2021/07/06

第231号:巷は転落、あなたの指針を持つこと

<コンテンツ>
今や、東京オリンピックに向け感染爆発

端的に。経済の庶民に至るまでの、悩みと課題とは

Afterコロナ、経済や社会は、何処へどうなって?

事業&実務に、直に役立つ科学法則、“美”を整理
  ・<実行に役立たない、巷の美に関する情報>
  ・巷の同調圧力を考慮し、敢えて心のデリカシーにまで踏み込み
     【共感性&文化差異を、巡り廻り、移ろう行動基準】

「人間の愚かさは繰り返される」式の愚かな論調
好機をつかんだら、毅然と実行するための参考事項
   1.文化cultura文明Civilizationの関係とプロセス
   2.“幸せと満足”
   3.自律Autonomyとは、
   4.社会学者ゲオルク・ジンメル 過去の哲学について


§今や、東京オリンピックに向け感染爆発
開催に向け=新型コロナウイルス感染状況の隠蔽、そして開催に突入した場合=ウイルス感染爆発は必至となった。海外選手の先行受け入れをもキャンセルする地方自治体が相次ぎ、メールで受け入れ拒否通知を送る切羽詰まった事態も出てきた。住民サービスに係る法的責任(住民の安全と健康)を持つ自治体からすれば当然の民間防衛の姿である。

突然始まった職域のワクチン接種は、国の打算と裏腹に、個別企業が自らを民間防衛する行動となり、国のワクチン接種スケジュールを頓挫させる事態にも及んだ。国のワクチン接種担当官僚の公衆衛生政策の杜撰さがはっきりし、国と全身全霊一致協力をして新型コロナウイルス感染対策をしようとする人は、ほぼ日本には誰も居ないことが露呈している。
首相官邸は孤立してしまい口先だけ、かつ空振り対策に、首相自ら知っていながら走るということは、社会学からすれば(まだ社会学が形成される前の20世紀初頭から)、為政者のそんな行動に走る様は見通され、愚か者でない限りマスコミニュースにすら成らない。


§端的に。経済の庶民に至るまでの、悩みと課題とは
を説明すれば次の通りのである。
①自由市場主義(資本主義)の中でも、ここ100年ほどの金融資本投資方式での成長スタイルが2008年から、そもそも不安定の極みに至り(一昨年秋以来)に水面下で危機に突入していたところ、重なった新型コロナウイルス蔓延によって、グローバル経済のその重要根幹であった、世界にまたがるサプライチェーン(最安値で仕入れるルート)が崩壊してしまって、さらに昨年4月からの「金融を湯水のごとく使い漁る量的金融緩和(QE)」で辛うじて、庶民も政府も息をつないでいるだけのことに過ぎない。
②先ほど述べた、この“100年ほどの成長スタイル”を引き継ぐ後継者が居なくなるといった、内部崩壊を自由市場主義(資本主義)が起こしてしまっただけのことでもある。大げさな陰謀論とか世界の裏で糸を引くとかの、大それたおとぎ話ではない。
要するに端的に言えばこの2つだけのことなのだ。
それをいつものごとく“目新しそうな用語”あるいはその用語の歪曲で、
 ・新封建主義(能力があれば金持ちになれる社会=新しい封建社会)とか、
 ・オリガーキーOligarchy(=寡頭制、=少数者が国家の支配権を握る政治形態)とか、
 ・メリトクラシーMeritocracy(個人の持っている能力によってその地位が決まり、
               能力の高い者が統治する社会)とか、
仰々しい、一般人が聞いたこともないような“目新しそうな用語”を持ち出す必要もない。かつ、敢えて仰々しく持ち出す理由は、“解ったような分からないような話の修辞学(レトリック)”で以って旧来からの用語の意味(プロセスとともにハッキリしている)を変質させようとする姿でしかないのである。現代貨幣理論(MMT)が社会主義の「労働貨幣論」焼き直しであるような話ばかりだ。ちなみに、「新自由主義」と言っても、経済学者ハイエクHayekが考えた学説を、弟子たちその他が都合よく歪曲した代物ばかりだ。
☆直面する日本の緊急経済政策は、総務部メルマガ6月号に示したとおりである。
   (経済恐慌の動向&個人消費(経済の下支え部分)は、)
    総務部メルマガ6月号

