2022/02/08

第238号:
広い人脈よりも、本当に頼りになる人物を見つける

<コンテンツ>
巻頭言
【ポストコロナ】の経済方向は、進化や進歩
ナショナリズムとArt域労働(芸術性)
  ・コラム【タクシーの中の腐敗したマネキン】
言語を劣化させない経済的意味と、そのチェックポイント
M&Aとは何か、今その美しい衣の内部では、
これからの経済活動に資する人物を見抜くには
「頼りになる人物」に成りえない人物を見抜く、歴史のヒント
  ・その2分野の①=彼らの、理念と生きる目的=
  ・その2分野の②=彼らの、思考方法や行動のパターン=
  ・コラム スイス政府 ☆『民間防衛』


§巻頭言
いよいよ新型コロナ感染による社会停滞はピークに達している。それは、今までの経済構造の矛盾による経済危機の事態を、このコロナ恐慌がその引き金を引いたわけだ。コロナ後(ポストコロナ)の経済方向と“個別企業や個人立ち居振る舞いのヒント”は、前回1月号のメルマガで提起したとおりである。

ところが、過去からの惰性と「経済の現状把握」をせずに、残念ながら他人に依存して生きる人たちが多いものだから、ますます新型コロナ感染は広がるばかりだ。いわゆるウイルス感染の季節要因は、まだまだ人類の科学的能力をはるかに超えているものだから仕方がないとしても、出来る限りの感染防御(防疫・消毒など)とか、早期発見&早期治療(発症時点の個人や自宅での対処法)とかの徹底がなされていないから、一向に蔓延は収まらない。まるっきり新型コロナのウイルスに、あの手この手変異株と翻弄されてしまっている。新型コロナ感染が発見されて2年も経つというのに、かつ抜本的治療法も2年前から直ちに示されているにもかかわらずである。

★人類の700万年に及ぶ進化の過程では、極めて不幸なことだが、
「自律心(自立ではない)と、開拓者心が養われていない人から、ウイルス感染などの犠牲になる」
……といったことは、事実であり真理であるのだ。
「幸か不幸か」などという運命論ではなく、それ自体は極めて不幸には変わりない。むしろ、権力にしがみつく官民を問わない官僚たちからすれば、“依存症の強い者”を下層庶民から切り捨てることが、正義であり・長続きする正しさだと思い込んでいるのだ。だからこそ、そこで「幸か不幸か」などという運命論が、官僚や公務員などの自律心とか開拓者心を否定される立場にある人の間で流行するである。「精神の自由があってこそ、己の過ちに気づく(ゲーテ)」これは、日本の中学生が、よく学校で教わる中身だ。それは、己の過ちに気づくことがなければ、教育とか学習が成り立たないといった原則にも因るのだ。

「領民が騒ぎを起こし、広まるまでは、為政者は対策を待つ」

これは、封建時代とか官民の官僚支配(全体主義などでも)においては、国民とか集団を収めるための帝王学である。それは、“領民の依存症”が強く“領民の本能化した習慣”が強いほど、その帝王学が当てはまるのである。

それは、新型コロナ感染以後の日本政府にも当てはまる。ところが、自治機能が働いている地方自治体とか個別企業では、民間防衛で対処するようになりつつある。帝王学の物の見方では、紹介したマスク装着状況、ワクチンの接種量と接種率の時系列が重要であり、「科学的根拠なんか“依存症の強い者”の説得材料の理解すらできないからどうでもいい」というのが保身の要諦なのだ。筆者の私も、その帝王学の専門家から20代中ごろ過ぎに教えられ、バブル経済失速までの時代には便利であった。一般の人は、それすら教えられる対象外だった。


§【ポストコロナ】の経済方向は、進化や進歩
組織とかネットワークの“自治機能”の充実によって、地元経済範囲の外へ打って出るとか、海外あるいは世界の経済有望地域への開拓にかかっているわけだ。中国にしろ東欧にしろ、いくら自然科学系の技術が優位だとしても、実際の利益率が高い商品を購入するのは文化水準の高い人たちだ。それこそ、そのマーケットの分析は人文(精神・気持ちや感情)科学の分野と、社会科学(経済学の基礎理論や社会学)が担っている分野なのだ。

