2021/03/09

第227号:芸術性のない商品や事業は廃れる

<コンテンツ>
コロナ禍も金融危機も、その経済情勢は二転三転
芸術性のない商品や事業は廃れる=法則とは
 [コラム1]明治政府は維新直後から外貨を…
コロナ禍で、芸術性不可欠は誰の目にも明らか
 [コラム2]音楽の世界では、音声や弦楽器の…
現在、“まったく無意味な仕事”に携わる人物たち
    ★それら人物の仕事とか職業とは、
    ★戦後日本の経営者(被害者)たちは、
人をケアするサービス 八策
      =Art域労働版に改訂(2021年3月9日)

 [コラム3]油絵具とキャンバスの発明…
アートArt域労働の、仕事の法則、“製品やサービス”提供へ
 [コラム4]芸術性やArt域労働の成果物とは、その刺激…
 [コラム5]20世紀初頭からの印刷あるいはコピー技術…
【新しい経済社会で役立つ、本の拾い読み 20210309】


§コロナ禍も金融危機も、その経済情勢は二転三転
そこで、倒産を招きかねない事態を回避する王道が重要なのだ。
王道の思考すらなければ、犠牲者として世間に翻弄され倒産や廃業の道を選ぶこととなるのだ。あなたに犠牲を強いて、利権や保身に走る輩は、その選択を「あんたの自由」と、嘯く(うそぶく)。
だが、「奴隷は解放を思い立つだけで、もう奴隷ではなくなる」
との趣旨の帝王学は世界に数多くある。要は、「王道を知り歩み始めれば、もう翻弄はされず、廃れない」わけだ。

直面する最重要課題=コロナ恐慌に係る、公式発表された調査やデータでは、
感染第1位は 家庭内感染(児童が運込む) 50~60%
 (保育園や幼稚園から持ち帰るウイルスに両親が感染)
感染第2位は 高齢者施設や事業場や病院 30~40%
感染第3位が 20時までと制限される飲食店  5%
 (家族連れの20時までの駆け込み利用は常態化)
感染第4位に マスコミ話題とされるなっている接客飲食店  1%未満
といったことが、その結果の主な内容である。

だとすると、これに応じた対策は取られるべきところ、ほぼ故意に成されていない。その怠慢は、何を示唆するのだろうか。最も重要な感染対策は、家庭内にウイルスを持ち込まない具体的手法の徹底だというのに。
(例示)http://soumubu1.blogspot.com/2020/12/blog-post.html
ちなみに、「飲食店の営業許可」は、「手洗い器」および「手洗い器」の設置を義務としている。飲食店を感染源ターゲットにするであれば、ここでの手洗い消毒を入店者に徹底させることは重要だ。手に付着しているウイルス除去が「三密」よりもはるかに重要具体手法のであるにもかかわらずだ。その効果は、店舗入口のアルコール消毒の比にならない。
加えて、少なくとも、団塊の世代より高齢の人たちは、幼少の頃から飲食店等での食事前手洗いを徹底されていたことを経験している世代だ。そこまで昔の保健所は感染や伝染の徹底抑え込みをしていた。また、多くの家では入口や便所近くに簡易な「水手水(ちょうず)」器機を備えていた。

すなわち、極めて身近で効果的な感染対策を呼びかけない姿勢は、
今となれば疑念が持たれ、国民を翻弄させていると言わざるを得ない。
ウイルスは若年層無症状者がバラまいていると認めながらも、もう1年間も指摘されていたにもかかわらず、やっと話題にのせようとしている。国は、東京世田谷区とか広島県や栃木県が独自で行ってから、モニタリング調査(無症状者の感染検査)に手をつけようという有り様だ。どうして幅広く意見と知恵を拒絶し続け、挙げ句はコロナウイルス感染対策を怠ったのか。市中がコロナ感染し切ってからで、国は遅きに失した。使い果たした国の資金は、インフレ政策という大衆課税や財産税(ある時点の保有財産により課税)でもって納税者からコロナ禍の後に回収するのは必至である。

感染を食い止めている主体は、住民個々の民間防衛に因ることは間違いない。
コロナ禍でも翻弄されず、成長軌道に乗る個別企業や個人は存在している。
今月のメルマガでは、実際に「100年ぶりに変わる」、経済構造を切り開く柱とヒントを、読者のあなたに建議する。


§芸術性のない商品や事業は廃れる。
これがはっきりと科学的にも学問的にも証明された。その芸術性とは、“製品やサービス”に、“希望が呼び込まれて”いるのである。
科学的とは、“いつでも、どこでも、誰でも行うことができる法則性”のことである。
希望とは、受け止める:その人の成功パターン&安心パターンという心象風景に現れるもの。
偽の芸術家は、ひたすら言葉遊びや権威を駆使して芸術だとアピールし、芸術とは技巧だと言い換えているのである。まるで、伝統的家元とか世襲や師事こそが芸術の源だと言わんばかりである。もちろん、芸術家とは自覚の有無は別として科学的であり、新技術もアイディアもさっさと取り入れる。