★これから長々と述べた歴史的な展開を知っていればこそ、こういった“目新しそうな用語”が、即座に誤魔化しであることが直ぐ解る。そう、ごまかす人たちは用語の紹介はしてもその歴史的解説とかプロセスに触れることはない。科学に疎いあるいは愚者ともなれば、誰が紹介しているかによって、「人間の愚かさは繰り返される」式イデオロギー(=科学的根拠も裏付けもない特徴を持つ)に乗せられてしまうのであるから。


§Afterコロナ、経済や社会は、何処へどうなって?
当座は、それに耐えうる個々人の生き方と個別企業のあり方について、
的確なAfterコロナに的が絞れるのか、それとも流されてしまうのかによって、
個別企業や個人の将来が、大きく左右する時期が来た。くどいようだがBeforeコロナの従来経験した姿にはならない。従来経験した姿を追っかけたならば、全てが累積赤字となる。
加えて、【考える指針】を持つことは、とても重要となる。
そこで、事業&実務に役立つ科学法則として整理を作成した。「図表1」がそれだ。
自由市場主義(資本主義)の発展は、近世(フランス市民革命前後)の文明Civilization定着とともに進んできた。それを通して歴史的に、“労働全般の取りまとめと十分な能力発揮”は、芸術性といった概念よりは広い範囲のArt域な労働全般能力がもたらすことが分かった。(Civilizationの語源は、礼儀正しさCivilityであり、Civilといった言葉の関係は興味深い)。

☆1 すなわちそれは、商品づくりにおいて、
“労働全般能力の一部である労働力で以って、「品物の綺麗を整え、労働全般能力で以って美しさを創ること」で、より高い利潤を得ることができる。”
☆2 更にそれが最小経済圏を超えて
“最小経済圏とは、数100年前の中世であるならば「市」の立つ範囲。=現代日本の社会制度であるならば中学校区単位。その範囲を超えて商品が流通(交通)することで、他地域の固有文化が流入することによって、更に、「綺麗な品物が、他地域の固有文化が地域の労働全般能力によって美しくなった固有文化価値商品に仕上がってこそ、「典型的な商品」として採算の取れる高利潤を得ることができるのである。”

・自由市場(資本主義)における「商品」は他地域に送られることで成り立つ。
・最小経済圏内と、その経済圏を超えることとでは価格決定方式は異なる。
・いわゆる、近年グローバル経済のサプライチェーンは、
 ここの価格決定を(似非原価積上げと)間違っていた。
 経済の流通構造を間違え累積赤字を招来した。
・日本の中学校区は、10,000校区ほど
  イタリアの最小経済圏は8,000程(=地方自治体数)だ。
☆3 ところが、自由市場主義に背き、闇で悪を行う輩が湧いてくる。
=彼らの特徴は粗暴乱暴で、ことごとく経済~能力~思考に至るまでを、向上させることを忌み嫌う特徴を持つ訳だ、人格とは関係なく。文明Civilizationからすれば未開である。

・労働力のみで商品を作る、
    それでは売れないから、安値で粗悪品を段取りする。
      (これがカール・マルクスの言う「搾取」であり、正当な経済経営から外れる)
  ・帝国主義の侵略戦争で以って、商品から労働力から財貨まで実態は略奪する。
  ・社会の内向きに閉鎖枠Zoneを設け、女性差別や奴隷労働で闇の財を蓄積すめる。
★前述の“闇で悪行を行う輩”、いわゆる未開に係る対応策は。
今日までの人類の英知、経済力や経済システムの創造、これらの支えとなる現在の“自然・人文(精神)・社会の3分野にわたる科学技術でもって克服することができる。
今の日本は、「いわゆる先進国から未開国へと転落した」その姿である。

