2006/11/06

第55号

いよいよ、2007年を迎えるに当たって、いわゆる「2007年問題」にどう対応するかが、課題となってきた。
ところが、識者によって、2007年問題の見通しがバラバラであるから、どのような具体的対策をとれば良いのかの方針が策定出来ないのである。
そこで、先ず、いくつかの2007年問題に対する要因あるいは仮説を紹介してみる。
そもそも2007年問題とは、CSK社長の有賀氏が持ち出した言葉で、その当時は、
(1)団塊の世代の60歳定年によるマーケティング変化
(2)日本の人口が2007年から(ただし、2005年から)減少に向かう
(3)大学全員入学時代
(4)新築ビル完成
などのマーケティングに関するものであった。団塊世代の主力商品、スーツ、ネクタイ、雑誌、飲み屋の消費が減少するとのエピソードまで出て来た。それは無理もないことで、日本の消費経済の全てのマーケティングは団塊の世代の消費傾向、ベビーブーム、小学校入学とともに学校設備、受験とともに大学増設、「中教審答申」、団塊世代の就職、ブライダルと出産、住宅建設、団塊の第二次ベビーブーム、そして60歳定年を迎えた人たちの退職金目当てというように、社会と共に変化できたからだ。

労働市場においては、
・昭和22年から24年生まれの団塊の世代人口680万人
・そのうちの520万人が被雇用者で
・次々と定年を迎えるのは214万人
というふうに見られるのだ。見ようによっては、たいした数ではない。また、年間退職者数は130?140万人であるが、実際にはプラス10万人程度の影響ではないかと見ているシンクタンクもある。
しかしながら、当初は、2007年問題を単なる労働人口減少と見てしまい、大して技術開発もせず、大して工場の機械化をしてこなかった個別企業にとっては、顔を青ざめさせるような話と映ったようだ。だが、このような「戦前の満州進出」と同程度の人海戦術経営の発想は、経済学的な分析によって、短期間のうちに消滅して行った。日本経済が大まかながらも、高付加価値製品&高水準サービス商品の提供に進んだのも、日本の文化水準が(経済学習得者も含め)、高いからであった。

ところで、原点に返っての当事者の意識はどうなっているのだろうか。多くの経営者からすれば、団塊の世代は2007年からは定年で自然退職することになるから、退職金の財源措置さえしておけば、「待ちに待った2007年問題」であったのだ。
労働者からすれば、モーレツ社員と言われながら精神力と強気を保ってできた後の、いよいよ60歳定年であったのだ。そこに年金問題が水を差した。団塊の世代にとって年金は、「老後のための蓄えの役割」と厚生省から説明されて来たから、社会保険のある正社員にとどまり保険料が高くとも支払いを続け、そろそろリタイア設計を考え始めた時点での年金減額改正であった。
そして、企業が必要とする人材については、実のところ、とりたてて政府に継続雇用などの措置を取ってもらわなくとも、日本で定年制度を導入した昭和30年代から、必要な人材は定年後も雇っていたのだ。

次に、年金財源ひっ迫のために、政府主導で高齢者雇用継続の措置がとられた。継続雇用措置年齢が
・平成19年3月31日までは62歳
・平成22年3月31日までは63歳
・平成25年3月31日までは64歳
・そして4月以降は65歳
となっている。ただし、ほとんどの企業で、2006年4月1日から3年すなわち2009年3月31日まで(中小企業は5年、すなわち2011年)の間は、事実上の緩和措置となっている。突然降ってわいたような政策に対して、継続雇用制度で年齢延長を派手に謳っていても、運用でゼロを追求する企業も多い。継続措置をとる者は、ABCDEの五段階評価のうちABCに限るとか、直近三ヵ年の健康診断で異常が認められなかった者に限るとかで、定年退職しても年金支給開始年齢までに(雇用保険失業給付の穴埋めを考慮しても)一定期間の空白が生じる手法となっている。はたして訴訟を提起された場合、このような手法を裁判所が違法とするかもしれない危険もはらんでいるようであるが、結構、さほど研究もせずに継続措置をしている企業も多い。

何れにしろ、技能者といわれる人たちを中心に、相当多くの定年退職者が発生することは間違いなさそうだ。だが、年金受給開始までの収入見通しや、年金政策の不安から、何らかの形で働く団塊の世代は多いものとみられる。
主婦の立場であっては収入を補うためにパートに出たいと希望する人も多いであろう。
妻の年金分割権が始まるとはいえ、熟年離婚の増える見通しもない。
働く事しか知らない世代であるから、メンタルヘルスの必要性からも、働き続けるしか生きがいを見いだせないのではないかとの観測もある。
団塊状態であっても、
何れの方向性にしろ組織性の弱い者から退職していること、
比較的技能が低い者から退職して行くこと、
とは言っても保有能力には企業間格差が見られるのである。

最も大きく重要な変化は、
団塊の世代における非正規雇用への切り替えを引き金に、一挙に非正規雇用がどの世代にも浸透して、日本の雇用形態が一転して様変わりする第一歩になることである。今年の労働白書でも、パート・アルバイト、契約社員、派遣社員などの非正規雇用が拡大傾向にあると報告している。団塊の世代の賃金原資が減少することから、「団塊の世代一人分の賃金で、二人の雇用して、人手不足解消?」との、計画を練りに練っている個別企業も現れているのである。団塊の世代を受け皿として、新たなビジネスチャンスも生じるが、社会基盤の大変化として、十分研究して、事に取り掛かる必要がある。