このような“製品やサービス”を提供される側に向けて、それを提供する側からすると、“意欲・感動・希望”を、プロデュースする個人には留まらずに、組織的にネットワーク的に、固有文化価値として“製品やサービス”に組み込んでいるわけである。
【“製品やサービス”に、“希望が呼び込まれて”いるためには】
①“製品やサービス”の具現化過程において、必ず“意欲・感動・希望”
が伝わるように様々な技術(Art域労働)でもって、
②“製品やサービス”を受け止めた個々人それぞれが、
        表象を脳内だけでの模倣Mimesisを行い、
③“製品やサービス”に組み込まれた様々な“意欲・感動・希望”
        に共感Empathyするのである。
④“製品やサービス”の完成や完結に至るまでの原材料や半製品その他、
 次のURLに示すイノベーション5分野についても、“希望が呼び込まれて”いるための芸術的プロデュースと具現化の過程が組まれていなければならないのである。新自由主義者が持ち込んだ、“口先では技巧の集積、内実は嘘と理屈で固められた代物”(使用価値論に固執し表面だけ整えた商品)では、芸術性は成し遂げられず売れないのである。
 https://soumubu1.blogspot.com/2016/10/blog-post.html#174-04
(注意点)
・“意欲・感動・希望”の3つで1セットである。
 いずれか1つが欠ければ芸術性は成り立たない。2つ欠ければ市場流通しない。
・サービスや身体表現の表象を脳内だけで模倣Mimesisするからこそ、
 意思疎通し、意思共有(Share)をするのだ。
・脳内だけの模倣Mimesisでもって共有(Share)をするからこそ、
 相対して共感Empathyするに至る。(ミラーニューロン Mirror neuron)
・ここで使用される、共感Empathyは、1904年に発明された学術用語で、
 sympathyの(共に苦しむ)概念とは異なる。
・最新の科学発展の用語概念は、個々人で異なる、人それぞれの考えではない。
(次のURLを参照のこと)。
 https://soumubu1.blogspot.com/2020/10/#222-10

[コラム1]

明治政府は維新直後から外貨を獲得するために、陶器などの工芸品の輸出政策に力を入れた。いわゆる工芸産業に、維新で廃業となった刀職人や鎧職人を投入したのである。それらの製品は欧米の貴族に一躍人気となった美術品に成長した。
ところが、イギリスなどの工芸品を美術品の範囲から除外する当時の政策を日本も取り入れてしまったところ、一気に日本の美術工芸産業は廃れてしまったのである。
そういった背景を無視し、工芸品を民芸品とまで言い換えるとか、芸術や美術の概念から除外する動きとなった。職人たちはもっぱら技巧ばかりに走ることで、日本の工芸品が芸術性のない商品として劣化し廃れ現代に至るとの、美術に関わる有力な学説がある。例示=ビジネス教養としてのアート:岡田温司 京大名誉教監修 KADOKAWA

§コロナ禍で、芸術性不可欠は誰の目にも明らか
新型コロナウイルスの感染によって、原材料などを仕入れるサプライチェーンばかりか、“製品やサービス”を提供し売買を完結する流通(経済学説により交通ともいう)までが止まってしまった。

2008年リーマンショック以後の金融危機の始まりから、その危機の頂点を迎えようとした矢先からのコロナ恐慌開始である。もとより多額の“金融資本の投資と回収”は採算割れを既に起こしており、累積赤字→不良債権→企業合併→国家財政の投入を続けてきた経済である。新自由主義者は“金融資本の投資と回収”だけに目を向け、経済活動を通じての価値増殖などは行なってこなかったのだ。

にもかかわらず、2020年4月頃からの国家財政投入(QE)は、コロナ禍の収まりとともに通貨切り下げのインフレ政策、民間からの財産税徴収へと、道は目に見えているのだ。

【すなわち、要約すれば】
コロナ禍の以前から、“金融資本の投資と回収”だけを話題にした経済は、流通コスト・販売コスト・無益な流通販売組織への投資と運営費用や関係報酬・その制度維持費用といったもので、あらゆる場面での採算割れを起こしていたのである。採算割れ収支に加え金融機関への返済が上乗せされるのである。新自由主義者の経営というものは、こういった無益な実情を覆い隠して→その社内外にわたる枠組みを持ちこたえさせるための組織体制と、その策士たちの人員配置を行うばかりなのである。だから繰り返すが、“口先では技巧の集積、内実は嘘と理屈で固められた代物”(使用価値論に固執し表面だけ整えた商品)では、芸術性は成し遂げられず売れないのである。
経営や経営管理を行う人物からすれば、新自由主義者の経営の本質は見えている。だから、この3月末に向けての人員削減やリストラに、加速して至るのである。

だとしても、よく見てみれば
衣食住に関わる“製品やサービス”については、広い意味での芸術性に基づいて、“意欲・感動・希望”をプロデュースし、今時点で人々が意識をする“希望が呼び込まれて”いるものに限り伸びているのである。広い意味の芸術性を持つ“製品やサービス”は伸びている。
これを、科学的(“いつでも、どこでも、だれでも行うことができる法則性”に見極め、IT機器に取り入れることが重要(ICT産業革命)なのである。科学性(自然、精神:人文、社会の3分野)と芸術性を組み合わせることで、それを目的意識的に行えば、極めて効率的な創造性を発揮した仕事ができるようになるのである。
なかなか天才(=カントの定義では“感性的構想力で輝く”)は出てこない。けれども、筆者が研究者の成果を調べたところ、
☆日本が諸外国と比べた優位性とは、美的感覚・人的資源・クリエイティブ性、美と善を関連して考え、日本語の外国を吸収する言語能力があり、これらは中国などのマルクス・レーニン主義の枠にはめられた文化よりも豊かな文化の可能性を秘めていると言われている(ドイツ人哲学者:マルクス・ガブリエルなど)のである。なぜ、筆者が中国を引き合いに出すかと言えば、既に日本経済は中国傘下、日本の製造業は東南アジアの下請けへと完璧に組み込まれようとしている政策に至っているからだ。

