2008/01/08

第69号

2008年のスタート、今年は良いことがありますように。

多くのマスコミは一斉に、2008年を“閉塞感”漂うとした論調で、この年始の論評をした。
OECD全加盟国30ヵ国中、日本人ひとり当たりの国民所得の順位は、平成12年は第2位だったものが、平成18年には18位に転落したと報道された。労働者派遣法と男女雇用機会均等法が施行された昭和61年当時、パートタイマー300万人と言われていたが、今や派遣労働者は321万人となり、パートタイマーなどは1500万人ほどに膨れ上がった。NHKによると、「貧困研究会」という名称の民間の政策研究会までが、大学教授らによって設立されたとのことである。社会は“閉塞感”が、ますます強くなると、記者たちは言いたいのだろうけれど、よくよく考えてみれば、社会はそうでは無い。
結論!:他人に寄り添ってこの世で生きている人間にとっては、もとより寄り添っているから、自力で何かしようという積極姿勢もなければ、もちろん打開した結果も存在しえないものだから、“閉塞感”が漂うだけは当然のことなのである。ほとんどが自己防衛本能に基づく発想にとらわれる。よく話題にされる終戦直後やバブル時代に、この人たちはどうだったかといえば、当時も他人に寄り添っていたのだから、時代の波に乗ったわけでもなければ、恩恵も受けなかったのである。そういえば、アメリカの労働経済学に、サラリーマン生活が長くなれば、他人への依存心が強まり、思い切った着想が弱くなるという学説があった。
1月1日、日本経団連(御手洗会長)は、多くのマスコミの閉塞感を横目に、近年になく、「成長創造 躍動の10年へ」のスローガンを打ち出し、同じOECDの国民所得転落の資料を使いながらも、“閉塞感”などのカケラもないのである。
仮にも、マスコミからすると、読者に迎合し、波風の立たない、読者視聴者の人気取りの編集戦略であったとすれば、極めて人気の高い、“閉塞感”論議なのである。ところが、“閉塞感”はそれだけではない。京都清水寺の平成19年の漢字、「偽」と真っ向から相矛盾する構図ではないだろうか。果たして、毎日流れるマスコミの“閉塞感”の信憑性は、いかがなものなのだろうか?


労働契約法は今年の3月1日に施行される予定で動いている。
何十年後には、労働問題の大きな転機として歴史に評価されることは間違いない。ただし、その転機の渦中にいる人たちはなかなか気付かないものである。
労働基準法が施行された昭和22年、当時は専門家を除いて、法律の存在にすら気がつかず、8時間労働や解雇に制限があるなどとは思いもよらなかった。
昭和63年、労働時間が1日8時間から、1週40時間へと労働基準法が変更されたが、これによって、スーパーや百貨店をはじめその他の営業時間が延長され、産業構造は変わった。今や1日8時間労働で物事を着想すれば、日常生活ですら適合できない社会になった。
そして、今年の労働契約法施行による変化は、会社や労働者の権利義務の白黒が、法律によって判定されることになり、契約による社会共同体(私的自治権と統治義務)が充実されようとしているのだ。もちろん、法律の条文通りに守ったからと言っても、信義則、権利濫用、公序良俗(公の秩序と善良の風俗)の民法の原則に反するのであれば、もとより通用することはなく、その手段方法が自由・平等(法曹界では、社会正義という)の目的性がなければ、誰も取り合うことは無いのである。このことを踏まえずに、自らの主張を行ったとしても、個別企業も労働者個人も共に認められることはなくなるのだ。裁判のみならず、あっせん機関および官公庁の対応も順次変化をしていく。
さてそこで、個別企業の現場から生まれる、いくつかの疑問を整理してみた。