☆あれこれ原因を論うにとどまらず、闇で糸を引く者の悪口を言うのではなく、
 好機をつかんで身の回りから改善し組み換えれば、
  →ほんの身近から好転換・好循環となる。
☆「品物の綺麗さを整え、労働全般能力で以って美しさを創ること」では、
  経済学的には商品が流通経済には至らない(地産地消)だが、
   たとえ「地産地消」の範囲であっても好転換・好循環を産み出し、
    →社会や経済の、実力ある基盤を構築することになり、蓄積が出来るのである。

☆そもそも日本には、それなりの実力ある基盤が地域に備わっていた。
  が、“それをペテンにかけられ、根こそぎ持ち去られ、基盤の残骸にさせられた。”
   これを、経済成長の過程で、組み込まれてしまっただけと
    認識するのが妥当なのだ、決して日本の習慣や風土といった物事ではない。


§事業&実務に、直に役立つ科学法則、“美”を整理
人間集団や人間関係が事業&実務を下支えしている。この仕組みが汚濁していれば、効率良い組織の動きにならない。
そして実に、この(図表1)に示した法則を裏付ける証拠となる事例は幾つでもある。
が、それは誰でも直ぐに見つけられることもあって、ここでは省略をする。

☆科学とは「何時でも何処でも誰でも使える法則性」のことで、
紆余曲折があるにしろ、現在から遡れる8,000年前からの記録の積み重ねの時系列を持っている。もちろん人類の遺伝子分野も含めて。
なお、19世紀までは、美の意味を完璧さや道徳的だと制限した時代もあった。その著名人は、
 ・社会学者マックス・ヴェーバー(1864年4月21日~1920年6月14日)、
 ・政治経済学者ジョン・スチュアート・ミル(1806年5月20日~1873年5月8日)
  お馴染み日本の渋沢栄一(1840年3月16日~1931年11月11日)等が該当する。
現代からすれば、それらは美の概念の発展段階で、現代では予想できない過去の概念だ。


【図表1】
現代の哲学・社会学を始めとした精神(人文)科学の分野(=美しい)、及び実際の経済や生活そして商取引に関わる経済や経営学の分野(=美しいと混同されがちな綺麗)を中心に整理した。

Art域 意欲・感動・希望

この3つがセット
になって
需要者側の受容
にハッキリ構築
されている。
美がArt域となるには、その美を増幅させ、感情移入と自己意識とのせめぎ合いの末に(コンテキストなどで)希望へと導かれ、心温まる心象が受け手の深層に残存させる。
そこには、作品にしろ商品にしろ、細かいところを大切にすることでの、芸術家の芸術を超える全人格が表現される。
綺麗という無機質なハードウェアではなく、敢えて不完全なソフトウェア部分の集合による、美しいとの、完全な全体に組み立て(広い意味での芸術性)られている。
美しい

(美)
ソフトウェアの評価

昔から、美と善はどこかでつながっている。
善悪の判断流れは、人類の進化に資するは善、進化阻害は悪だ。
美とは、人類の進化にプラスとなる遺伝子レベルでの、表象や事象による認識で、それは他人と共有し得る概念である。すなわち、共感Empathyをして感じ取るのだ。
ことに、後天的遺伝子の形成には700年程かかると言われ、則ち親の遺伝子ではなく祖先の遺伝子なのである。
美の美しい概念は言葉(記号)では把握ができない。
共感Empathyは=共感作用&共感精度で計測される。
きれい