[コラム2]

音楽の世界では、音声や弦楽器の音階&和音(純正律)と、ピアノやアコーディオンなどの音階&和音(平均律)には差異があって、日本の幕末ごろヨーロッパでは大論争となっていた。
レコードなどの録音技術が発明されるや、曲を端折って録音時間内に納め、長い期間にわたり高音収録しか出来なかった技術の歴史もあって、世間一般では、そういった録音によるものが音楽だと受け止められ、とりわけ日本では歌唱音声は録音発声を真似られ、それがのど自慢だと勘違いされるに至っている。ところが世界中のICT動画配信によって、特殊ではない歌の発声法の存在の認知と広まり、楽器演奏コンサート録画での「言葉を合わせ・仕草を合わせ・呼吸を合わせる」体験練習とかが可能になってきた。

近年の“音楽自体は聴くもの”
といった傾向への傾きがあったものの、
a.スタジオで作り上げるデジタル等音楽
b.歌手自身や演奏者講演のArt域労働
c.電気的な音響拡声の
 編集をPA装置でし直したもの
d.聞かせるのではなく
 素人参加する歌と楽器
 のおよそ商業利権を無視した4パターンに発展しつつある。

§現在、“まったく無意味な仕事”に携わる人物たち
新自由主義者が国家や自治体の行政機関あるいは民間企業の経営を牛耳るためには、本来の経済活動をからすれば、“まったく無意味な仕事”に携わる人物を配置するのだ。その人物は、前向きに捉え政治的な立ち回りをするポーズだけれど、何らかの行政機関や企業の本来業務にプラスになる物事には携わっているだろうとの見方が強いのだけれど。
実態をよく見てみれば、比較的他人より有利な地位で以って、露骨な性癖を持つ新自由主義者の権力構造を維持するためだけに、彼らは配置されているに過ぎないのだ。この“まったく無意味な仕事”に携わる人物の配置は、官民を問わず事業規模を問わず、新自由主義の経営に走り突き進むことで急増してきた。当初は一見、新自由主義者のレトリックとして“市場開放と経済効率の価値”が唱えられたけれども、実のところ経済や個別企業経営の成長率は低下した。まずは、
それら人物の仕事とか職業とは、
 ①新自由主義者の取り巻き役=何らかの管理職的肩書きの専従職
 ②他人を恫喝し抑圧をかける役=代理人の仕事(但し法が禁じる利益相反のプロ)
 ③トラブルや不祥事の尻拭い役=国家資格とは裏腹に事件屋や示談屋のスタイル
 ④架空証拠の捏造役=エビデンス作成学者とか捏造ライター
 ⑤幻影プロデューサー役=いかなるプランも幻想あるいは相対仮説で誤魔化す
そんなプロパガンダや幻想の専門業者(いまや電通が有名)

戦後は、生産性と労働者の収入は伸びてきたところ、この40年ほどの間に生産性は飛躍的に上昇するけれど、労働者の収入は平行線ないしは、この10年は減ってしまった。
すなわち、経営者が呼びかけるなどして労働者たちは機械を改良するなどして生産性を上昇させ収益が増加した。1970年代までは、増加した利潤の一部は賃金として労働者に再分配をされた。
ところが1980年代中ごろ(昭和55年オイルショック)からは労働者への再配分率は低下することとなった。
その増加した利潤の行き先は、大半が“まったく無意味な仕事”に携わる人物たちに流れていくようになった。

経済や経営の成長とか豊かさのための資金が、金融投資とか資金繰りとの美名のもとに官民から個人家計に至るまで、“金利とか利ザヤを獲得”に流され、経済的価値増殖とか人的資本投資に向けられなくなったのである。日本の金融機関はこぞって、地元企業への投資ではなく米国債などに走り、「足しげく貸付営業に回るよりも、金利収入の方が低コストで収益が多い」と大合唱したのである。
そのために、“まったく無意味な仕事”に携わる人物たちが配置され、事業閉鎖され、事業移転され、“まったく無意味な仕事”に携わる人物たちは養われたのであった。それ以前によく在った、従前の従業員たちが労働者に呼びかけて事業再生を成し遂げているところはまれである。

新自由主義者の話に乗って事業閉鎖その他に流れたオーナーたちは、金銭はもちろんのこと様々予想はずれで、人生に落ちぶれてしまったケースは多い。筆者は凡そ45年も携わっているから如実によく知っている。
新自由主義者とか新自由主義は、経済とか経営には全く関わりもセンスもない輩であり、やってきたことは比較的他人より有利な地位で以って、“露骨な性癖を持つ新自由主義者の権力構造を維持するためだけ”であった。
あながち、岩波書店邦訳の著者=デヴィッド・グレーバー(昨年逝去した大学教授=:アナキスト)のネオリベラリズム分析だけは的を射ている。

