2023/01/06

第249号:今年は新規事業のチャンス

<コンテンツ>
謹賀新年のごあいさつ
「経済崩壊」と言われる中身は何なのか
未だ日本にはびこる封建時代の術策(アダム・スミスの分析をヒントに)
日本のデジタル庁では、紙片や複雑錯誤の復活、もちろん高価格
【新しい経済社会で役立つ、本の拾い読み 20230106】
 『アダム・スミスを読む、人間を学ぶ。』



§謹賀新年のごあいさつ
冠省 本年は旧来の文化・経済構造にしがみついている人たちにとっては、まったくもって最悪の年である。「良い年を」どころではない。ところが、新規事業(何らかのイノベーションを含む)に関わっている場合は、絶好のチャンスの始まりである。旧来の文化・経済構造から、「どうのこうの。」言って抜け出せないと言っても、所詮は、「事業を畳んで建て直す」ことさえすれば良いわけだ。~「いやーもう年齢が。」とか「どうも体力が。」と言っても、それはイノベーションをやらない宣言だ。だから、年齢の若い人とか体力のある人に、殊に男女を問わずに任せれば良いわけである。ゾンビ企業ともなれば、存続自体が経費倒れなのだから、整理をされる対象である。
ここでイノベーションといえば、次のとおりが世界共通した概念である。日本の場合は、経産省の前身の通産省の旧来に凝り固まっている方便で=、イノベーションを『技術刷新』と故意に中身をすり替えた翻訳を行ったものだから、インテリ気質の強い人たちを中心に、ある種の洗脳をされてしまっているわけだ。そんな方便のDX:Digital Transformationにしても経産省の誤訳(当メルマガ検索をどうぞ)なのである。
イノベーションを柱にすえた新商品とは、次の5分野。
1.新しい財貨、新しい原材料などの発見
2.新しい生産方式の開発・導入
3.新しい市場の開拓
4.新しい原材料、新しい半製品(いわゆる文明基礎商品)の発見
5.新しい事業組織を開発形成(社内・社内・ネットワークにわたり)
……要するに、シューペンターは、収益性、生産性、労働意欲性、効率性の4分野にわたって考えているのである。
 そして、世界経済における、日本の特技特徴を考慮するとすれば当面
「地元密着の地域経済、各地域の固有文化を込めた創造価値商品だ」
草々


§「経済崩壊」と言われる中身は何なのか
メディア・マスコミその他一般的な常識(みんなが行っている事)論理では、「経済崩壊」と言われる意味の中身が、全く議論されていない。確かに、現状の世間にあっては理解され得ないのだろうが、このポイントを見逃していては、将来すべてを失敗する。ほんの一部の人たちにとって、“頭の中が議論にふけっている学者や識者の存在”は、権力や利権にとって好都合である。なので、左右いずれの論客であろうが、彼彼女らは本質を突っ込まれると困るのである。今やそういった本質を語る学者や識者をテレビや新聞からの排除している。さて、「経済崩壊」の中身は次の2点に尽きる。
金融の投資を行って、経済活動を主導するといった方式。出資をするキーマンの言うことを聞くなら、金融融資を行うとの原則で動く。日本は幕末から明治以後はイギリスから融資を受け、戦後はアメリカから融資を受けた。現代人は、とにかく「投資をしてもらって経営する。」といった方式しか頭にない。
国や自治体が公共事業として経済を形作る。まったくもって社会主義計画経済と同じ手法であり、世界の社会主義国と同様の経済記事的失敗を招いた。そこへ、新自由主義の名称を用い、中身や行動は経済学とは無関係に、利権をあさり売却で現金化を進め持ち逃げする。
今やこの2つには、その理念も術策や方式も財源も無くなってしまった。それが世界経済の動きでもあり、今述べた「経済崩壊」の2点の範囲内で考えていれば、行く末は自滅しかない。まして、昔のように、「黙って言うことをきいていれば救われる」なんてことは幻想で、イエローモンキー(黄色人種or日本人)差別を持ち込まれ、救われるなどとは全くかなうはずがない。くどいようだが、心底からゴマ化されていても差別される対象であり、刹那的になればなおさら、差別されるか自律するかでしかないところまで追い詰められているのが現実だ。
昨年は、個々人の生活格差が一気に広がった。円安・株式・FXとか投資などといったものに対して、本当の経済経営の学問的無知のために、極めて多くの人が財産・資金を失った。“円安ドル高”は、3月7日の1ドル=115円から10月21日の1ドル=150円への変動は、中間層と言われる人たちの明暗を分けた。本当に経済経営学を学んだ人たちは、この相場30%増にあって、細目に変化する為替差損を見逃さず、投資額を40%も増やし、10月21日直後にドル預金を全て日本円通貨預金に預け替えた。この人たちはバクチをしない。「政府の相場介入」のマスコミの流す情報は信用しない。何事も学術でもって大局的に判断していた。★昨年秋口から投資信託を始めた人までも現れ、そんな人は開始直後から「ずっと赤字」のままだ。
いよいよ本年は、金融恐慌 → 産業恐慌 → 生活恐慌へと至る。底打ちは2025年と予測される。その年は、最も生産人口年齢が減少する年で、経済対策の時間も間に合わないから見通しも立たない。大半の人は崩壊の恐怖と思考停止から抜け出せないだろうし。