その究極は、文化水準の高い人たちに向けて供給することと、地元経済の固有文化価値の強さが発揮された商品創造である。これはよく見てみると今に始まったことではなく、商品という経済循環方法が、自由平等のための“社会”という制度が定着しつつあるごとに広まった歴史とともに歩んでいる。
すなわち、芸術性とかArt域労働といった、商品需要者に希望を持たせる要件&要素が、商品の創造コスト~運搬交通流通コスト~販売営業コスト~改良&価値創造付加に至るまで、“供給側と企業側の共有”によって実行されることとなるから、高商品価値でありながら=費用価格や生産価格が軽減されることとなるのである。ここに、商品における芸術性とかArt域労働の導入の意義が存在するのである。
画一大量生産された商品は、最初のうちだけは需要者の“感動や意欲”を刺激はするものの、肝心な“希望を湧かせてつなぎとめ”、新たな需要者と供給者の創造をかき立てるものではない。だから、商品の将来は萎まざるを得ない運命をたどるのだ。無理に買い替え需要とか、不毛なコスト競争とか、スクラップ助長といった不誠実さを、ますます増強する経営とならざるを得ない。=これが、「資本主義の幼さが招く“経済恐慌”の繰り返しを招くのだ」。

ところで、先ほど述べた“社会”という制度とは、目的としては自由平等を、実現するための武器として“民主主義”用いる。先ずは最初に18世紀後半にフランス市民革命とアメリカ革命:American Revolutionにあって商人たちが活用し、後に労働者が活用し、現在は市民一般(住民)に広がっているわけだ。更にそれが、鉄道とかトラック配送&効率的自立手段としての官僚主義によって、現在と今後はICT産業革命の進展とともに、さらに“民主主義”が新しく進化することになるわけだ。

この“進化や進歩”は、実のところ口には出さずとも、「保守的な人たちの望むところ」なのである。そして現在の善悪を決める判断は、この“進化や進歩”に資するか否かといったレベルにまで進んでいる。過去の善悪概念しか持ち合わせのない人も、官民問わず官僚主義者でもなければ、この新しい概念には納得する。そして、日本の場合は、「保身的」な人たちは、自らを「保守層」なのだと勘違いしている傾向があるとされるが、だとしても、保身的ではあっても自己中心的ではなく、口には出さずとも、“進化や進歩”は、「望むところ」なのである。この「保身的」について補足をすれば『幸福というのは、精神の高いエネルギーが、低いエネルギーによって煩わされることのない境地。気楽というのは、精神の高いエネルギーによって、低いエネルギーが煩わされることのない境地』だとゲオルク・ジンメル Georg Simmel は述べている。


§ナショナリズムとArt域労働(芸術性)
20世紀初頭から華やかになっているナショナリズム。
そこでの「全般的生き方」に枠をハメられた芸術家を分析した研究者が発見したことは。

『戦争中でもその後でも。その国のナショナリズム、それは左右いずれであってもその類の団体であったとしても、“その支配権力に媚を売ってしまった芸術家”は、遅かれ早かれ自殺をする。か、あるいは芸術能力を自ら失うこととなってしまう』……と言う事実だ。

……ここで芸術家の取柄についての一言。
『芸術家は、論理学者に出来ないことができる。概念の内包を失うことなしに外延を広げることができる』。これも、ゲオルク・ジンメル Georg Simmel が述べている。

筆者が思うに、それは、絵画や映画の類では直ぐ判るが、音楽の世界とか文学の世界となれば、ナショナリズムの馴染みが強い国であればこそ、そういった事実には気づきにくい。また、先ほど述べた「審美主義」とか「耽美主義」で、幻惑やショックや心とかを傷つけられた圧迫でさえ、誤魔化され、それを芸術?だと勘違いしている人はきわめて多い。
幻惑やショックで翻弄するだけで、人それぞれに、何らかの“生きる希望”を湧き立たせないシロモノだ。それはひとえに、“芸術性とかArt域労働”といった事柄を教えてもらってないからだ。だから、芸術とかArtで、か否かいといった判断がつかないで、混同しているに過ぎないのだが。