戦後日本の経営者(被害者)たちは、
アメリカなどからの多額投資が行われ、その経済政策に乗れた人たちだった。日本はアメリカ経済の生産工場となり、それが日本全国に産業や工場が展開されるとともに、そのインフラとか労働力供給のために“商工中金”などが地方の中小業者に資金融資を行い、その結果に全国の都市と地方の経済産業基盤を渡らしたのである。
1985年(昭和55年オイルショック)の少し前あたりから、新自由主義者のレトリックとして“市場開放と経済効率の価値”が唱えられはじめ、それは、資金繰りに苦労する中堅企業の経営者に対して、「会社の金庫の中を現金でいっぱい!にしてあげますよ」といった、Just in systemその他の経営手法を紹介するといった演技での誘惑から開始された。
当時の私:筆者も、まさか経済や個別企業経営の成長率の低下に道を開くとは思わなかった。経営の資金繰りが、会社の金庫に現金が貯まるとか銀行預金通帳に残高が増えるといった現象が生まれ、そこに拝金主義と金融投資の誘惑につけこまれるとは予想だにしなかったのである。
1986年(昭和61年)12月からのバブル景気にあたる時期、昭和54年から準備された労働者派遣法の施行により結婚後の女性職域が拡大され、同年の男女雇用機会均等法の施行で女性労働条件が改善される基盤が形成された時期でもある。(いわゆる格差拡大は、1997年の職安法改正、1999年の労働者派遣法解改悪に端を発するわけだから、念のため)。


§人をケアするサービス 八策=Art域労働版に改訂(2021年3月9日)
「人をケアcareする」(サービス業の飛躍的イノベーション)といった固有価値商品を完成させる、世界各地で成功している実例である。
それは,次の通りだ。
“芸術性のない商品や事業は廃れる。との学説は、広い分野の研究者の成果により科学的に証明された。今から8年弱前に筆者は芸術性の重要性をWebで公表し、その後学術論文などで、その商品価格決定論、Art域労働の理念、Art域労働などの労働等契約論に至ったのである。海外の経済学者の評価は高いが、日本では、博士号もない奴は相手にされない、18世紀級のアカデミックだ。
そこで今般、コロナ克服&コロナ後に当たって、日本の地域経済の飛躍的発展のために不可欠な、“人をケアcareする”ことに関係する業態や業務を、具体的方法について考察をした。ICT産業革命の本旨が裏打ちされれば、効果はさらに充実する。

【質の高い多くのArt域労働業務の集中集積に不可欠な飛躍には】
Art域労働においての労働契約方式は次のとおり。
委託料とかギャラといった曖昧さを残せば産業成長しない。
Art域労働成果物の一分野や一部に存在する
著作権等では、契約安定に至らない。
 ①取引には成果物に造形物理的要素や解釈要素を含み、
 ②「労働全般能力(労働力を切り売りではなく)発揮によって形成する、
 ③有形無形財産の貸与を約する契約(契約)」となる。
  この取引3要件で初めて、相互に契約が安定する。
  若しくは、Art域労働の結果物を約する場合に限れば
 ④「有形固定物に限っては、その所有権を譲渡する契約(請負)」である。

イ)___
ケアcareされる側の悩み解決の手助けならば、
その解決方法の選択をArt域労働は非常にうまく導いていくこと。悩みを解決することでケアする仕事の、一番最初の作業は、その悩みに応じた解決方法をいくつか組み合わせるとか、いくつかの解決要素を選択することである。Art域労働にあっては解決方法の組み合わせと解決要素の選択=ケアcareされる側自らが選択する行為を導くこととなる。そうすると意欲・感動・希望といった固有価値を認識するに至り、ケアcareされる側の価値の実現にも協力する。解決の答えを提示することでは間違いであり、その仕事を相手は望んでいない。

ロ)___
新たに固有価値商品を楽しむことを阻んで来たあらゆる障害を、
Art域労働にあっては細かいところまで見つけて取り除くことだ。その障害が、どこにどのような形で阻んでいるかが、買い手にも売り手にも分からないのが現実である。だから、ケアcareされる側の買い手にも、楽しむことすらが分からない。売り手は的外れにも機能や数量をアピールしがちであるが、これがArt域労働にあっては大きな間違いとなる。この間違いによる無駄な労働力消耗の繰り返しは、極めて低質で多量に繰り返されている。無駄な労働力の発揮を重ねて、あげく疲れ果てて消耗し、仕事をこなした気分になっている人も多い。が、そういった業態と業務は廃れていく。障害を取り除く過程で、意欲・感動・希望の固有文化価値を認め、ケアcareされる側の価値の拡充実現にArt域労働は協力するスタイル形成することである。

ハ)___
ケアcareされる側の買い手となるクライアントの恐れる要因を、
Art域労働で以って一般的な多数順に排除あるいは軽減することである。
スキルやフォーマンスに偏った売り手では、買い手が興味を持つ段階での「恐れる要因」が全く解らない。この「恐れる要因」をArt域労働で外していけば、ケアcareされる側の買い手が次々と試してくれることになる。
だが、試そうとするきっかけは買い手にも分からない。だから、従来の労働力スキル発想に頼るマーケティングよりも、Art域労働の形成に含まれる独特のサンプルインタビューこそが重要となる。「恐れる要因」がなくなりつつあるからこそ、意欲・感動・希望の固有文化価値を認め、ケアcareされる側の価値の拡充実現に協力する。