§未だ日本にはびこる封建時代の術策(アダム・スミスの分析をヒントに)
義(道理)を通さなければ、何事も、狩猟(狩り)と同じ未開人だ。
どんな国でも、自由市場経済(資本主義)へと名目上変わったからといって、封建時代の人間関係や商業などの術策が一気に変わる訳ではない。結論から言えば、そういった術策は、“それなりの相互関係両者”にとって現実にはマイナスであるにもかかわらずだ。自由平等のための社会形成がなされ、不断にフェアな制度改善がなされない限りは(そのための武器は民主主義)、どうしても封建時代の術策は残り続ける。すなわち、権力者がフェアFairでない限り、社会や経済の主役の立場であったとしても損害を被っている。「フェアFairでない権力者と主役たちの関係」は、様々な議論とか改善が徐々になされるけれども、アダム・スミス(国富論)とか、名誉革命とか、アメリカ独立戦争、フランス市民革命といったものは、あくまで「混沌かつ泥沼」からの根本的脱出を狙ったわけだ。
そして、フェアFairでない権力者の行為に加えて、被害を生じる“社会や経済の主役での被害者”に加えられた罪も問われない。そこには“権力者と弱者の妥協”が存在しているに過ぎない。くどいようだが、あくまでも“社会や経済の主役”にあって被害者は損害を受けている。損害を減らすために努力しなければ、それは本当に劣悪に陥るのであり、場合によっては悲劇(=社会構造が起因で、偶発とかの悲惨とは異なる)となっている、日本では特に“女性の奴隷化状態”が低賃金をはじめ不幸や悲劇といった温存の温床である。解決策は、女性の自律であって自立へのごまかし&貧困化に追いやることではない。
今から260年ほど前、“経済学の父”と言われるアダム・スミスは、まだ自由市場経済や資本主義が生まれ支配的になる前の状況を様々に分析している。もちろん、自由平等のための市民革命以前の世間状況とか文化を克明に分析したものだ。そして、往々にして封建時代の術策を用いる人たちは、その後に成立した文明Civilizationにおける社会制度においても、そういった手法を使用する。具体的には、後に述べる5つの枠で示した通りだ。道徳や倫理はさておき、現日本では帝王学として存在し(下世話なビジネス系啓発本やYouTubeの類も同様に)、当事者は損を被っているにもかかわらずだ。
未だ古代からはびこる、時代を超える、ささやかな処世術?
:現実にはびこる術策を無視することは、現実逃避でしかない)
・一般大衆がホラ吹きやペテン師に容易につけ込まれる。
・道楽者、放蕩者そして虚栄心の強い人間たちが、道徳を無視。
・話題の宗教ついて、あるいは宗教カルトについて
・表向き公正に同意するが、結果次第で感情に影響。
・称賛や非難は、3項目で判断されると分析。
殊に、日本のような自由平等のための社会制度というものの法整備や進展が遅れ、“フェア(Fair)”=「道義的に正しいこと。公平なこと。また、そのさま。公明正大。」~とはかけ離れた状況においては、ことさらアダム・スミスの分析内容が用いられ、弱者も生活防衛のため同様に用いらざるを得ない如くの、「泥沼」がはびこっている。そもそもアダム・スミスは、そこからの脱出のための経済学を語ったものであり、そのことで“経済学の父”とされたわけだ。すなわち、「『混沌かつ泥沼』からの脱出を志向」したわけだ。後で述べるが、有名な「見えざる手」の趣旨(著書:国富論の中でも「神の見えざる手」などと著していない)。むしろ、アダム・スミスは「相互に害しあう人々の間では機能しない」と明確に述べている。
筆者が推察するに、アダム・スミスが著し、「『混沌かつ泥沼』からの脱出を志向」が受け入れられた遠因には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通する、[旧約聖書→新約聖書とかイスラム経典]といった共通思考パターンが底流に存在するようだ。これは科学的と言われる仏教の論理構成とは異なるから学術分析には注意が必要だ。ただし日本へは古来から“景教(キリスト教の一種で中国では大秦寺)”として様々部分的に伝搬されているようで、日本書紀を始めよく似た思考パターンを見受けられ、そう違和感を持って排除されるようなものではなさそうだ。
話は戻って、さらに前項で述べた“具体的な封建時代の術策”は、極めて多くの(日本独特の)マルクス経済学者と称する者から、「唯一、資本主義が招いた経営者の方策だ」といった風に根拠のない偏見が、大学や労働組合運動などで共有されてきたのである。おそらくそういった人たちも、アダム・スミスが何を書いていたのかを、「憎さ100倍のあまり」に、順当正確に読み切れなかったのであろう。