「罰則なし」だから、
罰則がないから労働契約法の効果は無いと説明する学説がある。しかしながら、労働契約法は職場でのトラブルを未然に防止するための基準として立法されたものであるから、もとより罰則でもってどうこうするといった刑事・警察機能を持たせた法律ではないのである。そんなことより実際には、あっせん機関や裁判所などに持ち込まれて、未払い賃金や損害賠償を一挙に支払わされる方が、個別企業にとっては罰金よりもショックなのである。また、そこでの結果は従業員の労働意欲のさじ加減となって現れるのである。
多くの弁護士の論評は、「労働契約法が出来たからといって、何も変わることがない!」といったものが大半。しかしながら、この論理は訴訟が提起されてから、初めて裁判所で通用する代物であって、職場でのトラブル未然防止の着想はない。法案のたたき台を論じた審議会からの風の便りによると、「弁護士から、それも労働側も経営側も、トラブル未然防止の視点がなかった」とのことである。
加えて、労働契約法の条文に載っている、「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」と、ここまでは具体的な判断基準として法律家であれば取り違えることはないのだが、その次の「その権利を濫用したもの」は、法律家でも間違いやすい内容なのである。すなわち、民法第1条の権利の濫用は、平たくいえば、濫用かどうかを裁判官が決めるというもの、これに対して、労働契約法に出て来る「その権利の濫用」の判断基準とは、裁判官の受け止め方で決めるのではなく、それぞれの条文に規定している具体的判断基準となる。
出向であれば、必要性、選定事情、その他事情に照らし合わせる具体性が求められ、そうなると裁判官の判断作業は過去の判例に従うことといったプロセスを踏ませる。
懲戒であれば、労働者の行為に対して、客観性・合理性・社会相当性を裁判官がチェックするように求めており、裁判官の裁量は極めて少ない。
解雇も同じく客観性・合理性・社会相当性をチェックすることで、権利の濫用の有無を判断するようになっている。
数ある法律の中でも、これらは独自累計を設定しているため、事業主が街の弁護士に相談した場合には、民法第1条の観念による間違ったアドバイスが予想され、それを受けて会社敗訴に陥ってしまうケースが続出しそうなのだ。あげくに、会社側弁護士が裁判官に説得されて、事業主に和解を強いることも、従来にも増して出没するかも知れず、よくよく洞察してみれば、それは当該弁護士の判断ミスということなのだ。

「就業規則優先か?労働契約優先か?」
少し専門的な解説をすれば、就業規則に記載してある規範や秩序でもって、職場内を統制することに重きをおく考え方が就業規則優先(就業規則法理)、これに対して自由対等な立場で労働契約を結んでいることが前提であることから、本人の同意がなければ、ことごとく拒否できるとするのが労働契約法理。これのどちらが理想ですかと何十年間も議論し、裁判所でも争われ続けているところだが、なかなか結論が出ないところに、今回の労働契約法はひとつの具体的仲裁的な法理を提起したのだ。
すなわち、一例をあげると、自分が知らないうちに、就業規則変更によって退職金規定がダウンされた場合、知らなかったし、期待をしていたことから、退職金ダウンを無効とするが労働契約法理である。では、説明してあれば良かったのか、払えない事情があれば良かったのか、就業規則変更に問題があったのか、などなどの疑問や会社の手抜かりが労働事件として訴訟が提起されている。こういったことをクリアすれば、職場内秩序の維持のためには就業規則を優先させることが必要ではないかとするのが就業規則法理である。
これを踏まえて、とりあえず労働契約法では具体的に定めた。不利益の程度、必要性、就業規則の相当性、交渉状況、就業規則変更事情をチェックしてみて、道理が通っている(これを法律用語で合理性という)のであれば、就業規則を優先させようとの決着をみたのである。したがって、チェック項目の欠落とか意味不明な説明であれば、不利益変更は無効とされる。無効とはもとより無かったこととする意味で、元通りの退職金や賃金などを支払わなければならないことになる。
さて、そうすると、個別企業の側からすれば、安易な思いつきではなく、代替措置や将来措置が具体的であり、従業員またはその代表らとの交渉を行ない、誠実な対応に徹底して、就業規則改訂を実施さえすれば、不利益変更は十分可能であるということである。ただし、これらに事業計画、敗者復活や努力実現の可能性、独断偏向の排除などの措置が付随し、交渉経過については、誠実説明義務ではなく、合意納得性が要求されることから、(専門家の力を借りるなどして)大規模に実施すれば良いということになる。
ただし、形式主義に陥らないように注意しなければならない。信義則、権利濫用、公序良俗のポイントが欠落するからだ。信義則の原則とは、簡単にいえば、ウソ、だまし、抜け駆け、ペテンにかけることを指し、一般的に形式主義を見破るポイントは、この信義則と言われている。(ちなみに公務員には民法の信義則は通用しませんから、真似をしないでください)。
不利益変更危険リスク:チェックポイントは、これらの具体的措置が整わなかった場合に、原状や原状であった就業規則に基づく損害賠償が必至、訴訟ともなれば6%の利息加算となることであり、ひとりに支払わされれば、全員に払わなくてはならなくなることである。