画家?ダリの作品=
コラム【タクシーの中の腐敗したマネキン】

一方、付加価値をつけると称しながらも、実のところは“人にショックを与え、人を心身ともに傷つけること”による、高価格商品の売り込み方がある。

これを、体裁よく「審美主義」とか「耽美主義」とか、その他他人をごまかして「すごい」と言わせて、“その種のカモ”からの集金に走るわけだ。

この相手(“その種のカモ”)になる集団とは、
不労所得生活者とか“貴族?”の類である。
いわゆる、今述べたような集団に、「ロバの死骸を投げつけたら、お礼として金になる(画家と称するダリ)」というわけだ。
近年では、美術館にトイレの便器を芸術品と称して出品するやり口もそうだ。

§言語を劣化させない経済的意味と、そのチェックポイント
          (これは各国言語に共通とされる)
スマホの普及と“言葉を曖昧にせざるを得ないマーケティング”によって、意思疎通やコミュニケーションに不具合が生じるだけではなく、商品生産の流通にまで不都合が生まれている。芸術やArt域労働は、日本での製品やサービスの商品価値の根幹を形成する。
芸術やArt域労働の3大分野は、次の通りの働きを商品の価値形成を持っている。

絵画
(美術)
絵画は色彩=鏡・面の表象
彫刻には:たなごころ(掌)
音楽 音楽は空間把握
詩Poem 時系列の思考パターン
(感情移入) 感情移入感情移入の末に、
見終わり聴き終わると心温まる心象が受け手に残存する
<感情移入のプロセス>
 ①登場人物と自分
 ②リアルとバーチャル
感情移入は、芸術や道徳・理性力トレーニング

そこで、言語の劣化を防ぐことは、芸術やArt域労働の成果に含まれる考えを隠したり、他人の考えを煙に巻くとか妨害したりするための道具として、使わないために重要なのだ。
芸術やArt域労働といったものの研究が進むにつれて、科学や学問に裏付けされた技術が存在していることが分かった。それが、劣化した言語によって、芸術やArt域労働が損なわれないようにすることは欠かせないのだ。芸術やArt域労働とは異なる「審美主義」とか「耽美主義」は、そのほとんどが劣化した言語でのゴマカシで真意を覆い隠されている。

ここに挙げた、以下のチェックポイントは、昨年のメルマガ12月号でまとめた、
<■コミュニケーションとは何か>
http://soumubu1.blogspot.com/2021/12/blog-post.html#236-14
に引き続くもので、それは、文章とか言語を、書く人の考えを隠したり、他人の考えを妨害したりするための道具として使わないためなのだ。

1.印刷物で見慣れている隠喩や直喩その他の比喩的表現は使用しない。
2.不確実の「不」「と、無自覚の「無」、「~可能性」、「美しい○○」
       などは使用せずに、漢字や文字の多い単語は使わない。
3.単語の削除が可能な場合には、常に削除する。文章も短くする。
4.能動態が使えるところでは、受動態の表現は決してしない。
5.同じ意味の日常単語を思い起こす場合は、
  外来語、科学用語、職業専門用語は使わず、意味も誤魔化さない。

☆コツ=ポイント
これらの規律を守るだけでも、ネットで横行している分かりにくい文章表現とか、
知識偏重(主知主義)とがもたらす理屈めいた表現を避けることができる。


§M&Aとは何か、今その美しい衣の内部では、
何が流行っているのか? M&A(エムアンドエー)とは「Mergers(合併) and Acquisitions(買収)」の略である。
そもそも、新しい外来語が流行する裏には、何が行われているか、よく注意しなければならない。昔から、横文字を用いれば、大学生を初めとして専門教育のない者&教養のない者+職業経験の少ないインテリは、「すぐに引っかかる」のである。それは社会や経済が劣化してくれば一気に広がるのは、20世紀初頭からの世界各国の共通現象だったようだ。

また、日本の戦後経済史を振り返れば、合併といえば極めて稀な事業拡大の成功事例ではあった。失敗事例が買収といったイメージなのだ。元より合併は法律行為として行うが、「対等合併」とは法律行為としては存在しない。何れかの企業が吸収される“吸収合併”しか存在しないのだ。すなわち買収といった悪いイメージを偽装するための言葉が、「対等合併」だ。この偽装に輪をかけたものが“M&A”だと見なしてよい。その根拠は後で説明する。

