政法枠組を壊されている
それこそ、“こんな輩”の無血クーデターだ。
臨床医学は地方自治体(市町村や都道府県)を主体にした住民サービス促進体制に組み込まれている。だから厚労省&国立感染研は、地方自治体をバックアップする情報提供や治療指針掲示こそが重要なのだ。が、現状は情報隠蔽と治療等指針につき不作為(治療指針その他を示さない)である。その行政法枠組のもとであって東:世田谷区、和歌山県、広島県等での無症状者感染追跡が、おそらくは功を奏していると思われる。すなわち、新型コロナ対策の方向間違いとボタンのかけ違いは、相当の新型コロナ対策の無駄、根本的不毛と消耗を招いている。無経験無実力の“こんな輩”だから、建議をされても解らない、むしろ“こんな輩”は公衆衛生、臨床医学、地方自治といった舞台での有能有力者を敵扱いするわけだ。目立つためには、有能者の建議を絶対否定する。形勢が悪くなると口先だけ(野党や左派の言葉を盗み)、旧ソ連の語り口の如くに、違和感丸出しにだ。

すなわち、現憲法の許、国が交付金その他予算をちらつかせるのは行政手法体系の間違いだ。東京都庁や大阪府庁での地方自治や地方自治体を蔑ろにしての、知事が目立ちたいがための策略こそが間違いだ。それぞれの結果が感染増加なのである。地元有能専門家や各自治体足元の有能者の離反をも招来しているのでだ。“こんな輩”に媚びへつらい、協力してやっていけば、交付金とか予算等を沢山もらえると期待するのは、まるっきりの錯誤錯覚である。

これに、中堅中小企業はどう、立ち向かうのか
これに民間と圧倒的多数の中堅中小企業は、どう立ち向かうか。
①先ずは、“こんな輩”の話には乗らないこと、耳を傾けない。
②目先の職場と家庭は、飛沫消毒。その徹底を企業ごとに行う。
③感染ルートは、幼児&児童から両親や家族への感染が主流だ。
④飛沫感染予防の消毒、予防サプリや食料、重症化対策サプリ。
⑤Withコロナではなく、職場で安全衛生、家庭での食生活改善。
⑥もはや民間防衛、自治体、職場、自治会からの情報発信が柱。

この項目に沿った情報の具体化は、身近な医師とか産業医に話してみればよい。
新型コロナ感染は、幼児&児童の無症状者が先頭を切っている模様なのだ。
20201128HouseDisinfectionIllust.jpg(bp.blogspot.com)

発症しやすい体質とか生活習慣の情報も、厚労省からの発信ではなく、個別医師レベルに到達するようになった。新型コロナとその後の重症化に対応する特効薬や治療薬が、未だ無い段階でも、重症化=間質性肺炎に対する抗酸化物質(グルタチオン)とか、全身の血栓による臓器等多機能不全に対する抗血液凝固剤(ヘパリン、クエン酸トリナトリウム)といったサプリ域でも有効な情報も流れている。何も酸欠発見⇒酸素吸入といった病院対症療法に限らず、重症化の肺炎は発症9日目がピークだとか、全身の毛細血管の血栓による臓器多機能不全は発症早期に発生しているとかの、臨床先進治療医師の情報も、医師にも所属団体外からも個別に入るようにもなった。

私自身は、政治には飽き飽きして全く関心はない。
が、与党野党や無所属を問わず共に、せめて議員や首長に当選とかしたいのならば、あるいは民衆の支持を得たいならば、①~⑥といった中味を地道に、“どぶ板並みに”実践することだと思う(約半世紀の現職業センスから着想)。私自身は住民投票以外は政治には関心すら持っていない、けれど、保守×革新→与党×野党といった団体戦の時代は、とっくに終わった。


§GAFAに翻弄されない「ものづくり」=利潤利益率を確保
こういった4社など“プラットフォーム”に、“おんぶに抱っこ”になっていれば、いくら「高度な固有価値製品のモノづくり」だとしても、時間が経てば4社等に振り回されてしまう。
またそれは、この4社だけには限らず、同様の事業や機能、そして中国の“阿里巴巴Alibaba アリババ”その他であっても、“おんぶに抱っこ”であれば振り回される。
GAFAとは=グーグル(Google)、アップル(Apple)、フェイスブック(Facebook)、アマゾン(Amazon)の4社のこと。世界中の多くのユーザーが4社のサービスをプラットフォームにしている。それは、商品やサービスとか情報を提供する基盤となる企業で、世界中の多くのユーザーが、4社の提供するサービスをプラットフォームとして利用しているわけだ。
そういった市場確保の業態は、当初は寡占・独占を打ち破る自由市場をうたって成長した経歴を持つのだが、創業経営者の変更や金融資本の投資そして国家が介入や結託をしてしまうと、見事に変質してしまう。