ニ)___
例えば、医者(専門家)は治療するのではなく、
ケアcareされる側の病気を治そうとする人を、Art域労働で以って援助・手当(悪化予防・治療へのサポート)するといった方向に変えることである。
未開人や子供を納得させるには、医者や魔術師の奇跡や神話が手っ取り早い。だが無理に奇跡や神話で納得させて病気を直そうとすれば、ケアcareされる側のどんな大人も抵抗をする。病気の悪化予防や治療への、固有文化価値商品=意欲・感動・希望であればこそ、病人の大人は価値を認め、価値の実現に協力する。神話や呪いの類は科学的学問的ではなかった。科学的とは、“いつでも、どこでも、だれでも行うことができる法則性”のことである。
傷病(Illness)と疾病(概念としてはDisease)の中で、疾病については、極めて文化や文明の絡む価値観で票か判断される。因みに、花粉症はシーズン疾病(disease)だが、PM2.5は通年傷病(illness)である。

ホ)___
ケアcareされる側の買い手は自分の好みを知っている、
Art域労働にあっては、ケアcareされる側の「好みに合う品と使い道」ならば知っていると割切ること。それは、ケアcareされる側が固有価値商品の意欲・感動・希望といったArt域労働の価値を認め、ケアcareされる側の買い手もArt域労働の価値の実現に協力する、そしてなによりも、代金支払いまで完結させるのは買い手のケアcareされる側の納得だからである。代金支払いよりも、商品交換が先に為されることは、経済学の常識だ、これが職業経験の無いインテリには解らない。

ヘ)___
ケアcareされる側の買い手は、常に沢山を学びたい。
が、「教えられるのは嫌いだ」と、Art域労働にあっては割り切って接することだ。学びたいとは、意欲・感動・希望のArt域労働が産みだす固有文化価値を繰り返し実感するからである。学び手の意欲(やる気)が残っていても、ケアcareされる側の感動や希望が失せてしまえば「学び」に文化価値を見出せない。意欲と感動だけではケアcareされる側の心身消耗を招くだけである。だから労働力スキルでは、AI人工知能の機械や装置に取って代わられるのが自然の成り行きである。まして、その「学び」である固有文化価値商品の商品交換を完成させるのは買い手のケアcareされる側の納得である。

ト)___
Art域労働にあってはケアcareされる側に知識を押し付けるのではなく、重要ポイントをケアcareされる側と一緒に発見するスタイルに徹することだ。
「知識を得たい」とは、学び手の頭脳の中にある真理に向けての、意欲・感動・希望を伴って、ケアcareされる側の知識の蓄積を重ねる行為である。知識とは、=自他共に事実や事実関係を真実だと承認し、そのための、もっともな理由を持っていること。ちなみに、“「私」とは知の主体である場だ”となる。
真理に向けて智識を重ねるためには重要ポイントの、少なくとも“模倣Mimesisと共感Empathy”の発見作業が不可欠なのである。でなければケアcareされる側の頭脳の中に蓄積され応用に至ることはない。蓄積され応用に至ることがなければ生産的ではなくなるから、ケアcareされる側から望まれる商品として購入される量やチャンスは逓減する。無理やりスキルやフォーマンスに偏った売り方での知識を押し付けようとするから経済外的な行為(圧力、脅迫、詐欺など)となり、無駄な労働とか違法犯罪行為の発揮を重ね、非効率非生産的だから経営破たんを招くのである。

チ)___
芸事を教える場合、Art域労働といった作業のコツを伝える場合、
相手の技能習得の焦りには、Art域労働にあっては相手に、「ゆっくり出ても大丈夫です、手元は遅くで」
と、ケアcareされる側の焦りを取り除くことに集中することだ。
そして、Art域労働にあってはゆっくり確実に技能を説明する。ここでも技能説明に限っては、「言ってみて、やってみせて、やらせて見せて、ほめること」が大事である。

すなわち、“模倣Mimesisと共感Empathy”の発見作業に加えて“直に面談しながらの体験学習”の、「言葉を合わせ・仕草を合わせ・呼吸を合わせる」、ケアcareされる側との一緒一体の作業行動が不可欠なのである。Elaborately‐Movement(複雑かつ速い動きの如く)といった意味のない曲芸は押し付けないことである。
有効な細かい配慮を要する芸術性(=モーツアルトの弁)は、ケアcareされる側が思いもつかない手元の複雑かつ速い動きその他への配慮だということを、ケアcareされる側が自らで発見するように、Art域労働の側から働きかけることなのである。その細かい芸術性をケアcareする過程を秘密にすること(秘伝扱い)は禁物である。ケアcareされる側がArt域労働からの働きかけで初めて気付き、固有文化価値を意欲・感動・希望を持ってArt域労働でもって習得することが可能となる。結果に至るプロセスを知ることが欠かせず、これが教養有無の決め手となり、教養や知の応用が出来る可否となる。
その後はケアcareされる側が自らが固有文化価値を実現あるいは増殖した上で、再び芸事を他へ伝え相互に共有(Share)し、固有文化価値を盛り上げることとなる。Communicateの各国いずれも言葉の原義は“他人と共有する”である、知っていることを共有(Share)するのである。
Art域労働=芸術性を持った芸事は、“狭い美術・音楽・文学”といった“Elaborately(日本語の概念が無い)なパフォーマンス”よりも宇宙規模で広大な経済=産業価値を産むこととなり、そこでは教える側と学ぶ側が、「言葉を合わせ・仕草を合わせ・呼吸を合わせる」、一緒一体の作業行動を行う体験となり、たとえ“個人レッスン風景”であったとしても、無限の広がりを持つ広い社会的作業であることは否定されない。