いちばん肝心の、M&Aの経済的問題。
経済学や経営学では、戦後日本において成功が期待された合併は極めて稀である。どうしても産業自体が政府や政策を許にした金融投資が日本経済の柱であった。そこから高度経済成長の具体的処方は、先ずは大手企業の地方工場等配置を政府系投資銀行が後援した。次に、工場などの受け入れ地域では、政府系の商工中金が主導で地銀や信金を巻き込んで、雇用確保と労働力供給安定のための、住宅インフラ・食料供給加工・その他消費にかかる中小企業の起業&育成を行ったのである。ことに、地方の“中小企業の起業&育成”は、今でも経済学者の多くが、「中小企業主の尽力とチャンス」によるものと思っているようだが、実にそれは錯覚である。この“起業&育成”を研究した成果などありはしない。要するに、地元の資産家に向けて、この“中小企業の起業&育成”の話を持ちかけ、金融投資(融資)を約し後援し、その地域での大手も中小も“手を組んで盛り上げた”に過ぎないのだ。私=筆者も、そういった推移を目の前で見てきた。だから、「尽力とチャンス」などは存在したわけがない。苦労したと口にはしても、それは“身の程知らずの慣れない人間関係での摩擦”に過ぎなかったのだ。人脈でも何でもない、構築された管理枠内なのだ。

そして、こういった背景が、現在のM&Aブーム?に影響している。
読者のみなさんの気づきのヒント(それは現象であって本質の根拠ではない)として挙げられるのが、M&Aブームのターゲットとされている経営者のピークが、年齢が50代後半だとされていることだ。それも、先月半ばのNHKラジオ放送のインタビューでM&A業者が説明をし更なる流行を煽っていた。すなわち、年齢50代の両親等の後継者であり、少なくない事業は高度経済成長期に起業&育成をされたものと推察されるのだ。ここで推察と表現したのは、その経営者の家系自体が旧資産家で、“年齢50代の親の後継者”というのは、「何の苦労もせず・親も苦労しておらず・事業を起こした祖父たちの苦労も見たことがない=おぼっちゃま」が狙われているというイメージを述べたいがためである。そう、「年齢50代」は意識的に狙われている。狙われた標的は、持ち上げられ白昼夢を見て、“浮かれて喜びのうちに詐欺的カラクリや犯罪の被害者”にされている訳だ。それも、【自信過剰な50代のおぼっちゃま】のままに。

そこで、経済学や経営学の真価が発揮される。
要するに、もとより杜撰な金融投資を進めた場合、融資された資金は使い果たすのだけが上手(公務員の如く)だから、日本経済の戦後においては、非常に多くの大手企業や中小企業が当然のごとく行き詰まった。あげく合併(合併と買収・吸収合併)を繰り返したのである。そうやって不良債権を積み増し、一気に合法的にご破算したのだから、実体経済の何処かにはそのしわ寄せが押し付けられている。加えて、こういった方法は欧米とは極めて異なり、実体経済破綻の日本的特徴がここにある。チャレンジの資本主義社会システムではなく、連帯保証人に責任を取らせる封建時代システムなのだ。シビアな学問的定説はこれである。
もちろん、経営者のご機嫌伺いや太鼓持ちの道を歩む学者とかジャーナリストは、「真意を抜かす説を述べて、この罪」を犯すのである。秀才であっても、こういった罪を“知っていながら過ごす”わけであるから、法律概念でいう悪意には変わりはない。芸術域に達する経営者・学者・ジャーナリストであっても、“実行力”がなければ=“行動力”だけでは、この罪を犯すことになる。だから、緊急避難として、有能で実行力を持っていても、沈黙を守るKeepことが多いのである。オマケに、科学や学問を学ばないから愚かであり、詐欺的カラクリや犯罪の被害を、直に簡単に受けてしまうのである。