いわゆる「暗黙知」とか、ノウハウの属人的蓄積問題がある。
団塊の世代が退職してしまうと、このような技能発揮システムが消滅してしまうので、生産維持、技能継承が出来なくなるのではないかとの危惧である。しかしながら、「暗黙知」や「技能継承」問題は、長期的な別要因から生じているとするのが、もっぱらの分析結果である。すなわち、これらの問題を分析しなかったが故に、生産技術開発が遅れ、商品開発に生かされず、比較的には付加価値・利益率の少ない事業にしがみついていたとする研究結果なのである。したがって、このような低水準の経営管理は、日本経済のこれからの主力となる経営管理システム方式から除外されたといったところなのだ。



◇◇◇ コンプライアンスに関するインテリジェンス ◇◇◇
グローバル経済・社会への転換、社会変化に対する意識変化などで、日本の社会のあり方、個別企業運営のあり方、身近な社会共同体のあり方が、様々な混乱を引き起こしている。その現象が、勝ち負け格差構造、ニート、いじめ自殺、世界史不履修、飲酒運転といったような混乱・事件ではないかと見た方が妥当だ。これに対して、良識ある人たちは、コンプライアンスでもって新しい時代への秩序を切り開こうとしているといったところだ。だが半面、社会激変が進行する中での、高学歴エリートたちに刹那的・無気力さが蔓延し、ホリエモン、村上ファンドなどの経済犯+倫理事件のような「爆竹炸裂現象」ともなっている。エピソードをあげればキリがないくらいに、政府省庁、裁判所、個別企業、町内会自治会に至るまでが、旧来組織が形骸化・運営かじ取りの失敗を引き起こしているのが現状である。社会(社会共同体)の新しい適正なあり方への再編成が進んでいるなかで、再編成されずに淀みが生じているところに世間体が持ち込まれ、数々の倫理観欠如事件に陥ったと見ても良いのではないだろうか。加えて、生半可にコンプライアンスを、「法令遵守」とか、「法令等遵守」あるいは、「法令・倫理遵守」などのように文字通り解釈し、実務上意味不明な綺麗事で済まそうとするものだから、統治能力欠落、形骸組織優先、世間体優先、自浄作用喪失と、ますます裏目に出て混乱を招いているようだ。

そもそもの、コンプライアンスの底流基本理念とは?
大雑把な話になるが、1950年前後、第二世界大戦の教訓から「自由と民主主義」の理念に「基本的人権が不可欠」であることが確立した。1960年代のアメリカでの公民権運動やベトナム反戦運動の影響を受けて、日本でも1960年代後半から70年代にかけて「社会共同体のあるべき姿(社会合理性)」が論じられ団塊の世代以降に定着した。「公正としての正義」とか、ゲーム理論や合理的選択理論の手法による「新社会契約論」とかいわれるようなものである。1980年代に至ると、いわゆる「手続主義の法パラダイム」が取り入れられるようになり、自由平等や権利に関する手続の正当性・相当性が重要視されるようになった。このような一連の社会共同体の理念構造がコンプライアンスの底流に流れている。
ところが、これを無視して法令文言などを杓子定規に進めるものだから、形式は装う(面従腹背も含む)が、倫理的な間違いを起こしてしてしまうのである。法律家の人たちが使用するリーガルマインド(残念ながら素人には説明してくれない)は、コンプライアンスと、ほぼ同義語なのである。
とりわけアメリカでは、訴訟社会(日本と違い訴訟は弁護士を通じて行う制度)となってしまった現場から、法律を知らない状況に置かれることは少ないとして、手続を取らなかった者に法的責任を負わせるまで進んでしまっている。日本においては従来、社会合理性などの判断はもっぱら司法の独占分野とされ、少数精鋭の裁判官・検事・弁護士でもって維持(日本では一般人も訴訟ができる制度)する仕組みが戦後続けられて来たが、「手続主義の法パラダイム」とか法律の周知徹底の流れを汲んで、現在の司法改革に至っている。すなわち、一般国民を社会合理性などの判断について社会参加させるかどうかが、司法改革の重要論点であったものであり、一定程度参加の方向となったのである。行政における、経済活動分野についても然り、社会合理性の適否について一般国民に参加(公正取引委員会など)を促している。公益通報者保護法(内部告発)もそのひとつの手段だ。人事労務分野においても、就業規則の合理・合法性と周知徹底を図ることと同時に、労働契約法を制定して社会合理性と手続相当性の下支えをして、コンプライアンスを徹底させようというねらいなのである。すでに紛争調査委員会も機能しており、労働契約法制定とともに、機能強化が図られる予定だ。
そもそも、コンプライアンス自体を社会制度の運用に取り入れる考え方は、経済活動において競争をすることによって人々のエネルギーを集中することが経済発展につながると理念づけ、その競争が正当に公正に行われるためには、コンプライアンスに基づいて法律や倫理観が機能することで保たれると、コンプライアンスを機能づけているのである。たとえ競争によって、「物事の比較行為が始まると紛争も増加する」といった社会傾向も覚悟の上なのである。WTOその他の国際経済活動の正当性や公正性といわれるところには、コンプライアンスが基盤となって働いているから、日本国内と言わず、個別企業の経済活動において重要視しなければ、たとえ優秀な技術開発や製品であっても経済から排除されることになる、といった具合だ。
よって、コンプライアンス → コーポレートガバナンス → CRSの順序での取り組みが行われる論理展開となる。さて、その後はじめて、具体的な規則・規律、法令等の手法を使用するといった具合になるのだ。個別企業といえども社会や経済を扱うには、外来語の流行を追うばかりでは混迷を極め、コンプライアンスの底流理念の理解に至っては、話は戻って高校時代の世界史履修が不可欠なのである。