[コラム3]

油絵具とキャンバスの発明は、鏡などの透明な物とか、人肌の特徴を表現できる技術を実らせた。鏡の中に映る人影を描くことなど以前は考えられなかった。ところが、そういった写実に重点を置いた絵画も、写真の発明で写実表現から離れることができたのである。写実を伴わずに、脳内の模倣Mimesisでもって共有するからこそ、相対して共感Empathyする(ミラーニューロンMirror neuron)こととなり、当時は科学的なことは解明されなかったけれども、イギリスの画家ターナーはパトロンを持たずに絵画とかエッチングで工房を営み生計を維持するに至ったのである。(人々の人気となる絵画等の構図の研究はイギリスから開始確立され、その後の大量販売の道も開かれた)。
音楽の楽譜を印刷して流通させたことは、音楽家や関係者の携わる産業を形成し、更には音楽への多数参加を促した。機械印刷楽譜が作られ残されることで音楽技術が進展し、芸術性発展に寄与することが出来るようになった。兎に角、楽譜の無い時代のメロディーは、ほぼ分からないものだから、真似すら出来ず=芸術的発展も望めなかったのである。
バッハは教会付きなので、お葬式が無いと生活苦しいと嘆いた。ベートーベンは機械印刷屋の楽譜販売で生計を維持できた。リストは最新開発ピアノを各地へ運び込むことで演奏活動に忙しかった。そのピアノを最新開発したセバスチャン・エラールは、旧来ピアノ製造業者から命を狙われ、パリからイギリスへ亡命した。

以上の「人をケアcareする」サービス業の事柄は、昔から良く語られた商業における要領とかコツ(近江商人の地域の伝承)に類似している。ところが、旧来の要領とかコツでは、科学的学問的ではなかったから広がりが弱かったのである。科学的とは、“いつでも、どこでも、誰でも行うことができる法則性”のことである。
だから拝金主義者とか新自由主義者からの誘惑とか横槍が入れば、ひとたまりもなく各々の個別企業でも崩壊していったのである。日本の文化は、中国などのマルクス・レーニン主義の枠にはめられた文化よりも豊かな文化の可能性を秘めていると言われている(ドイツ人哲学者:マルクス・ガブリエルなど)。
日本の文化優位性として、美的感覚・人的資源・クリエイティブ性、美と善を関連して考え、日本語の外国を吸収する言語能力について、これらは中国や東南アジアその他の文化圏から日本への“製品やサービス”に対する需要についても、例えそれが日本への投資であっても、その意味では巨大な産業育成への可能性を秘めていると言うわけなのだ。「美しい日本」如きの幼児性では、挙句に空腹と防寒ためには媚びへつらう未文明Uncivilized体質では太刀打ちは出来ない。


§アートArt域労働の、仕事の法則、“製品やサービス”提供へ
すなわち、それを形成する芸術的要素は(従前のメルマガを加筆修正:2021年3月9日)
①美しく良いもの且つ、受ける側に希望を呼び込むもの、
②併せて、より共感Empathy性の高い疑似的再現を実行する
 といった法則性を使うことである。
③まさしくこれがパフォーマンスPerformance職人技とは異なる部分となる。
 技巧を凝らすElaborately Produce といった分野とArt域労働は別物である。
④その美しい良いものとは、人類の進化発展を通して安全安心の結果概念を
 感覚的に表しているものといえる。現代の善悪の善は“進化”に資するか否かである。
⑤Art域労働の分野は絵画や映像、メロディーラインを中心とした音楽、
 時系列の思考パターンを含む言語による詩Poemのといった文化を反映の3つが主である。
⑥そのうちの希望とは、美しいもの良いものを通して開ける方向性を指す感覚現象である。
:その人の成功パターン&安心パターンという心象風景が鏡に写し出される訳だ。
⑦意欲とは、事物に対して行動を起こす前のイメージであり、
 感動は行動を起こした結果に得られる感覚(意識の一部)に過ぎない。だから、発生する時間的経緯プロセスに注意が必要である。希望とは鏡に写し出された後だ。
⑧「意欲・感動・希望」の3つがセットになった「労働力全般能力」の発揮と、それにより産み出された固有文化価値が、Art域労働には重要なのである。

[コラム4]

◎芸術性やArt域労働の成果物とは、その刺激による反応としての、模倣Mimesisや共感Empathyによって生み出された内面の心象風景が、鏡に写し出されるというわけだ。
右の画家=奈良美智の有名な画風は、見る人の内面の心象風景が、鏡に写り、
★子供の様な鋭さや狂気か、
☆優しさかを模倣共感させる、
といった心理テストさながらに感覚(意識の一部)に現れてくる。
よって、「アートの解釈に正解は無い、人によって人ごとに様々であり、その人の自由だ」といった曖昧模糊な会話が、いかに非科学的であり、学者が用いれば、表現が如何に人を煙に巻くためのトリックに過ぎないことがよくわかる。