【M&Aの衣の内は、不誠実の渦潮なのだ】
日本経済転落とか製品やサービスが売れないといった背景には、人々の人生を懸けて培った職業能力が、M&Aの甘い誘いや金融投資の誘惑によって、組織的に破壊されていることは確かだ。なので、労働者の技術技能蓄積のない中国や東アジア諸国の画一的商品手法(究極はコストダウンとかダンピング)に追い越されるのである。もちろん、M&Aの標的になってしまうと、“一瞬のあぶく銭”をつかまされ、後は転落していくことも当然だ。ここで、いくつかの警戒ポイントを示すと。
①一昔前は、倒産の前に廃業・休業するも、資産のあるうちにマンションを建てた。
     (これを経済産業省は、「中小企業の新陳代謝軟着陸」とした)。
②資産とか人的資源がなければ(M&A業者は持ち上げる)、売値は付かない。
     (典型的な人材派遣業などは、政策産業であり営業権はゼロ)。
③資産の評価、買い手の川下の様子、現有諸資産のマーケットをよく調べること。
④M&A契約が正当であるならば、個人の実印など使用しない。
 ・印鑑証明が、実印を使用する翌日から発行できないよう実印廃止を。
 ・実印の陰影は、硫酸紙などで写しとられ、連帯保証人実印の偽造も可能。
⑤抵当権設定解除その他の、権利義務を構成する諸証明書は厳重管理。
 ・M&A業者の紹介した司法書士は避ける、書類の間隙で詐欺られる。
⑥今も廃業休業回避して、細々とでも商品を扱っているのであれば
 新しい経済構造に見合った経営スタイルは、必ず構築できる。

総じて言えることは、
『M&Aは、間違えれば、将来を見失い、
      拝金に走る姿である、宝くじにでも当たった時のように』。


§これからの経済活動に資する人物を見抜くには
新しい事業展開に踏み出すには、今日の経済破綻を招いた制度の、組織的に繰り返された弊害を除くことである。
それは、近ごろ終焉が話題となっている国民国家を支えるナショナリストだ。彼らは日本において、新自由主義を偽装して私欲をはかるばかりで、そのために、歴史上最も高度な独裁とされるスターリン全体主義を真似て経済を後退させた。
そのABEnoMixに群がる信奉者は、与野党勢力に群がっている。そこに左翼右翼を問うことはない。左右勢力や宗教がらみを問わずナショナリストは同じ傾向だ。
すなわち、戦後または戦前に成功体験をしたかの?そんな過去を呼び戻そうとする人物の思考パターンの経営管理コントロールに頼ってしまうとか、横槍を入れられてしまえば、ICT産業革命からはコボレ落ちる。本来のイノベーションも、真実のDX=Digital Transformationも、成し遂げられない。イノベーションもDXも、理念や前提において、そういった彼らは“頼りになる少数の人物”からは除かれている。

“自律心(自立ではなく)”や、“開拓心”に対抗する勢力は
どんな人が、どんな徒党を組むのか。 それは、国や民族そして左右思想を問わないものであり、古代とか封建時代といった時期に、人々が歴史的に抵抗して、その意味では成功体験をした事例の信奉者なのである。同僚や部下を自分の子分にしたいわけだ。 “イデオロギーの自由”の概念には、自然・精神(人文)・社会の3分野の“科学的根拠”は含まれていない。このイデオロギーとは法律に先立つ共通概念だとか、法律用語のCovenant(成文化されない数千年前からの契約概念等)とも異なるものである。このイデオロギーも子分作りに使い勝手が良い。 そして、「人気のある人は、必ず同時に、エゴイストでもある」。

§「頼りになる人物」に成りえない人物を見抜く、歴史のヒント
このヒントのリストは、厳しいようだが、そういった人物を見抜くためのヒントだ。
afterコロナの、最初の一歩を踏み出す前には、経営中枢の内と外での、
“本当に頼りになる少数の人物”が必要なのである。

その2分野の①=彼らの、理念と生きる目的=
ナショナリストといった視点から
ジョージ・オーウェル
George Orwell(ジャーナリスト)
全体主義者といった視点から
クロード・ルフォール
Claude Lefort(実証研究哲学者)
(ジョージ・オーウェル著、「ナショナリズムについての覚書」から引用)
『あらゆるナショナリストの普遍の目的は、己自身の権力と威信ではなく、己の個としての存在を、そこに埋めることに決めている種族の権力と威信、あるいは種族以外の権力単位の、権力と威信を拡大強化化することである』(上記著作p.51から引用)
これに対して、
愛国心とは、特定の町や村の地域や、その地域のある生き方への献身のことだ。その場合、その献身を他の国民に押し付けようとすることは無い。