だから「高度な固有価値製品のモノづくり」を目指しても、“商品にタガをはめられ”=単なる労働力集積商品を強いられ、GAFAの仕入れで買い叩かれ、何の変哲もない商品水準に落とされたところで、あなたの会社とあなた自身が、彼らの歯車に変質されてしまうわけだ。当初は「高度な固有価値製品のモノづくり」として自由を求めたとしても、たとえ理想にしがみついたとしても、実態は変質させられてしまう。
歴史的に見ても、封建制度や土地から解放されて自由を求めたけれども、うかうかしてる間に事業そのものが“搾取と収奪”されるようになった歴史事実は、マルクスが資本論で証明した範囲においては正しいのだ。(ただし、後のエンゲルスの論理修正、ジンメルの論理確立、スターリンの捏造といったものが、今や学問的には発見確立されている)。近年のJustin Time生産システム(別名:リーン生産方式)も、トヨタ生産方式のカンバンと呼ばれる帳票(看板)を利用すること等から始められたが、当初の導入時には在庫を持たないから、「協力会社の金庫には現金がいっぱいになります」といった“口車を並べたてる事”からの促進が行われたのだ。(協力会社からすれば手形割引の慣習で不自由に晒され、トヨタ自体も手形割引事業を行っていたのが実態だ)。とにかく当時は、“口車や語り口を並べたてる事”で中堅中小企業経営者は“笑みの眉開く”だけで、良く知らずに導入した。
★ところが、コロナ感染で破綻した資本投資型の事業業態にしても、時折寸断する在庫を持たないサプライチェーンにしても、現代の自由市場経済(←資本主義経済の旧名)で向上したわけではない。
“いくつかに集積される金融資本”の総額は、集積されるから超多額には見えるが、その額は数えたり計算したりすることは不可能だけれど、全体の利潤利益率が低減をしていることは科学的論理としては間違いない。それは中国本土や北朝鮮の自由市場経済には現れない投資においても同様である。(中国などは資本主義経済理論の着想では分析できず、欧州などの貴族の投資先であることも、それを知る人自体が少ない)。

要するに、利潤利益率を確保する事業展開のポイント
地産地消=地元地域にしっかりと足をつけた「ものづくり」あるいは販売だ。
【解説】間違ってはいけないのは、原材料などの仕入れは地元外からやGAFAからでも良いが、最終完結する労働の投入の仕事場所が地元の地産地消であることだ。原材料が地元に有るからといって地産地消を組み立てた事業は、概ね失敗に至った。昔から、北海道昆布の地産地消は、富山、敦賀、大阪だ。辛子明太子の原材料は昔から北海道とか海外産で福岡製造の地産地消(が7割は北海道へ転送)だ。
すなわち、その地産地消の地域に集積した労働全般の能力が決め手なのだ。その法則は世界共通であり、単なる原材料調達先は世界をめまぐるしく変遷している。その変遷を支えるのがGAFAといった企業ではある。したがってGAFAなどの事業の行き着く先は、究極の市場拡大と利潤利益率の低減なのである。だから、市場拡大のためにGAFAなどは米中経済戦争の闇の主役になる必要もあり、併せて仕入れ価格の買い叩きは宿命であり、そうしなければ事業維持ができない。加えて管理体制とその維持費にも膨大な資金がかかるわけだ。石油会社にしろ、破綻に向かう新自由主義にしろ、本来の経済活動をからすれば、“まったく無意味な仕事”に携わる人物を配置するのだ(無意味な仕事、それにまとわる人物とは=次のURL)。


最も手堅い「ものづくり」、あるいは販売は、先ほどの意味での地産地消が原則なのである。衣食住に関わる“製品やサービス”については、広い意味での芸術性に基づいて、“意欲・感動・希望”をプロデュースし、今時点で人々が意識をする“希望が呼び込まれて”いるモノに限り伸びているのだ。広い意味の芸術性(Art域)を持つ“製品やサービス”は伸びている。これを、科学的(“いつでも、どこでも、だれでも行うことができる法則性”)に見極め、IT機器に取り入れることが重要(ICT産業革命)なのである。科学性(自然、精神=人文、社会の3分野)と芸術性を組み合わせることで、それを目的意識的に行えば、極めて効率的な創造性を発揮した仕事ができるようになる。観光産業だとしても、それを支えるの「ものづくり」の原則は共通している。GAFAに翻弄されればインバウンドには低劣で低利潤利益率のセックス売春がはびこるばかりになるのだ。
老舗の観光立国での、「フィンランドには何もない?」の売り込みには、芸術性に基づいて、“意欲・感動・希望”を科学的に織り込み、観光客は人と自然に触れる体験に高い利潤利益率の「ものづくり」あるいは販売に触れるわけだ。「フィンランドの人の考え方はどんなもの?」とて、フィンランド観光担当局は意識していると言っている。地産地消とは、地元地域(最小単位は中学校区)から世界へ向けての多国籍展開を行う。これが今からの展開であり、それは世界的には常識的であり通例なのである。