(綺麗)
ハードウェアの評価

綺麗は無機質である

【各々の物理的把握】
・絵画は色彩
  =鏡・面の表象
 彫刻には
  +たなごころ掌

・音楽は空間把握

・詩は時系列の思考
水平垂直の軸を前提にしての、ユークリッド幾何学(距離:長さ、角度:面積、体積などの三次元概念)とか、黄金比とか、1/fの複雑系その他、人類が発見や発明をした、いわゆる物理的な範疇に根拠を置く。近々、古典的物理にとどまらず、カオス理論(2008年証明)や、量子力学(2012年証明)への多数の人間の理解とともに、綺麗の物理的な範疇は広がるであろう。
綺麗の形成は、パフォーマンスPerformance(職人技巧)であり、感情移入ではない。技巧を凝らすところの[ひと目で凄い]といった作業を優先する。それは、技巧を凝らす程に、刹那感とか残虐悲惨な記録に留まる持必然性を持つ。
社会学者ジンメル Georg Simmel は、従来の芸術の単なる技巧家について、「技巧がアルファでありオメガであるならば、その技にかけては最高の名手においてであれ、それは完全なものとは成り得ないのである。歴史的事実がこの定式をさらに原理的に保証している」との西欧文化的分析をしている。
可愛い
かなりのイメージ性
Mental-image

美しいとか綺麗の曖昧的表現ばかりか、妬みその他の自己認識から逃げるための、自己欺瞞の典型的手段にも使われるようだ。
イメージとは、感覚的印象が処理される、またはその処理された印象が想像の力を借りて呼び起こされる、その場合に進行するところの、心理的エピソードといったもの。
ある一部分は話せたとしても、知とか知識のように他人とは共有することができない。共感Empathyをして感じ取ることもできない。したがって“分かち合いShare”も“意思疎通やCommunicate”も出来ない。
イメージは、個々人の意識の内に於いて見ているだけ!のことである。その中身を精神Mind的に、どれだけ説明しようが、他人と共有できないのだから、伝達もできない訳だ。個々バラバラの妄想、かつ記号キャラクター妄想である。


___芸術等の仕組みを研究した 特記すべき参考文献___

・構想力の芸術思想(美の固有価値の復権) ジョン・ラスキン 2003/12/01 法蔵館
・橋と扉(ゲオルク・ジンメルの遺稿集) ゲオルク・ジンメル 1998/06/25 白水社
・芸術の哲学(芸術のための芸術=1914年著) ゲオルク・ジンメル 1999/06/25 白水社


<実行に役立たない、巷の美に関する情報>
★そもそも科学から、その道を反らす手法が、単純羅列&単純整理である。
それは学問ではあるが、AIやBigDataで単なる分析をしたとすれば科学の道から反らせる角速度が大きくなる。AIやBigDataでは、まだまだ、科学の方法技術である=演繹法・帰納法・客観的合理的論理構成その他に至るまで、加えて科学的には8,000年前からの記録の積み重ねすら抱えられていない。増して、カオス理論2008年証明や量子力学2012年証明の身近なプログラムさえ組めないAIやBigDataのプログラム水準の現状だ。それら現在のその方法(AIやBigDataの加減乗除+α程度)では、コロナ恐慌前の従前たる金融投資一辺倒如くの世界でならば通用したかもしれないだけだ。

①哲学における美?______
 (筆者コメント=科学的分析は無く、非科学に惑わる愚者の人気取り分析だ)
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2021/04/05 14:13 UTC 版)
美とは、価値観念、価値認識の一つである。人類において普遍的に存在する観念であり表象であるが、一方では、文化や個人の主観枠を越えて、超越的に概念措定しようとするとき、明確に規定困難であり、それ故、美には普遍的な定義はない、とも形容される。しかし、他方では、美は感性的対象把握において、超越論的に人間精神に刻印された普遍概念であるとも解釈できる面を持っており、美の定義は発散するが、美の現象・経験は世界に遍在してあるという存在事態が成立する。

②綺麗とは(https://dic.pixiv.net/a/綺麗)___
(筆者コメント=これでは、当たり障りのない、話の羅列に過ぎない)
 目に見て美しく心地よいさま。
 耳に聞いて美しく心地よいさま。
 よごれがなくさっぱりしているさま。清潔。
 やましい点のないさま。けがれのないさま。潔白。
 男女間の肉体的交渉がないさま。清純。純潔。
 きちんと整っているさま。整然。
 数式などにおいて、シンプルでスマートで無駄が無い様子。簡潔。