続けて、
『愛国心はナショナリズムに対する予防接種であり』
『君主制は独裁制に対する防護物であり』
『伝統ある組織の宗教はすべて迷信に対する防壁である』
(上記著作p.88から引用)
1.左右いずれもの全体主義者(ファシスト)の企ての概略には、次の形式現象が浮かび上がる。
①彼らの秩序というモノの裏側には、末端での無秩序がはびこる。
②健全な道徳や身体の例え話に対して、彼らには堕落が目立つ。
③「輝かしい未来」とする期待への内側には、自らの生存と地位の取り合い闘争が生まれている。
④権力支配の内側に、官僚らの“官僚主義的対立”の激しさが見える。

6.「自分と皆が同一だ!」と主張、
それを隠れミノに権力を振るう。
①その権力を振るう者は、私的利益のために動く構成員に囲まれ、
②国家と経済・社会との間の区別を否定し国家が介入干渉を繰り返し
③あげく、国家から相対的に自律した生産・交換関係を保証しなくなる。
………………
全体主義者は、資本主義の発展条件を根底から崩壊させていく。

☆afterコロナにおける、人材教育の視点は、すでに発見されていた。
何も、戦後はたまた戦前に成功した過去を呼び戻そうとする人物の思考パターンに耐える必要は全くない。そんな過去の思考パターンは、過去にしがみつきたい人物の安心感を得ることができるが、事業は一気に崩壊する。
さらに詳しく述べれば
①極めて初歩的な作業に関する教育とか訓練は、
 ハーバード大学式の「海軍:山本五十六方式=
   “やってみて、やらせてみて、ほめてやる”」ではある。
②だが、それを超える能力は、教育したり・説得したり・言い聞かせるなどは無駄。
③本人が、自ら気づき、次に示す4つの領域”に達するしかない。
<ICT産業革命に欠かせない認知心理学は確立していた>
総務部メルマガ:2021/06
④日本の現在と過去の
 常識としての思考パターンにはそれがない。
⑤素直で柔らかい頭脳ならば、
 小学校3年生だと思って実行すれば実がある。

では次に、日常茶飯事(にちじょうさはんじ)に現われる ↓ 彼らのパターンのヒント。

その2分野の②=彼らの、思考方法や行動のパターン=
ナショナリズム、その思考の主な特徴
ジョージ・オーウェル(説)
全体主義、その思考の主な特徴
クロード・ルフォール(説)
【偏執(へんしゅう)に走る、
 妄執(もうしゅう)に固執】
自分自身が属する組織の優位性、それは政治的長所?を超えて芸術から肉体美に至るまで、あらゆる物事に優れていると主張したがる。とりわけ、属する組織の用語を広めたがる、まるで、その言葉や用語を広げる義務のように持ち込む。そこには科学的根拠は、ほとんどの場合見当たらない。
日本では“漢字に魂”を込め、“肉体美を競う変質者まで現れている。
5.全体主義者の理屈や論理展開では、次の3分野の区別を錯覚する。
①権力の秩序に属するもの
 →経済構造や労働政策など
②法の秩序に属するもの
 →裁判所の判断や社会制度
③認識の秩序に属するもの
 →文化や習俗、家庭そして
  社会生活に係る共通感覚等
  ……これを複雑に絡め、彼らの、口先だけの政治スローガンを述べる中で、つまみ食いをし、結局はごまかす。
【不安定】
彼らの母国や出身地域は問われず、その忠誠心は強烈であっても、種族(国や民族)の差し替えとか、移り変わりといった「不安定さ」は、彼らからすれば普通である。
確かに、“国民国家”が唯一、人種差別なく出世できる社会ではあった。
日本=都市部の「右翼系街宣車」運行は、専ら東アジア系外国人が多い。
4.専門教育のない者&教養のない者+職業経験の少ないインテリ
①こんな者達が全体主義者らに、理屈と行動で惹きつけられる。
②彼らは粗野で無教養の人間を、理屈の自発的代弁者に仕立てる。
③インテリを組織や担当の口先ばかりの行動の、率先的任務者にする。
……「一つに!」と叫び、とにかくTopも末端も、無理な一体化を図る。
【現実への無関心】
過去は変えられるという確信に取り付かれ、都合良い解釈通りに歴史が起こったと信じる。客観的な事実やその事実関係には無関心で、都合の悪い事実は記憶からも消え去る。
(合理一貫性も事実一貫性もない)
3.全体主義は、気付かれないよう統制、規範化、画一化を、やりたがる。
①習俗、嗜好、観念など社会生活の中でも目に触れない事柄に向け
②最も自発的で、最も捉えがたい要素が見受けられる事柄について
③究極は、生活様式、立ち居振る舞い、意見の多様性などを拒絶させるようにと、口うるさく仕向けていく。
……それだから、技術者、管理職の仕事が、各自の責任でなされない事態を招く。
【彼らの是とされる心理】
ことにナショナリストは、公務員とか官僚、また左右の諸団体や新興宗教を問わず、個人としての自分を捨て、自分を埋没させる対象として選んだ“国家とか組織”のために尽くすといった人生観を、是として務めるのである。
これは、実に世界共通して、国民国家では扱われていた。
2.全体主義の活動をする者は、人を操ろうとする。矛盾を抱えてでも、それでも操ろうとする手法を是とする。
①左右や宗教カルトを問わず、彼らは組織の中に溶け込もうとする。
②目配り任務にあたる組織者・活動家・大衆動員責任者地位を占める。
よって、彼らの知らない事、予期しない事は、全て「敵」の形象と映る。
<注意点>クロード・ルフォール(説)の全体主義をまとめた部分は、およそ5年前の、総務部メルマガ2017/05/09第181号の記事を加筆修正改訂したもの。あえて、5年前当時の箇条書き項目番号を残した。