高度な固有価値製品の「ものづくり」=Art域労働版(2021年4月6日改訂)
ちょうど今から8年前の、4月8日発行の当メルマガで、
リーマンショック後の日本経済破綻と「ものづくり」の打開策を書いた。
(総務部メルマガ2013/04/08号から引用)___
『日本は、今日の経済破たんを迎えた。政府の金融政策は効果がない、通貨貸出準備が整っているも個別企業に貸し出すだけの新商品がないのである。既存の商品は労働力商品も含め低下の一途をたどっている、この現象をデフレと称して「不況?」と呼んでいるにすぎない。そこで、固有価値商品に目を向け、且つ世界経済や世界市場に目を向けながら、日本国内のここ60年ほどの新商品開発の教訓を踏まえ、世界的成功している新商品開発をまとめたものが次の項に示したものである。そしてこれらは、もう既に導入した個別企業においての成功を繰り返しつつある』。
_____引用はココまで。

新型コロナ感染で崩壊後の、経済史的な打開策は
それは以下の通りだ。歴史の流れに逆らっていては、本当に労多く無駄な時間だ。
いわゆる封建時代は土地に縛られ自由も知らなかったが、都市に働きに出て、“賃金労働”といえども貨幣を道具として自由は増えた。自由平等を目指すことで経済活動は、貨幣を道具としての“自由”の拡大を人々は求め、それは「モノやサービス(服務)」とを交換する方法(自由市場経済)である。
その際に、今日の話題となっている概念が、“幸せと満足”である。近代以後の学問的解明で、「“幸せ”とは=社会や集団の中で自由拡大を認識する状況(カント)」だ。そして、「“満足”とは=様々な集団の内部で他人と比較して平均以上であると認識する状況(ダニエル・カーン)」であるとのことが解ってきた。したがって、“厚生”を充足するだけでは、閉鎖された社会関係内部にあっては満足するかもしれないが、“厚生”自体も単なる“幸せ”を追求するひとつの道具に過ぎず、自由をもたらす一助に過ぎないということだ。
そして、☆「“自由”とは=生活全般にわたり、自らの希望する他人に対する特定人間関係を、労働生産や消費その他の行為を通じて自由を感じ取ること。その場合には義務も自由として感じられる(ジンメル)」にまでに、文化についての共通解明に達したのである。すなわち、いくつかの選択肢から、そのいずれかを選ぶといった行為は自由ではないのだ。
労働力の切り売りで厚生のみを得る“賃金労働”から、今後はArt域労働が幸せになる権利を拡充する。Art域労働の高利潤高利益率は、“賃金労働”の労働力での“煩わしい仕事をこなさなければならない場合に限られる”とは異なる。Art域労働で幸せを得て能力も伸びる志向は、ICT産業革命とともに進展させることが可能になった。その科学的学問的解明も次のURLの通りに示された。(専門学者によると、この“幸せになる権利”は、Art域労働の価格決定論とともに、世界的高水準の発見とのことだ)。


消費財の固有文化価値商品「ものづくり」①~⑨の9個
それは、地産地域の(地域の最小単位=中学校区単位の行政単位)、
地場経済圏、地方経済圏、民族文化その他に蓄積された、
「労働蓄積+労働能力+労働力発揮」といった労働価値に基づくところの、商品開発作業である。


製品の1ヵ所だけを変えて、現代の非凡(自然素材活用とか木製自動車その他の例)にしてみる。
(例=日本画と同じ手法でも異なるものに⇒)
絵画(美術)は色彩=心の鏡・表面の表象、彫刻には:手触り感のたなごころ(掌)。
音楽は空間把握、それは、Background MusicとかElaborately Produceとは違う。
詩Poemは時系列の思考パターンであり、その感情移入は、登場人物と自分あるいはリアルとバーチャルのプロセスである。
感情移入は、芸術(Art域)や道徳・理性力のトレーニングとなる。
ただし、非凡なだけの行為はイノベーションでも芸術(Art域)でもない。
https://soumubu1.blogspot.com/2021/03/blog-post.html


重要な改善の発見きっかけのツボは、「他社と違う、他地域と違う。」ところにある。ところが地産地域の商品開発作業は、各地域のオリジナルな中身である。
そもそも本来は地産地域を越えて交換されるから、物資が商品として成り立つのである。単なる違う機能を求めることはイノベーションではない。
単なる利便性とか単なる価格といった品物の背景には、必ず経済外要素の軍事力や安定交通ルートを要する。だがそれでは、自由市場経済の商品ではないのだ(配給物資とか計画経済物資)。