◎江戸時代の日本人は、日本画のように世界を見ていたとのことだ。日本画には影がない、影が描かれることはない。とはいっても、日本の印刷技術の活用は世界の最高峰であった。三越の前身である越後屋は、「現金掛け値なし」「店前売り」という新販売方法の手段として、18世紀初め、大坂に40万枚の石版印刷チラシを配布した。その町人・庶民目当て大量印刷の挿絵付きチラシの配布は、店内から「あまりにも下品な商法である」との批判に晒されたが、チラシ配布が三越のブランド信用力につながったのである。1837年、越後屋は大塩平八郎の乱での店舗襲撃直後に、70万枚の石版印刷チラシを大坂と大坂発全国向け船便でもって配布した。大坂には挿絵画師、作詩師、石販印刷の技術が揃っていたのである。

したがって、金銭や物質そして権利といったものは、
社会や経済が安定した上での物事であり、
金銭・物質・権利から得られる物的価値は文化価値で醸成される性質の代物ではなく
=経済外的要因(権力、武力、レトリックなど)によって強いられやすく、
その程度の単なる物的価値交換の結果にすぎない。
20世紀に最高潮に達した「労働力」の取引一辺倒の影響受けて芸術分野やArt域労働は、
スキルSkill(技能)パフォーマンスperformance(職人技巧)に制限をされ、
固有文化価値は貶められてしまっている。
日本における家元制度とか学術団体制度あるいは資格者団体システムなどが、
「無能と怠惰」に柱を置かざるを得なくなり、
結果、保身に走るのは自然に後退する成り行き
かもしれない。もしくは、“まったく無意味な仕事”に携わる人物たちの配置によって
成り立っているのかもしれない。
土地を所有し&当主を世襲と法定すれば、
封建制度に行きつくことは当然の自然の成り行きである、人間の意識に因るモノではない。

⑨次の表は、3つの労働分野を比較思考しやすいようにだけ、並べたものである。
幸せになる権利 私的利益・満足=厚生 他人より有利な地位利益
Art域労働 スキルSkill(技能) パフォーマンス
創造構想する権利
「創造・独創・時空・結合」
労働力商品
&労使関係システム
特許権、著作権、版権等
発明・時系列変化・組合せ
芸術性(意欲・感動さらに
人間関係を含む希望)
生命維持性、人間阻害
(意欲・感動の2つ)
技巧を凝らす希少性
(意欲・希少性や複雑技巧)
創造の主張を認める文化
=固有文化価値
技巧の中に法則性保持
人的機械的技術に依存
=効用(使用)価値の
企画法則性に限る
発明・曲芸の領域の技巧性
審美追求主義の希少性
BigDataでの予定調和情報
5次元の思考
X・Y・Z+time+Connect
2次元 X・Y
もしくは 3次元 X・Y・Z
3次元 X・Y・Z
偶に 4次元 X・Y・Z+time
広義の芸術性=Art
有形無形の完成品
スキルSkill(技能)
企画による組織労働
Performance(職人技巧)
単独で労働される
幸せを得る 伸びる志向 厚生に限られ廃れる指向 技巧で廃れ殻に閉じ籠る
幸せの、厚生との差異
美と善はどこかで
つながっている
挙句、清算とかリストラ
その対処><抵抗運動>
技巧を凝らす
[ひと目で凄いを追求する]
=希少価値でもない
絵画
(美術)
絵画は色彩=鏡・面の表象
彫刻には:たなごころ
固有文化価値の滅失
Intrinsicが無い
Elaborately Picture
Intrinsicが無い
音楽 音楽は空間把握 Background Music Elaborately Produce
詩Poem 時系列の思考パターン 感情移入が出来ない Elaborately Ceremony
感情移入 感情移入の末に、見終わり聴き終わると心温まる心象が受け手に残存する
<感情移入のプロセス>
①登場人物と自分
②リアルとバーチャル
感情移入は、芸術や道徳・理性力トレーニング
感情移入の思考はない