③可愛いとは_______
 (筆者コメント=これでは解説にもならず、人間の愚かさに使い道を任せている)
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(2021/04/15 13:58 UTC 版)
可愛い(かわいい)は、日本語の形容詞で、いとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべし」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。派生語にはやや意味を強めた「可愛らしい」、動詞の「可愛がる」がある。


巷の同調圧力を考慮し、敢えて心のデリカシーにまで踏み込み
これには2つ理由と厳重注意事項、妬みで生きている人の存在、の4つがある。
【1つ目の理由】
時代が大きく転換する時期においては、使われる用語とか言葉の、論理構成の“合理一貫性&事実一致性”の揺らぐ時代がやってくる。
★古くは1789年のフランス市民革命前夜、ディドロ初め既成の知的権威を否定し、自由な精神による進歩と共有を信じる『百科全書派』が戦った時代である。
★あるいは、第二次世界大戦におけるドイツや日本のファシズムが用いた、“支離滅裂さと似非科学”による言い逃れである。ちなみに、“合理一貫性&事実一致性”が確立されたのはナチスドイツを裁いたニュルンベルク裁判であり、その確立された趣旨は東京裁判にも引き継がれた。
★そして、ソ連スターリン時代に編み出された“言葉の概念のすり替え手法”、及びすり替え言葉の形容詞による思考統制(人民的○○、革命的○○、美しい日本などといった代物)である。総理大臣経験者Aの、2021年7月3日頃報道された「五輪に反対する人は反日的」との対談発言は、さすが祖父の代からスターリン独裁などを研究した手法(筆者もその手法の出版物のひとつを読んだ記憶がある)に基づいて、確信犯的に実行されたものと、筆者は受け止めざるを得ない。

【2つ目の理由】
現在、日本の行政機関を先頭に、大手マスコミ(ジャーナリズムから逸脱実態)に至るまで、第二次世界大戦時のファシズム乃至その後のソ連スターリン独裁における使用手法、さらには前述のような用語とか言葉が、時を追うごとに変質し腐敗あるいは退廃、しつつある。そこには、悪意や犯罪目的であることを知りながら、その擁護とか言葉を用いていることがハッキリしていても、“行政機関の長”も使っているとか、大手マスコミも逃げ口上や無責任な記事で溢れているとかを引き合いに出し、そういった使用例や、「みんなもやっている式」のモノを引き合いにすれば、悪意や犯罪の告発を免れる手段に使えるといった、無法者・ならず者を助長している側面は否めない。
はっきり言えば、“美しい”とか“きれい”の使い方は、次の3種類(部分的に重複)がはびこっているのである。
①成金とか富裕層の息子に娘を誘引し詐欺る場合に連発する使い方。
②自律せず無自覚がゆえに、“美しい”と“きれい”を中身も目的も解らない愚かさ。
③用語を、妬みや名誉権力等の自己認識を隠すための、自己欺瞞の典型的手段。
といったものにも使われる、最も頻繁使われるのは、かなりイメージ性の強い“可愛い”である。

【厳重注意事項!】
思考水準の低く浅い者は、学歴を問わず自分とは異なる意見を聞いただけで、『喧嘩を売られた』と認識し、敵対行動を脳裏に身構える。さらに職業能力も無い者となれば、精神圧迫・暴行・パワハラ等の経済外的手段に走り不正な自己防衛に走る。こういったことが、精神科学の行動心理学で証明されている。そういった彼彼女らは近視眼的二者択一思考であり、記憶力が秀でていれば知識偏重(思考)主義に凝り固まっている。Art域とか“美しい”に係る議論の相手には、彼彼女らを相手にしないことである。その人らの対策は、専ら行政やメディアに任せることである。

「綺麗に整え:美しく創りあげる技術」を妬む人たち。
「この技術を学ぶ。
    これの出来ない人物が、
      詐欺的不正→改ざんといった経済外取引に走るのである」

そもそも、人間は自律(autonomy)して生きる上にあっては、何等かの指針は不可欠であって、人間の多くは“美しい”を念頭に置いている。ただし、自律(自立とは異なる)ができていなければ、妬みや名誉権力に惑わされ行動基準が移ろうことになるのである。
増して、そういった行動基準にしがみ付き、収入を得て保身に走る人物も存在する。