・一般大衆がホラ吹きやペテン師に容易につけ込まれる。
アダム・スミスは、一般大衆は虚勢に組み込まれることを分析。
「最も無知なホラ吹きやペテン師は往々にして、しかもしばしば驚くべき成功を遂げる事実は、いかに一般大衆というものが、もっとも突飛な、しかも根拠のない虚勢のためにいかに容易につけ込まれるものであるか、ということを立証するに充分である」(アダム・スミス訳書p.523)
その内容を要約すれば、「以下のような場合、冷静な判断を下す人でさえ、一般大衆の感嘆に巻き込まれ、ペテン師につけ込まれる」とのことだ。
虚勢が非常に高い程度の真実にして、しかも充実した功績によって支持される場合。
見栄を張って飾ることのできるあらゆる華やかさを持って誇示される場合。
高い身分とか偉大な権力によって裏付けられる場合。
成功裏に発揮されて一般大衆も絶賛を博した場合。
(引用元~『アダム・スミスを読む』
:滝川好夫、ミネルヴァ書房)

・道楽者、放蕩者そして虚栄心の強い人間たちが、道徳を無視。
一般的な道徳原則を持っているとされる人物に関して、アダム・スミスは道楽者、放蕩者そして虚栄心の強い人間たちが、こういった道徳の一般的原則を無視すると分析している。そういった人物が“手先として・汚れ仕事役として封建的関係では“登用され用い”られる。もちろん、親子間や兄弟姉妹の関係にあっても同様に無視をするのであるから、他人や姻戚関係になれば尚更無視するわけである。さらに、「愛着心」は幸福を増進し、復興を防止したいといった習慣的同情であるとして、アダム・スミスは、「血縁関係」が遠くなるに従って愛着心は減退するとしている。さらに、「いわゆる自然的愛着心は、親子の間における推定的な生理的結合の所産であるよりは、むしろ道徳的結合の所産である」と述べている。(アダム・スミス訳書p.475)