固有価値商品の新鮮さをアピールするイベントを行う。新鮮さとは自然を活用した生物だけのことではない。店先の実演販売、半製品を店先で完成する、その他の演出による買い手との意思疎通である。
要するにビジュアル映像では商品の新鮮さが伝わらない、匂いを醸し出すIT機器を備えても伝わらない。共感とコミュニケーションが決め手だ。テレワーク&リモートアクセスでは、限界があり空振りが多い、そして安物しか売れない。



←こんな配給物資は、もう売れない。
商品の容器や容量を変えてみる(土地柄、一人暮しや核家族向けの数量、保存法)。買い手の、「意欲・感動・希望」を探ることになる。
Art域労働の具現化には、受ける側に希望が呼び込まれる要件が必要となる。それには、容器や容量が重要ポイントとなる。
配給物資とか計画経済物資は、自由市場経済の商品とは異なった、大量輸送価格とかその荷造り運搬経費が前提となっている。


製品(家電、衣料、水、自動車、食品、住居など)の原材料とか成分を変えてみる。その地方特産品だからといって、その特産物を商品原材料に使うことでは、固有文化価値商品は生まれないのだ。カラシ明太子など水産加工品、昆布製品などすべて労働集約商品である。
繰り返すが、地産地域の商品開発のArt域労働やその作業は、地産地域のオリジナルであって、そういった物資が地産地域を越えて交換されるから商品として成り立っているのである。

GAFAなどによって流通する商品はArt域労働によるものではないから販売量や価格には限界がある。だから、Art域労働による固有文化価値商品は、地域を越えて高利潤利益率を保ちながら、仲介販売を介して、価値を具現化する仕組みとなっているのだ。
脳内の模倣Mimesisでもって、その固有の価値を共有するからこそ、
相対して買い手は共感Empathyする(ミラーニューロンMirror neuron)こととなり、その後の量的販売の道が開かれるわけだ。
こういった事は経営手法の基本であり、自由市場経済の商品の分析を成し得た経済学、および自由市場経済の仲介販売経験則を、科学的に分析した経営学が導く事柄である。


顧客が前に何を買い、途中は次に何を買い、また考え直して買った品物を調べてみるといった、「その商品を買うに至る顧客の旅」をよく見る。これも、自由市場経済の商品の仲介販売での経営手法である。配給物資とか計画経済物資とか、そしてGAFAに頼る仲介販売では、せいぜい購入履歴は残せても、「その商品を買うに至る顧客の旅」といった物事は集約できない。

そこは仲介販売においては、無駄な労力を省き高利潤高利益率を保つことを焦点に保つにもかかわらず。
仲介販売のArt域労働が、更に商品のストーリー(コンテクスト)を添える。それは⇒ホッ!とする効果であり、「意欲・感動・希望」に基づく希望の具体化をプロデュースしている。
長持ちとか丈夫さを、ことさら遮二無二持ち出す集団ではなく、仮に、「使い捨て商品」と名付けられるArt域労働による固有文化価値商品も、メリハリを持った商品ストーリーと「意欲・感動・希望」に基づく希望の具体化をプロデュースするのである。


真実を現す色にする。「独自の色彩:それとも:ぼんやり灰色か?」といったような色決めを行う。「絵画(美術)は色彩=心の鏡・表面の表象を加えることである。

脳内の模倣Mimesisでもって文化価値を共有するからこそ、相対して買い手は共感Empathyする(ミラーニューロンMirrorneuron)のである。
「真実を現す」とは、買い手の心の中にある事象であって、裁判所や研究機関といった団体の論理判断とか、地球自然現象の中にあるのではない。むしろ、そういった論理判断とか地球自然現象を話題とする話の内部には、配給物資とか計画経済物資とかの概念が、経済性という美名のもとに、真実を無視してしまった弊害商品として山のようにある。粗悪な部品や材料にこそ色を塗ることが然り。短命かつ安価な建築物を色彩でごまかしガラスなどの装飾物を用いて、[ひと目で凄いを追求する]ことも一種のPerformanceで、Art域ではない。