コラム スイス政府 ☆『民間防衛』
http://amzn.asia/4sk1O6q スイス政府の編集(の推薦・書評)
【総務部メルマガ 2017/05/09 掲載を加筆修正】

全体主義者のイデオロギー訓練とは、
★「責任を感じさせなくする」訓練で、
①人間社会生活の法則を、
 全体主義者は勝手に作り上げ(押しつけ)、
②この法則に基づいて、
 人間の行動を規定するといった具合だと記す。
……このようにして、
 人間の自由な思考と行動に対する
    責任感を無くす訓練をするとも記す。

★★加えて、
“労働者階級”の絶望と空腹の状態を、
 全体主義者は充分に活用してくるとし、
続けて、『最も経済効率の高い戦法、……
つまり、最も安上がりのヤリ方は、常にあらゆる方法で、その国を経済的沈滞-不景気に陥れることであると指摘している。
『腹のへった者は、パンを約束する者の言うことを聞くのだから』
(p.244)と解説する。
~すなわち~
彼ら全体主義者の手口は、「心理的に侵略しやすくする」ことだとの警鐘注意の説明をしている。これらは、戦前日本の「贅沢は敵だ!」とか、「欲しがりません、勝つまでは!」の気合の話と共通している。

……戦争や天災で、消滅した都市は、一つとして歴史には存在しない……
~具体的な事態に対して~もちろん、この書籍は
 核兵器、生物兵器、化学兵器、堤防破壊に対する個々人の防御・対処方法。
 消火活動、救助活動、応急手当を具体的やり方も説明している。
 全体主義者に対するレジスタンス、住民の初歩的抵抗方法も解説している。

~スイスにあっては、徹底して個々人の自由と独立を第一とし~
『両親、教育者、教師、ジャーナリスト、作家、芸術家、これらの人々は、スイス精神を国民に植えつけ、自己主張の意志を強化しなければならない』(p.163)とまでの呼びかけを行っている。日頃から、『市町村、州、連邦の役目は、この思想の自由な発展を力の限り促進することである』(p.163)とし、特に政府当局の仕事として、「(スイス国民の)精神的抵抗力に対する敵の攻撃方法を模倣するためにではなく、我々の防戦に必要な資料と知識を得るために、詳細に研究させることである」と極めて抜本的に具体的なのである。
スイスは日本と文化は異なり、あまりにも自由・独立・民主主義へのアプローチとか、スイス文化の思想表現が日本とは異なるので、テクニックにとらわれず、是非次の YouTube も参考に、深いところの理解もどうぞ。
「民間防衛」スイス政府刊より-自由と独立、民主主義、防衛について