【共感性&文化差異を、巡り廻り、移ろう行動基準】
http://www.soumubu.jp/intelligence/20210103_koudoukijun.jpg

そこで、実力を持って物事を実行し、いわゆる“成功と幸せ”を歩みつつある人たちが、その念頭に置いてきた“美しい”といった風な概念について、

①実際の経済や商取引そして生活に関わる
 経済や経営学の分(=美しいと
         混同されがちな“綺麗”)

②現代の哲学や社会学を始め芸術に至る
 までの、実力ある芸術家と社会学者らの
 精神科学(人文科学)の分野(=“美しい”)

の、二つの科学分野を中心として、
  決して単なる羅列整理ではないように、
    以上、美について分析した。


§「人間の愚かさは繰り返される」式の愚かな論調
それは、自然・人文(精神)・社会の各科学分野がなかった3000年弱前から繰り返してきて出てきた、“解ったような分からないような話の修辞学(レトリック)”である。科学に疎いあるいは愚者ともなれば、いつまでたっても、この、「人間の愚かさは繰り返される」式イデオロギー(=科学的根拠も裏付けもない特徴を持つ)に感化され支配されしまうのである。確かにイデオロギーの自由は重要な権利ではあるが、それは良心Conscienceの自由(1688年:名誉革命で確立)を全うした上での話であり、良心の歪曲悪用(内心にすり替え)をすればタダの嘘である。
歴史を振り返れば、1789年:フランス市民革命で以って、それまでの王様や領主そしてカトリックの乱れ誤魔化しと暴力で支配されていた共同体を、自由平等のために社会を形成し、文明Civilizationを築き、そのための武器として民主主義を用いた。その過程で自由平等&科学性&理性が貫かれ、今日の自由平等(=イギリスでは法の支配、日本では社会正義と言う)の社会に至っているわけである。

☆このフランス市民革命を通して、(自由を保証する制度の例)
・事業経営者の団結権(株式会社や有限会社)とか、
・民事の契約(一方の申し込みと相手方の承諾)概念とか、
・結果責任と原因責任を廃し、本来頼やるべきことに限った過失責任に限定、
・赤の他人に迷惑をかけた場合、金銭賠償で自由を担保する(不法行為)とか、
・“盗む”を、他人の(所有権ではなく)、占有している物を盗む行為と定めたことで、
……それまでの支配者の乱れ誤魔化しによる財物の独占を禁止したのである。

その17世紀から18世紀にかけての自由とは、「欠陥を持った自由」とブルジョワの自由だと一蹴する人もいるが、それは近代から見た過去を誤って認識する手法で正確ではない。ブルジョワジー(仏:Bourgeoisie)とは中産階級のことで、20世紀前半に極左主義者が扇動のために意味をすり替えたようだ。その17~18世紀の研究を行った社会学者ゲオルク・ジンメル(1858年3月1日~1918年9月28日)は次のように記した。

『すなわち個人の平等は、自由を正当とはしたが、現実にはなおまさしく不完全にしか存在せず、しかも、個人が妨げられることなき自由を獲得した瞬時に、結局はまごうかたなき不平等がたちまち新しい抑圧となろう。
すなわち 賢者による愚者の、
     強者による愚者の、
     好機をつかんだ者による臆病者の抑圧である。
そして、これに対する本能によって、自由と平等の要請になお友愛の要請が付加されることになったものと私には思われる。それというのも、友愛の概念が示しているような道徳的な自発的断念によってのみ、自由が平等の完全な逆を伴うということが避けられるからである。とはいえ、個性の平等と個性の自由とのあいだのこの矛盾は、個性の本質に関する当時の一般的な意識には依然として隠されたものであり、初めて19世紀がそれをいくらか……[遺稿の草稿欠落]』
引用=「橋と扉(ゲオルク・ジンメル 1917年著:遺稿集p.311)」