「均衡を考慮&仕事と生活の調和にも配慮」
とは、今時のワークライフバランスのことを言っている。信義則を守り労働契約を締結したとしても、その時代の時流のワークライフバランスに相反することは善くないという考え方のことである。したがって、訴訟が提起されれば、時代の潮流までも審理の対象として可能ということになり、労働裁判や薬害訴訟などでおなじみの、裁判所外圧力として機能する世論の力の類を、訴状や準備書面に持ち込む道を開いたことになるのだ。いわゆる、法律条文解釈に限定した血が通わない冷たい判決は駄目という法律の規定なのだ。国会の駆け引きの話でいけば、民主党による政府案復活である。
一例をあげると、
労使が望んだからと言っても、終業時刻午後11時50分、翌日の始業時刻午前零時10分の設定をし、2労働日だから問題ないとするのは、「いかがなもの?」としたのである。イギリスなどでは、次の労働日の始業時刻までに12時間程度の労働からの解放を義務づけているが、厚生労働省関係がこういった事例を紹介しているのである。厚生労働省には、こういった目論みが存在するのだ。あるいは、昼夜ニ交替勤務ともなれば、夜間に仮眠時間を与えないのは安全衛生のみならず、仕事と生活の調和の上でいかがなものかとなるのである。日雇い派遣は合法的に、たしかに行われているが、労働者派遣法による事業停止命令を行う背景も、こういったところに存在することを見ておかなければならない。
格差是正との関連での例え話をいくつか。
1週間や1日の労働時間を定めずに労働契約を結んだ場合は、1週40時間・1日8時間が原則となり、会社には労働者を働かせる権利があり、働かせなかった場合には賃金保障の義務がある。ところが、職務評価などが低いことを理由に、本人の同意を得た?として、1週間の労働時間をどんどん減らして行って、終いには1週間のうち4時間程度の労働契約としてしまい、退職に追い込むといった方法、この手の類が存在していることに、終止符を打つことになるのだ。
有期の雇用契約を結んでおきながら、仕事がある日だけ出勤させ、出勤しない日は賃金不払いとすることに、労働基準監督官が問題なしと指導した事例があるが、もとより契約不履行なのだが、これを一目瞭然でダメと判断できるようにした。
忙しい曜日と暇な曜日の差が激しいことから、労働者が時間外の改善を求めたところ、「暇な日は早く帰ってもいいけれど、その分の賃金は差し引く」などとの不正な対応も存在することから、民法536条の危険負担の法理が熟知されていないことも考慮し、ダメと判断できるようにもした。
こういった事例の際には、「本人の同意を得ています!」といった形式主義が使用者側から主張?されるが、だいたいの関係者は詭弁とは判っていても、あまりにも詭弁が反復継続されることから、信義則に反すると証明を繰り返し行うとなると一般素人には無理なこととなることから、均衡・仕事と生活調和としたのである。
いわゆるアンフェア・トリートメント(不公正な取扱い)、グローバル社会の負の部分に対抗するためである。また、現代の紛争解決潮流のひとつである、「手続主義の法パラダイム」(公正や正義というよりも、変更手続のプロセスを重視する時代潮流)を逆手にとって、「手続きを踏んでいますから!」を理由に不正を強制する行為に対しても、規制をかけることとなったのだ。