・話題の宗教ついて、あるいは宗教カルトについて
アダム・スミスは、宗教について述べている。
「宗教は自然な義務感を強化する。したがって世間の人々は一般に深い宗教的情操を抱いている様に見える人々の正直を非常に信用する傾向がある」(アダム・スミス訳書p.366)
ある解説者は次のように著している。
『つまり、宗教心の篤い人は、
第一に世間の評判を尊重する、
第二に行為の道徳的適性を尊重する、
第三に他人の賞賛を考慮する、
第四に自分自身の胸中の賞賛を考慮する、
かくて、宗教心の篤い人は、行動の規則正しいことと正確なことに対していっそう大きな信頼が置かれるようになる』。
アダム・スミスは、宗教の名を語って、詐欺や恐喝を行う集団や団体とか、カルト集団とかは、もとより宗教とは区別しているのである。(解説元~『アダム・スミスを読む』:滝川好夫、ミネルヴァ書房)

・表向き公正に同意するが、結果次第で感情に影響。
現実には、たとえ表向き公正な格言に同意する人は多いとしても日本では、結果次第で感情に影響が与えられている。しかしながら日本の民事法においては、結果責任(および原因責任)の訴追は排除されている。
アダム・スミスが語るには、経済や経営の結果は、計画の中身に影響を及ぼすことを考えるよりも、結果を導いた思考パターンや配慮に対して、幻想的に良い悪い意見を抱かせる。ここに注意を払わないから、良いも悪いも通り越して、典型的な文明Civilization以前の社会を形成されていない前の世界的共通概念に多くの人間が陥っているという訳なのだ。
アダム・スミスは260年ほど前に、文明Civilizationにおける社会制度が形成される前(ないしは崩れている状況)にあっては、行動から計画の中身よりも、結果による感情で以て物事が左右されると分析した。
「世間は結果によって判断し、計画によって判断しないという事実は、いつの時代にも不変の種であり、美徳の力を大いに阻喪せしめる原因である」と。加えて、「結果は行為者の力だけではどうすることもできない以上、それは行為者の行為の功績または道徳的適正に関する我々の情操になんらの影響も与えてはならない」(アダム・スミス訳書p.456)と、アダム・スミスは主張している。

・称賛や非難は、3項目で判断されると分析。
アダム・スミスは260年ほど前に、文明Civilizationにおける社会制度が形成される前(ないしは崩れている状況)にあっては、称賛や非難について次の3項目で判断されると分析している。そして、②の身体的云々または③の実際上の結果の2項目は賞賛や非難の基礎にはなり得ないとしている。
したがってスミスは、『計画の道徳的適性・不適正、計画の慈善性・有害性のみが、正当な称賛・非難(是認・否認)の基礎になり得る』と解説している。(引用元~『アダム・スミスを読む』:滝川好夫、ミネルヴァ書房)
行為を生じさせた心の意図または性向。
身体の外的な行為または運動。
実際上の結果の良い・悪い。
さらにスミスは著して、「われわれはその原則の持つ真理をいかによく了解したように見えても、我々は特定の事例に臨んだ場合には、ある行為の偶然にもたらす現実と結果は、その行為の功績または罪過に関する我々の情操に非常に大きな影響を及ぼし、ほとんど常に我々の功績感を高めたり、低めたりする」とし、この点は情操の不規則性と言ったそうだ。(アダム・スミス訳書p.219)