むしろ感情移入は
非科学だと排除

他人や現実との関係は
そのほぼすべてを無視
感情移入ではなく、
[ひと目で凄い]技巧優先

技巧を凝らす程に刹那感
残虐悲惨な記録に留まる
人物自身 その人の生き方がArts 個を滅する⇒人間疎外 アイドル(偶像崇拝)
分業 社会的な分業の成熟の素にArt域労働全般が開花 精神科学や心理学を無視して量的分離を強行 子方や弟子は設けても、親方は分業はしない
企画と作業の分離 新技術・空間把握・アイディアの、3つを一体に 質的な分離を無視し、
空間把握も構想しない
空間把握は親方が行うが
新技術やアイディア拒絶
注=Elaborately(日本語の概念が無い)
⑩Art域労働=芸術労働の要件要素、「労働力」とか「希少価値」とは異なる概念の存在
Art域労働の、定義、特徴、その現象 Art域 スキル パフォーマンス
無意識におけるパターンの認知作用により、
そして、Art域労働の行為は、目的意識的に計画的である。がしかし、無意識におけるドラスティックな進化でなく革命的な行為であって、他人に対し、それも個々人ひとり一人毎に、影響を与える。 ×計画的
 でない
その創造力、発明発見、創作とは、他人に対しその所見の表現が学問的科学的計画(希望に通ずる素)を生じさせるところの、共感Empathy→共鳴を与える。(by神経科学) ×秘匿
5次元思考~X・Y・Z+Time+Connect結合~で以て、脳科学や神経科学で解明されている共感=共感作用&共感精度であって × ×非共感
「音」による空間表現、「絵」などによる色彩等表現、「詩」などの時系列表現を、論理学では解明できない分野の構想方法を用いて
細かな物質的モノゴトの配慮を用い、形態とは意識され難い作用(共感や希望)をも、もっぱら多数の受け手個々人に対し多様に与える行為、その存在を認識しながら。 × ×専ら
 希少性
このArt域労働が、旧来は明瞭行為ではなかったし、この労働価値は貨幣に限られた交換には値しないとされてきた。
Art域労働は労働全般能力でり存在である。
労働力は
労働の
一部分
×自慢
 と金銭目的
世界経済の再生には、Art域労働が重要なカギを持つ。個別企業でも、先ずは幅広く薄く進めるだけでも事業業績が伸びる。
それは、スキームSchematicに最も作為されない中高年女性労働がカギになる。
× ×隠匿性
既に、人手不足解消とか、素早いフィードバックでの早期利益を確保する、そのノウハウは、行動の前に完璧な知識を求めず、新規商品開発に向かうこと。 × ×専ら
 希少性へ
10 市場主義・資本主義の要とは、次の3要件。
①自由平等思想、その手段の民主主義
②自由の基盤は、自由市場、基本的人権
③自由に移動や販売横行できる、
(個人番号で)捕捉されない貨幣制度が要
×非市場
11 遊休使用価値商品に、貨幣価値を超える交換価値を蘇らせる。交換価値の無い建造物にも、使用価値の蘇りを可能とする。 ×自慢
 と金銭目的
「―」は労働過程での考慮がない。「×」は、その該当する労働過程では否定をする。


[コラム5]

20世紀初頭からの印刷あるいはコピー技術の発展は、1枚物からが大量に扱えるようになった。そして現在ではインターネットの“検索の窓”に至った。
CG、VR、AIといった技術進歩は著しい。例えば、画家ゴッホの画風をAI機器に記せば、デジタル写真をゴッホ画風の写真に、瞬時転換させることも容易となった。歌い方も演奏も瞬時に転換。死んだ詩も造れる。
しかしながら人間の意欲・感動・希望に関わる部分を、Art域労働で最初のオリジナルを感覚的閃きで構想し、新技術・空間把握・アイディアの3つを一体に仕上げることを、機械にさせるメドは全く立っていない。

【新しい経済社会で役立つ、本の拾い読み 20210309】
コロナ禍後のICT産業革命に役立つ経営のヒントになりそうなものを紹介することにした。だが、この3月本号メルマガで紹介できるものは見つからなかった。
巷では、昨年から多様な“コロナ後”についての書籍が大量に出版されている。しかしながらそれらは、旧態依然に繰り広げられた学説とか経営知識といった代物を、上の目線から「皆さんよくご存知でしょ」と言わんばかりに繰り返し、少し組み替えて新説めいた面持ちで、「だから頑張ろう!」との精神論を展開するばかりだ。
そこには出版社の販売促進の思惑や目論みが背景にあり、受験戦争の落とし子にこそ、そういった書籍の購買能力を持つ個人が多いことから、“読者のすでに知っている情報や知識を羅列”すれば、そんな購買能力者は安心を求め過去の自らを再確認するために購入する消費、といった編集戦略というわけだ。そんな編集書籍の執筆者は、そこまで深く熟考する人は稀なので、出版社からすれば“著作者とその予備群”は腐るほど存在する。そして片や、書籍を購入する、そういった本の購買能力者たちは、職業経験のないインテリだから、貴重な新しい情報よりも、過去の自らを再確認させてくれ、安心安堵できるという、空しい需要者層なのである。
こういった人たちは、今月のメルマガで特集しているような、生き方から仕事そして作品に至るまでArt域労働を行い人生に余裕を持った層とは異なる。角度を変え説明すれば、せいぜい執筆者層はパフォーマンスの能力、需要者層はスキル程度の能力に過ぎないのである。肝心なのは、Art域労働とか労働力全般を磨こうとしないのだ。退職金や年金(賃金理論では“手切れ金”と見做す)生活の後に、余命生活に入る人が多い、例え読書家であっても。
《以下の段落は毎月同じ》
筆者の仕事は、読者の解決手助けのために、あなたの正確な選択へと導くことである。なので記事分量は少なく、あなたの判断材料となるように書いていく。(購入して読む必要もなく、あなたの秘書に代読する必要もない)。それは、学術系書籍などは学者が同業学者に向けての論理構成だから、学者以外に正確な理解が出来る訳はないのだからである。
一般ビジネス書というものは、厳しい出版業界の状況から、多数の読者が、さも喜んで買うような内容に編集しているから、買った人が喜ぶように出版する。そんな出版物から、役立つ部分のみを理解することは、時間をかけても無理である。とかく、近年の学校教育は、“その意味内容が解らなくても覚えるだけ”といったAI頭脳教育に陥っているから、頭脳明晰であっても知識偏重主義(主知主義)であれば、プロセスを踏まえないから応用できないばかりか、誤読の頻発も招いてきた。(ここまで毎月号と同じ)