買い手が、経験をして知りたい、体験をして集めたいといった、「意欲・感動・希望」に基づく希望の具体化を、それが買い手の知識や認識に組み入れられるようにプロデュースされた商品であること。顧客の体験シリーズや旅(旅とはもとより「人生の旅」に近い概念で、決しては団体旅行パックなどではない)。加えてメソッドバッジ(技能章)といった如くのグッズも用意するところまで徹底することだ。
それは、Art域商品作り手の人物自身がArt域であり、その人の生き方がArt域だから、その固有文化価値を脳内の模倣Mimesisでもって文化価値を共有するからこそ、相対して買い手は共感Empathyする(ミラーニューロンMirrorneuron)というわけなのである。
GAFAが専ら扱う物品は、商品作り手の個を滅する⇒人間疎外の果てのスキルSkill(労働力技能)の品物である。人物自身のArt域ではなく、アイドル(偶像崇拝)の一形態を求める品物のPerformance(職人技巧)の提供に限定せざるを得ない。要するに、人間疎外のスキルの品物は原材料の意味でしかなく、アイドル(偶像崇拝)の一形態である品物(他人より有利な地位利益を得るための物資)では直ちに飽きが来てしまうのである。


[コラム1]Art域の能力が無いとは、物理的障害だけのこと

例えば自転車に乗れるといった相当後日でも思い出すような習慣は、努力で以って獲得されない。「出来るようになった!」とは、細々とした初歩的鍛錬が成功し→その段階が脳内で高度計算処理され→リズミカルに脳内構成されたた間に→初めて「習慣」として獲得される。

そこに辛苦を伴う努力は無い。最低限の時間経過と、各の段階を経る必要があり、これをシャニムニ精神や努力を積み重ねたところで、「習慣」として獲得されはしないということだ。
それは一夜漬けの記憶といったものは習慣になり得ないということでもある。
芸術や技能の鍛錬を、世間で人々が、「能力がない!」と錯覚していることは、そのほぼすべてが、物理的障害によるものと言われている。鍛錬が成功しない原因を、無知な者ほど非論理的に非科学的に説明している。この物理的障害を見抜き排除することが、いわゆる現代で言うクリエイティブな労働(典型的にはArt域労働)の基盤なのだ。

行動科学などの実証研究によると、
①鍛錬の序では、念頭に総合的なリズミカルさで好奇心を持ち、
②上手く描けない、上手く弾けない歌えないなど、細かな筋肉未発達にもよる。
③鍛錬は睡眠の前=内容を忘れないうちに寝ること、
④脳の機能は出力重視であるから、
 目覚めればヤッテみる&話してみる&マトメてみることが
 大切なフィードバック行為であり、
⑤その期間は、短くて済むものでも21日間、長きを要するものは66日間、
 これはどちらかいずれの期間だとの研究結果だ。
 その間に連続2日サボると習得は困難とされている。

戦後の経済成長では、こんな例がある。
=終戦後、松下電器産業はベルトコンベヤー(テーラーシステムの応用)を導入したが、同時に“民謡=ソーラン節”の踊りを従事者に教え、今日で言うリズミカルさを身につけさせた。その後関西では、その踊りが職場の飲み会などで流行した。それは当時の人事院や公務員関係機関でも紹介がされたが、やはりそこでは実らなかったようであった。
(総務部メルマガ 2018/11/06 から引用・加筆)


常に非凡な商品・製品を設計してみること。
「思考の地図」といったような、別々のアイディアの結合をすることは、イノベーションの前段階である。それに便利な5次元の思考X・Y・Z+Time+Connectは、Art域労働に特有なもので、その労働形態そのものが、幸せを得る・幸せになる権利の実行そのものなのだ。そこでは常に新技術・空間把握・アイディアの3つが一体に企画され、可能な限りその作業は分離も分業もなされ、伝統産業に値すればこそ、この3つは重視されている。自由平等を追求するための社会にあっては、職業団体の倫理とは、常に職業能力水準向上を重要な課題と位置づけている。
さらに、美と善(=進化に資すること)はどこかでつながっている。それは“仕事が出来る人物”ならば肌で感じている。このこと自体も、先ほどの脳内の模倣Mimesisでもって文化価値を共有するからこそ、相対して買い手は共感Empathyする(ミラーニューロンMirrorneuron)のである。「芸術性のない事業は廃れていく」といったことも科学的論理は証明されてている。
だが、これらに対抗して、この新技術・空間把握・アイディアの3つを重視もすることのない組織が物事を仕切って差配していることが主要原因となって、芸術や道徳・理性とは相反する行為に陥っているのが現状だ。
自由平等が形骸化しつつある現状日本では封建的差別的行為が横行して、職業能力は劣化しつつある。加えて職業能力劣化とともに、経済外的な支配が横行し、更に能力劣化は進む。そこまで落ちればArt域な労働や生活からも遊離し、反社会勢力に転落するのは人類の歴史の常なのである。


[コラム2]物事を理解実行するとか習得する方法を認識論という

認識とは知っただけではなく、実際に考えたり行ったり出来るという段階である。その実態は、最初からある程度のまとまりを帯びた全体像が一気に表れる目前の体験を、“認識するとか習得する”といった経過によって、「ワカッタ!」となり「デキタ!」となる。