このジンメルが問題提起をした、個性の平等に関しては、インドの経済学者、哲学者であるアマルティア・センAmartya Sen(1933年11月3日~)が提唱したケイパビリティ(Capability)によって科学的に立証されるまで待たざるを得なかった。たぶん筆者が思うに、アマルティア・センは、ここまでのジンメルの存在を知らなかったようだ…。
歴史発展は途中で後退したり巻き返されたりするが、それはアカデミック特有の排他閉鎖性がひとつの原因と筆者には思慮される。が、今真っ只中のICT産業革命によってその閉鎖性も解消されるだろう。かの哲学者スピノザはレンズ磨き職人であったし、詩人ハイネはジャーナリストであり哲学者でもあった。

今挙げた社会学者ゲオルク・ジンメル(1858年3月1日~1918年9月28日)についても、当時ドイツでの評価でジンメルは、当時ドイツでのエリートたちの中心人物とも言われていたとのことだ。ただしジンメルが、哲学的流れに組み入れにくい存在であり且つ、いかなる学派にも所属していないという点に、学者としては列挙されずにいた、その奇怪さ(アカデミック特有の排他閉鎖性)を暗示している。現在、カール・マルクスの資本論第三部を完成させたのはジンメルであるとドイツの経済学は評価をしているが、肝心の社会主義国や社会主義系政党でそれを認めているところは未だに無い。(日本共産党は最近、カール・マルクス著作の一部をエンゲルスが書き換えたとその情報も入ってきてはいるが)。
ジンメルの同僚にはマックス・ウェーバーMax Weber(1864年4月21日~1920年6月14日)らの著名人は多い。ジンメルの教え子たちには、ナチスドイツの理論家とか、国際共産主義運動の左派理論家(ルカーチ)まで幅広いとのことだ。すなわち、教え子たちのそれなりの社会への影響力は、ジンメルが望んだものとは思われないけれど、第一次世界大戦後のドイツにしろ戦前戦後の国際共産主義運動にしろ、そういった勢力に関係している人たちへの教え子たちの影響力には、ジンメルから引き継がれた格別な洞察力や分析力そして論理構成があったのであろうと推測できる。
とはいっても、ナチスやソ連ボルシェビキの段階であっても、「人間の愚かさは繰り返される」式の論調であったことは間違いなさそうである。そして、ジンメルはナチスではないし、多くの左派系学者からは非難をされたようだ。どうも筆者が調べるところでは、ナチスも左派系も共通して、「運動を進める上で都合悪い事は採用しない」といった、筆者から言わせれば非科学的かつ、礼儀正しさCivilityの無い非文明的な態度は共通して伺える。加えて彼らが物事の裏付けとなる証拠は書面を残していないところを見ると、彼らの特徴は粗暴乱暴に至らざるを得ない。


§好機をつかんだら、毅然と実行するための参考事項
1.文化cultura文明Civilizationの関係とプロセス
人類は生存するための原点に経済活動を行っている。その最も重要な再生産は子供であり子育てであり、その安定した繰り返しである。
巷で間違って例えられる、民族は狩猟・牧畜・農耕のいずれかひとつを選択して集団や民族が形成されたといった歴史の事実は無い。
大まかには略奪経済、→封建領地経済、右向き→自由市場(資本主義)経済といった共同体の体制を経てはいるが、科学技術や社会運営技術(官僚組織とか民主主義制度など)に代表される近代の文明Civilization進展とともに変化を繰り返してきた。
その変化の根幹底流と言われるものが文化cultura(ラテン語)であり、そのツカミどころを理解しようと試みる目的で、人々は表面的には思考を分割し分野別学問蓄積の形態を用いている。
社会運営技術の柱は、自由平等の実現ための社会そのものの形成である。
そのための道具として民主主義(一定程度の社会主義)を陥っている。そして、戦後に基本的人権が加わった。
第二次世界大戦後の、劇的な科学技術進展の主なものは、抗生物質、プラスチック、食料価格の半減にまつわるものである。そして、今やICT産業が“afterコロナ禍”に本格到来しようとしている。