§日本のデジタル庁では、紙片や複雑錯誤の復活、もちろん高価格
フェアFairではないから、個人情報こそ知らせない。
国民にとってそれは全く“当たり前のこと”だ。
民間事業であれば、余計な個人情報も必要なく、余計な個人情報に紐付けされることもない。ところが今日本政府が行っているマイナンバーとなると、どこでも何でも紐付けされ繋がれる。まして、日本政府の中枢には、“陰謀と隠蔽”が渦巻いていて、表には出てこない利権は散財し、経済や社会制度までが、「いわゆるコネ」でもって配分されている、それはデジタル庁ばかりか国家中枢のIT事業配分にも言えることだ。それらは決してフェアFairとは言えない。日本国内どころか、「統一教会の詐欺により北朝鮮に4,500億円の多額金銭が流れた」との事件、これはアメリカ大使館筋が流したものだ。
ましてフェアFairを監視するボランティアや個人(=日本では弁護士とか社会保険労務士を含む)に対する援助や助成もない、何もかもが自助自力であり申請主義である。だから、世界の事例を比較検討すれば、日本のようなマイナンバー制度の成功の可能性は無いと結論付けられる。
政府のマイナンバーが完成すれば、全体主義監視構造の国に変質し、肝心の個人の自由・平等・利益といったものが、ごまかされた者、→奴隷化された者などが先頭に、→金融資本の望む“予定調和”などに組み込まれた順序で以て、剥ぎ取られ・飼育される流れなのだ。それは日本における、COVID-19:ワクチン実験(専門用語では治験という)においても同様なのである。
(ゆうちょ銀行の公共機関系:振替振込システムも、電子化ではなく紙片伝票でなければ作動しないシステムに置き換えられていた、=ふるさと納税に関して郵貯は前もって自治体などに、この不便さを説明せず、昨年末に数自治体でもトラブルを引き起こしていた)。この下に示したものが、振替振込システムでの紙伝票の見本だ。
ここに、スウェーデン事例を紹介する。
『スウェーデンでは情報は原則すべて開示されることとなっている。これは先にも記した1776年制定の「出版の事故に関する法律」によって、全ての国民に情報への制限のないアクセスが認められているためである。一例として、スウェーデンでは他人の所得が納税額については閲覧することができる。日本では考えられないが、スウェーデンにおいてはそれらは秘匿すべき個人情報とされていないのである』。

『一般的には秘匿すべき個人情報とは、プライバシーに関する情報である。そもそも個人情報は個人に直接および間接的に関連するすべての情報を指し、氏名や生年月日等で個人を特定できる情報を言う。具体的には氏名、生年月日、住所、電話番号、メールアドレス、社会保障番号、年金番号、パスポート番号、写真などである。それらのうち、機密性の高い情報がプライバシーに関する情報となるわけだが、スウェーデンではこれらは全て公開されている』。~解説:公開とは、あたりに無造作に置かれている個人番号が解れば、誰でも検索して見られるとのことだ。シンガポールと同じように、銀行残高も分かるということだ。中国のように銀行残高の見当をつけられて購買力を開示されるのではなく、全公開とのことだ。

『それでは何がプライバシーに関する情報とされているのかというと、①人種または民族的出身を明らかにする個人情報、②政治的意見、③宗教または哲学的信念、④労働組合への加入の有無、⑤健康情報、⑥遺伝(DNA)情報、生体情報、⑦性生活や性的指向に関する情報、である』。

『これらの情報以外の個人情報はスウェーデンではプライバシーに関する情報ではない。上記の①から⑦以外は、誰でも閲覧できる情報、つまり公開情報なのである』。~解説:スウェーデンではフェアFairを監視する体制がボランティアも含め整っているとのことで、その結果が政府の信頼につながるとの評価を、引用した本の筆者は語っている。

引用元=『スウェーデンのフェアと幸福』(早稲田新書 015)新書
2022/9/12 福島淑彦(著)p.25~26から引用
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§【新しい経済社会で役立つ、本の拾い読み 20230106】
 『アダム・スミスを読む、人間を学ぶ。』

(この段落は先月号と同じ)筆者の仕事は、読者の解決手助けのために、あなたの正確な選択へと導くことである。なので、記事分量は少なく、あなたの判断材料となるように書いていく。(購入して読む必要もなく、あなたの秘書に代読する必要もない)。それは、学術系書籍などは学者が同業学者に向けての論理構成だから、学者以外に正確な理解が出来る訳はないのだからである。
一般ビジネス書というものは、厳しい出版業界の状況から、多数の読者が、さも喜んで買うような内容に編集しているから、買った人が喜ぶように出版する。そんな出版物から、役立つ部分のみを理解することは、時間をかけても無理である。とかく、近年の学校教育は、“その意味内容が解らなくても覚えるだけ”といったAI頭脳教育に陥っているから、頭脳明晰であっても知識偏重主義(主知主義)であれば、プロセスを踏まえないから応用できないばかりか、誤読の頻発も招いてきた。(ここまで先月号と同じ)