要するに、浅い認識→深い認識→発展を促す認識といった発展経過である。いわゆる「守破離」が認識論の基本であることが哲学解明された。

学校で教えているような、過去の伝統的な認識論は、知覚の素材をバラバラの感覚で追い求め、それらの統合力を意味不明な精神?に依存して、またこれを主観的な形ある表象にまとめるという方法であった。
ところで、人口600万人のフィンランドでの基礎教育は、教師が国語の授業でも理科や社会や算数に話を飛ばすし、音楽や体育の授業に物理や国語の話を持ち出す。そういった教育方法で、人口比に対する有能能力者の比率を増加させている。イノベーション(その中心は物事の結合 Connect 思考)を意識的に論理的にフィンランドの文部省行政教育は行った。
さらにそれは、いわゆる“習い事”全般でも、芸術的基本要素である、“絵・音楽・詩”の3つを“殊にリズミカルに!“経験”することで、結合 Connect 充実させ、かつ広範囲・多人数が習得できるといったこととなる。ルネッサンスは学問的科学的な育成をしなかったがために巨匠を産まなかったというのが定説だ。
貨幣ばかりを優先させた金融資本主義ならでは、物事の認識過程を無視して、さらには分解作業過程を優先(例えばテーラーシステム)させたがために、労働成果物の劣化を招いたと考えられる。ポピュリズムが、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方に偏り、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵と錯誤して攻撃するといったことになるのも、貨幣ばかりを優先させた金融資本主義の産物といえるのだ。
(総務部メルマガ 2018/11/06 から引用・加筆)



§「国民が働いて借金を返す」、これが“労働貨幣論”
現在日本は、コロナ対策&経済危機対策と称して、借金を湯水を使うように積み上げる予算措置を行っている。財務省は説明する返済とは、全ては先送りだとし、すなわち生まれもしてない孫子の代まで借金を積み上げようというわけだ。

また、MMTを持ち出す人物らは、同じく湯水を使うように財政出動を口にするけれど、返済の話になれば、「国は倒産しない、財政は破綻しない」と叫ぶに過ぎず、答えない。たとえ叫ぶとしても、財政出動を国の会計で行えば、その穴埋めは必要だ。戦前日本の如く、米国その他から借金をして関東軍の中国侵略資金に、満州を拠点に麻薬ビジネスから略奪まで行って、国家財政に補填する」とも言わない。
いずれにしても、「国民が働いて借金を返す」ことになるのだ。
歴史的にも、“労働貨幣論”の幻想妄想を、本気に真に受けて制作導入したのが、正確に言えば各地のソビエトの中でも、ロシア領の旧ソ連だけであった。スターリンらは党内の経済学者を粛清して“労働貨幣論”を無理強いし政策破綻、その無茶苦茶をごまかすために“計画経済”なるものを、権力を背景に実行し、変質経済学まで組み立て輸出したのだ。ナチスのヒットラーは、スターリンの“計画経済”を真似したかったが諦めた。日本は、満州国での日本:商工省の連中が採用した。戦前戦後を通じて日本国内でも、その“計画経済”を真似て実施した。戦前は権力を使い、戦後はアメリカ資金を基にCIA手先が首相となり導入した(米ソ対立の反共防衛と称して)。なお、随伴結果として、国交のない中国や朝鮮半島との密貿易で、日本は関西地方を中心に潤いを得たことも確かだ。

★本来の話に戻れば、
貨幣は商品や資産その他の等価交換物であるとするのは、総ての経済学説に共通している。でも、現実には通貨コントロールによって相場を産み、あたかも価値量が変動したかのように見える。けれども為替相場やインフレ・デフレによって貨幣価値は等価交換の水準に、やはり近づく。そして、「国民が働いて借金を返す」となればそれは国民の労働を意味することとなる。借金返済を国民労働に限定しなければ、終戦後に日本政府が行ったような財産税(所有資産税率での通貨納税&現物納税)となるのが通例なのだ。日本政府は財産税の実施経験がある。ちなみにソ連崩壊のとき、全銀行預金はすべて国が没収した。そしてMMT論者もソ連の“計画経済”の如く無口だ。MMT論者が、話題にせず無口だからとしても、彼らの論理構成や理念に反駁しないわけにはいかない、噛み合わなくてもだ。
さて、そこで、以下徐々に詳しく、フィードバックを繰り返しながら見ていく。