2.“幸せと満足”
それらの概念は科学的に解明されている。
科学技術や社会運営技術(官僚組織とか民主主義制度など)に代表される社会というものの形成された過程の上に、そこでの文明Civilization進展と共に変化を繰り返してきた。その変化の根幹底流と言われるものが文化であり、そのツカミどころを理解しようと試みる目的で、人々は表面的には思考を分割し、互いに絡み合っているからこそ分野別に学問蓄積の形態を用いている。
その際に話題となっている概念が、“幸せと満足”である。
近代以後の学問的解明で、「“幸せ”とは=社会や集団の中で自由拡大を認識する状況(カント)」そして、「“満足”とは=様々な集団の内部において、他人と比較して平均以上であると認識する状況(ダニエル・カーン)」であることが行動心理学で解明された。したがって、“厚生”を充足するだけでは、閉鎖された共同体関係内部にあっては満足をするかもしれないが、“厚生”自体は単なる“幸せ”を追求するひとつの道具に過ぎず、自由をもたらす一助に過ぎないということだ。そして、「“自由”とは=生活全般にわたり、自らが希望する他人に対する特定の人間関係を、労働生産や消費その他の行為を通じて自由を感じ取ること。その場合には義務も自由として感じられる(ジンメル)」にまでに、文化culturaについての共通解明にまでに、人類の英知は達したのである。すなわち、いくつかの選択肢から、そのいずれかを選ぶといった行為は自由ではない。
そして人間にとって、文化cultura文明Civilizationを経ることで形成された概念(社会に応じた論理の出現)が、意欲や活力を産むのである。ただし、“活力”とはいっても、アインシュタインが“活力”自体を解明し、それは単なる「エネルギー交換だ」、との文明的科学技術的な発見をするまでの幻想概念に過ぎなかった。したがって、“活力”の用語も次第に使われなくなる運命にあった概念の一つには変わりはなかった。

3.自律Autonomyとは、
自分で自分を律する法(決まり)を自らのうちに作る、そして実行する。近代初期には、科学的理論の根底として形成された。

欧米での自律とは、AutonomyとかIndependenceなどとの、様々な状況を表すことが仕様となる。直接・間接を問わず他人には依存せずに、自分で行為をするAutoの汎用といった概念だ。

4.社会学者ゲオルク・ジンメル 過去の哲学について
彼は、次のように述べている。(1858年3月1日~1918年9月28日)

・『事実。美とは何か、芸術とは何かを原理的に追求した大思想家たちが、美しいものに対する感覚を持っていたかどうかは、すこぶる疑わしい。カントもそうなら、ヘーゲルもそうである。そこから不感症の人間だけが感覚の問題について熱心に語りたがると、冷笑的な結論を描き出すこともおそらく可能だろう』。

・『ただ賢いだけの人間は、完全に賢いとすら言えないのである。偉大な芸術家とは常に、偉大な芸術家以上の存在だったと言って良いのだから。彼らの生の全精力が芸術活動に余すところなく集中され、そのうちに溶け込み、……我々は、そこに存在する生全体の法外な振幅と緊張を感じることができる』。

・『芸術家の純粋に芸術家として完全性は、彼が芸術家以上の存在であるということと不可分である。完全に自律化した作品にまで高まる本質表現の個性的な強さが、全人格という小宇宙に手足のように結びつき、そこから養分を得ているということと不可分なのである』。

(この3項目は、「芸術のための芸術」1914年著より引用)
【注意:(著者:村岡から)】
ジンメルの生とか生全体として用いられている「生」は、日本語の漢字の意味とは程遠い。著者の私から解説すると誤った内容になるであろうから、興味ある方は直に遺稿集手に取っていただくことを推奨する。橋と扉(ゲオルク・ジンメルの遺稿集) ゲオルク・ジンメル 1998/06/25 白水社であれば、p.35~60にわたる、1904年~1910年ごろに書かれた、「生と哲学」の部分である。他は、Netで、「ジンメル 生とか生全体」の検索をどうぞ。