「足して二で割る:調停の偏重」
ところで、労働審判でもあっせん機関(紛争調整委員会や労働委員会)においては、日本における和解作業の未経験さから、裁判官その他が率先して、和議・和睦、その他取引を和解と勘違いしているきらいがあり、いわゆる双方の要求を足して二で割るといった機械論が横行しているのである。例えば、サービス残業の賃金不払いを、早期解決のために、この際200万要求したところ、会社は100万にしてくれと値切りに入る、ここに裁判官が200万と100万を足して300万とし、二で割って150万の調停案を押し付けるといった事例である。
労働審判において、経営側審判員や労働側審判員の発言などどこ吹く風で、労働問題には素人の裁判官が調停を振りかざしている事例の中には、こういったものが多いと言われている。紛争調整委員会では、熟練度の浅さに比して、足して二で割るが横行しているという。足して二で割ることを一貫して否定して来た労働委員会でも、最近はやったことがない公益委員も数多く存在し、斡旋制度の立法趣旨など聞いたことがなさそうな勉強不足である。
労働契約法は職場トラブルの未然防止に重点が置かれているが、おそらく紛争解決のひとつの基準として用いられることも間違いないから、足して二で割るような調停を出される前に、個別企業側から、あるいはその代理人側から、労働契約法各条項の立法趣旨の陳述や主張が、有利な展開を導くためのきわめて重要な根拠に用いられることは間違いない。ただし、裁判官やあっせん委員を「諭す」勢いの論述は、能力というよりも代理人という立場でなければ、なかなか実行できないことも、たしかな事実であるので、念の為。
さてこれは、社外に持ち出されたときの話であるが、これと同じことは社内でも発生する。社内では、中間管理職が調停めいた作業を行って来たところだが、「足して二で割る」手法も中間管理職としては使用不能であったところに、労働契約法の内容が持ち込まれて来ることも予想すると、トラブル未然予防が、唯一順調な企業発展の手法となるのだ。社会共同体の秩序破壊するような経営、例えば、堀江モン、村上ファンド、グッドウィル、フルキャスト、スタッフサービスなどなど、成り金思考など通用しないのだ。


ところで、この労働契約法、それほど世論は関心を持たず、大したニュースにもなっていない。
個別企業に、いかように影響するかの解説も行政側からは行われることはないと思われる。ここで述べたような、詳細な影響を行政側が話題にすれば、おそらく、世間の反発を買い、法案は流れてしまったことも予想される。ホワイトカラーの時間外賃金除外の法案部分などは、一斉にサービス残業請求運動が巻き起こったために、あっけなく流れた。賃金6ヵ月分程度の解雇問題解決、たしかに相場はその程度だけれども、労使反発で、その法案部分も流れた。労働側からすれば、今までの戦いを蓄積した内容も盛り込まれていたにも関わらず、労働側は成立自体に反対をし、表向きは徹底した批判姿勢を貫いた。
だがなぜ、経営側や政府側は、ここまで法律成立に努力したのか。
その背景や意図には何があるのか、そこはひとつ、考えておかなければならないポイントである。
昭和63年の労働基準法改正は、1日8時間労働の原則から1週40時間労働の原則へと変更することによって、産業構造の大転換が行われた。現在、日本経済の目指すところは技術立国。すなわち、「高付加価値製品と高水準サービス」の商品提供は、ほぼ誰もが認めるまでに至っている。そして、そのツガイとしての文化的生活やゆとりある豊かさが追及され、古代の自給自足生活に逆戻りしようという概念は否定された。日本の文化を守ること、文化経済学、教育への関心の高さといったことは、こういった世界の中での日本経済を安定させ、日本社会共同体の私的自治と統治義務が議論されることとなったのだ。
「一方が儲かり、他方が損をする」のは経済学の目指すところではなく、「双方ともに儲かるなどして豊かさが追及できるようにすることが、本来の経済学!」といった考え方も復活をして来た。OECDで国民所得第2位のうちは、勝者の論理として非経済学的な夢物語が信じられたとしても、第18位まで転落ともなれば、誰もが目を覚ます。
ところで、会社人間からすればショックとも思える、ひとつの視点が存在する。
会社人間が多いのは事実だが、果たして会社のために法律違反をして来た人を、あなたの会社でも守れるのか?といった現実問題だ。昔から、この人を会社は守って来た。が反面、守らなかった会社も存在し、そこでは下克上・裏切り・腐敗が横行し、企業としての将来や発展などは論外であった。大量の仕事を受注してはいても、社内では利益の食い合いといった地獄絵図である。これは経営・帝王学の定石であった。そして今や、日本で個別企業が、この人を守ることは、経済的にも社会的にも不可能になった。まして一連の偽装表示などの事件に関われば、連帯して職を失うこともあるのだ。そこで、着想の大転換!職場トラブルの未然防止が、個別企業の経営管理の下支えとして必要となり、これを国家戦略として用いなければならないほど、日本経済は技術立国へ向けての大転換を迫られているという観点なのである。
時代についていけない企業と人物は、いつの時代でも社会から排除される。
時代の先端を走る個別企業は、社会をリードしているし、社会共同体の秩序に相反するビジネスを展開することも、あり得ないのだ。
加えて、人件費の高い国は、技術が発達し機械化が進展するという経済理論は揺るぎのない事実なのだ。