①『アダム・スミスを読む、人間を学ぶ。
 いまを生き抜くための『道徳情操論』のエッセンス』
 滝川好夫(著) ミネルヴァ書房 2022/9/6発売
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(むらおかコメント)
旧態依然の経済構造や商業慣習とか、縦社会の型に他人をハメたい人間関係を維持(その典型がモラル・ハラスメント)には、様々に納得しやすいカラクリを含めた作り話が用いられる。中世から封建時代にかけては、迷信とか・迷信めいた作り話が横行していた。それはまだ科学(自然・精神・社会の分野にわたる)が未発達なこともあり、いわゆる三大宗教のような論理すらも適当に根本から否定していた時代である。
そこでアダム・スミス(1723年生まれ)は、個人相互の人間関係だと勘違いしやすい、「『混沌かつ泥沼』からの脱出を志向」を目指して、当時の倫理や道徳の視点から分析をし始めたわけだ。道徳感情論を1759年第1版~1790年の第6版にかけて、アダム・スミスは道徳や倫理の研究視点から研究を行った。だが彼は、(当時はまだそういう概念は未熟だった)社会からの手立ての改革が最も重要と考え、途中の1776年に「国富論」を執筆し、それが経済学の父と言われる所以となったわけだ。いわゆる“自由市場主義”の概念である。この自由市場主義といった名称は、マルクスの資本論が出されて以降、資本主義という名称に変わっていった。なぜそういった流行の名称変更が起こったのかという学問分析は未だになされていない。
260年前の文化や思考パターンの分析は、現在の世界大変革を迎える時期にとても役に立つ。フランス革命の際も、「迷信は聞くな」と言った合言葉の基には、ディドロをはじめ当時の人間関係に関する文化の研究(百科全書派とは若干趣が異なり)が成されていた。ことに日本は、相当イギリスの影響を明治維新で受けているから、論理に馴染みがあるのではないかと思われる。
今、最も役立つ事は、あまり知識のない人物からすれば、この書籍に含まれる修辞学(レトリック、Rhetoric)のようなものでも、自らが頭から「アイディア・名案・ニュービジネスなど」と勘違いしているケースが多い実態だから、その予防にも役立つわけである。要するに、詐欺恐喝だとかネットビジネスの失敗を防ぐ、もしくは、あまりの利潤や危険リスクを招来しないためでもある。とにかくSNSの言語粗雑な環境にあって、思考は極めて薄っぺらく狭窄し単純化しているから、難しいけれども、何かにつけて失敗とか諦めに陥ることを防ぐことが重要なのだ。心理学や心理とか精神療法(うつ病始め障害と言われる疾患)にも資するだろう。
古典派経済学のマーシャルは、アダム・スミスの道徳を受け継いでいるといわれている。マーシャルは、2008年のリーマンショック前までの経済体制に通用するニュービジネスの種を取り揃え執筆していた。経済学を学んだ人はこれを新規事業として導いた。経済学に疎い人たちは自らが頭から「アイディア・名案・ニュービジネスなど」と勘違いしていた。驚くことは、当時、職業安定法の職業紹介とか労働者派遣の事業も、ニュービジネスと勘違いする経営者の有様だった。そして、このマーシャルの道徳その他に縛られないといった妄想で、「新自由主義」を持てはやした訳だ。だが所詮彼らは経済学の蓄積とは関係がないので、“経済学者の提唱した新自由主義(ハイエクなど)”を学んだ形跡もない。当時トヨタ自動車の社長は,「神の見えざる手」との在りもしない話を誰かに吹き込まれて、自慢し吹聴していた。そしてトヨタ自動車は今に至る。
生きたければ、この書物を読んで、気になった箇所から浮かび上がろう。