MMTへと、ワラをもつかむノメリ込み
  1. MMTは現代貨幣理論Modern Monetary Theoryといった名称に概念付けられる場合が多い。が、その内情や理論の説明は、MMTを持ち出す人物によって異なる。それどころか、同一人物であっても途中から大変質している実態が通例だ。深くに渡って見識を持つ経済学者とか、科学的見識を持つ論者からのMMTに対する指摘や批判の度に、彼らは次々と内容変質する特徴がある。
  2. 科学とは、ひとことで簡単に試金石の如くに例えて説明すれば、「何時でも何処でも誰でも、法則性を持って説明ができ、聞いた他人も法則を活用できる」と自然・人文(精神)・社会の3分野を横断的に貫く類のモノの事である。
  3. YouTubeなどに流されるMMTの説明は、「これなら、聞いたことあるんだろう」と言わんばかりに、無知かつ愚か者をも誤魔化そうと目論むのか、複式簿記の帳簿概念あるいは会計学の一部の説明ばかりである。そして飛躍して、財政学(経済学の一分野)のつまみ食いに終始している。何千年も用いられる貨幣(江戸時代ならば:米が貨幣)の概念、貨幣と通貨の種類も役割も異なることなど、様々混同して説明している。
  4. 経済活動とは、貨幣を道具として“自由”の拡大を人々は求め、それは「モノやサービス(服務)」とを交換する方法である。貨幣蓄積増進の重要手段として「通貨」は用いられ、「通貨」とはそれ自身は“経済価値のない紙幣・硬貨や電子マネーなどの器材”を用いることであったし、これも何千年と人類が用いてきた社会運営技術の方法や手段である。MMTを持ち出す人物にとっては、こういった歴史的経緯も含めた科学的視点それ自体を知らないようである。(仮に知っておれば、経済学とは異分野の会計や帳簿を話題にするより、無知な人の中途半端な誤理解こそが生じたかもしれない)。
  5. だから結果的に、深くに渡って見識を持つ経済学者とか、科学的見識を持つ論者からは、MMTが相手にされないのである。ただし、日本の権威主義的アカデミックな人からすれば、「無知かつ愚か者」の相手をしないことは、決して道徳的ないしは善(人類進化に資する行為)だとは、わたくし筆者は思わない。
  6. ところで、日本の巷で有名になった、MMTを押し出したであろう人物は彼だ。
    https://youtu.be/Tqo1yOR0AiM
  7. そして、経済史を専門とする某女性経済学者の著作によると、“百花繚乱”となった世界主要のMMTの数々を調べたそうだ。
     ★彼女は、次のように指摘している。
      「国家がどれだけ債務、つまり借金を増やしても大丈夫。
       (とは言うものの)実際は各国の事情を踏まえるべきなど、
        様々な条件をつけている。」。
     さらに、新自由主義について言及し、
      「(そもそもは)非営利がゆえに見過されてきた無駄を省き、
        自由な企業家精神を発揮させる」とし、
         あくまでも、倫理観を前提としたフリードリヒ・ハイエク
          などに示されるネオリベラリズムの範囲内で語られていると。
  8. ところが、日本における新自由主義者の特徴というものは、何のかんの言おうが、経済学の父アダム・スミスが「神の見えざる手」と言ったとの嘘(あのトヨタの社長)を思い出すが、結局は世界共通して、“政府公共部門事業を拡充し、その上で片っ端からオトモダチ業者に事業を分配する”ものでしかなかったということだ。日本の新自由主義者は、経済とか経営には全く関わりもセンスもない輩であり、やってきたことは比較的他人より有利な地位で以って、“露骨な性癖を持つ新自由主義者の権力構造を維持するためだけの行為”であった。
  9. 新自由主義者の話に乗って事業閉鎖その他に流れたオーナーたちは、金銭はもちろんのこと様々予想はずれ、人生に落ちぶれてしまったケースは多い。筆者は凡そ45年も携わっているから如実に視てよく知っている。
     ★そして、先程の某女性経済学者の指摘の通り、
      MMT入門と言いながらも現代貨幣理論は、
      続いて機能的財政論とか、今は責任ある積極財政論といった、
      戦前から使われている中味の政策に変化しているのだ。
      https://youtu.be/0QdKdlyrC1w
  10. MMTを持ち出す人物らは、経済学の父アダム・スミスが着想し、商品の価値尺度である労働時間を価値尺度としての貨幣概念(=労働貨幣論)を、無知無教養の人には分かりやすいと思ったのか、貨幣発生の根拠の無理解の上に生じた、社会にケチをつけたい批判者や、経済学者を粛清したソ連(スターリン計画経済前夜)と同じ乃至は同義語を語っているに過ぎないのだ。
  11. “労働貨幣論”は、ユートピアの象徴でありカール・マルクスによっても批判されけれど、現在MMTを持ち出す人物らは、経済学の中に“労働貨幣論”が存在したことすら無知のようだ。MMT現代的貨幣理論は、そこで、ことさら「難しいけれど銀行融資や帳簿や簿記はまだ馴染みがある」とでも錯覚したのだろうか、「銀行通帳の数字記載」をマネー貨幣だと強弁、そう錯覚させて、要するに国の借金、個人借金、“借金そのものは数字だ!後で国民が働いて返せば良い(納税の原資は労働)”といった、乱暴な見解に過ぎないのだ。
  12. この、「働いて返せば良い(納税の原資は労働)」が“労働貨幣論”そのものなのである。そして彼らは、返済の話になると、話題を変えて他のことを力説することに徹している。はっきり言って彼らが、どのように“労働貨幣論”ではないと否定しその証明を試みても、そんな主張をすれば単なる無法者でしかないという訳だ。“馴染みがある”として錯覚をするには、20世紀初頭のドイツと周辺で、当時の社会主義者から持ち出された“労働貨幣論”が、もっぱら身近な生活消費用商品と労働時間との関連で論議が語られ、その思考パターンと同列の水準なのだ。“労働貨幣論”が成り立たないことは、その当時に社会学者と称されているゲオルク・ジンメルが、「貨幣の哲学」の中で立証している。(ジンメルは、労働貨幣論批判で社会主義者から今でも攻撃をされているが、ドイツではジンメルが、マルクスの未完であった「資本論第3巻」の理論を整理完成させた経済学だと評価されている)。
  13. 最後に、総務部メルマガの過去記事(労働貨幣論を批判)も再掲載する。
    §その典型が、緊縮反対論の松尾教授、財政拡大論のMMT論である。(2019/06/04)
     総務部メルマガ第206号:威勢のよさと悪口に走る:リーダー
    §MMTは、歴史の歯車を逆転させる社会主義経済(2019/09/03)
     総務部メルマガ第209号:マスコミの話のすり替えに騙されない、その真実は

[コラム3]≪ゲオルク・ジンメル:Georg Simmel、1858年-1918年≫

ジンメルは社会学者ということにはなっているが、その学問を築くために極めて詳細な経済活動全般の研究を行っている。
ジンメルの研究スタイルは、あえて体系的な形式を用いることなく遂行していることから、英米をはじめとする“何らかの観念を仮設して、客観的合理的論理構成”を常とする学者たちからは受け入れられなかったようだ。当時の世界経済の中心はイギリスだったから、ことさらに必要以上に裏付け証拠をジンメルが持ち込まなかったスタイルが気に入られなかったようで、当時も経済学者とは認められなかった。むしろ心理学的な表現方法が著作に多かったせいかもしれない。

ところが、彼の著作物からは、今日で言う“行動経済学”に出てくるテーマやそのヒントが目白押しである。ジンメルの示したテーマやそのヒントの実証実験を、主にアメリカの大学で実施されたのではないかと憶測するくらいに共通類似している。行動経済学はダニエル・カーネマンらが切り開いた分野であるが、ダニエルは2002年のノーベル経済学賞の受賞者であっても、自らのことを心理学者だと言っている。

そして、行動経済学の成果は、細かい流れが目に見えて確実な効果を、古典派経済学に比べて生み出しつつある。(今月の総務部メルマガでも紹介)。行動経済学をあれこれとあさる前に、ジンメルの書籍は高価格だから図書館で借りるなどして読めば得るものは少なくない。ただし先ほど述べたが、英米方式の論理構成の形式ではないから、日本で「いわゆる受験勉強が得意だった人」には、体系的かつ文脈の底流に流れるジンメルの“合理一貫性&事実一致性”を取り入れることは、ちょっとばかり困難かもしれない。そういった研究スタイルもあり、歴史的にジンメルの学説は、ナチスドイツの右系全体主義(ハンス・フライヤー)とか欧州極左全体主義(ルカーチ・ジェルジュ)などに、“良いとこ取り&ツマミ食い”された形跡があるのだ。

ジンメルの「貨幣の哲学」は経済学の研究の彼の集大成である。
筆者がジンメルから感じ取るには、彼は物事を、「形式で固めた制度と、(上位目線から見た)傾向と対策によって、本来は自由な市場経済とか社会が歪められている」と言いたそうなのである。そのジンメルの著書「貨幣の哲学」なんかは、ジンメルの読者が、心の底から恋をしている人に向けて、読者のあなたが朗読した方が理解しやすい、とでも言いたそうな文体である。難しい用語は出てくるものの、話口調の論理構成の展開で成されている書籍だ。それは書籍や論文が体系や体裁を優先させるが故に、より真理に近い概念とか文脈や底流が伝達できないといった宿命に陥らないように為された、ジンメルの論理構成であるのだ。
(総務部メルマガ 2018/08/07 から引用・加筆)

0 件のコメント: