2011/07/05

第111号

<コンテンツ>
最大のマーケティング手段:次世代のイニシアチブ
経営管理は、まるで心理戦争の真っただ中の様相
日本経済の先行き議論は尽くされた
日本の工業製品型産業に対する大量の資本投下は
生活文化商品型の産業へシフトの道
くどいけれども、失敗しない、重要ポイント
経営管理論は、世界に三つの流れがある
似非ICT革命を予言していた発明者
生活文化商品型産業の事業者の姿勢


§最大のマーケティング手段:次世代のイニシアチブ
毎日氾濫する断片的なマスコミ情報は、どこもかしこも社会がまるで混乱しているような様相を植え付けている。ところが意外にも、国家行政の官僚機構は、実は思い通り着実に事を進めている。官僚がどんどん社会問題に取り組む、とは言っても保身と自己増殖は念頭に置いていたが。次々と政策提言も目白押しである。ここにきて、経済団体なども政策提言をし始めている。すなわち、政府、経済団体、個別企業の何れもが、次世代のイニシアチブをとるために内部を固め、外部にアピールしているということなのだ。
http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2011/110624a.html
だからここは、たとえ小さくとも個別企業も、イニシアチブをとるためのビジョンを具体化しなければ、この局面は消滅するのが自然である。昭和大恐慌の時期も、ビジョンを持てずに、時代に流された企業は消滅、残った個別企業は極少であった。残れたから戦後に成長のチャンスをつかむことが可能となり、現在に至っている企業は多い。
中堅・中小企業にとって、今や大恐慌の真っ最中である。ビジョンを具体化して果敢に会社経営が出来なければ、昭和大恐慌の時代と同じように消滅する。当時、曖昧な判断や勇敢に経営しなかったこと自体が致命傷を招いた。社員やクライアントの話を、そのまま鵜呑みにしてしまえば致命傷であった。その結果、消滅してから自慢話や昔話をする人が、その時代の人には多かった。当時の経済雑誌を紐といても、そういった話ばかりであり、今は聞いたこともない会社の山のような強気の記事ばかりである。
総務人事部門は、個別企業の経営者を強力に支えて、社内で経営者のイニシアチブを確保・キープすることが、切迫状態での最重要業務だ。イニシアチブ確保とは、多数のリーダーを配置するということで、何をするにも仕切りたがるBOSS猿を野放しにすることではない。


§経営管理は、まるで心理戦争の真っただ中の様相
経営者であっても、物の見方考え方、自身の生き方(=すなわち自らの哲学)が、その人なりにはっきりしていなければ、誰でも人生を振り回される。経済学や経営学の学術分野では、何事も合理性(=筋道?)を前提として理論が組み立てられているが、近年の論議は、不合理な行動パターンも研究しようではないか!となっている。これは、何かに振り回されて判断(生き方)している現象を分析しようとの現われでもあるのだ。
はっきりいえば、
資本が投下され→初めて会社経営をするといった経営管理の経験しかない人物
であれば、金がなくなれば
→やる気をなくし
→生活力は減退し
→時代にあった職業能力は身に付かず
→あげく職業能力消滅といったパターンに至るのだ。
まして、個別企業にもたれかかっていた、「おんぶにだっこ」の労働者の労働意欲激減は、全国的にはなはだしく、特に首都圏はすさまじい様相だ。これは、マスコミが情報操作する政治混乱が原因とは考えられない。(終戦直後の政治大混乱時期こそ経済興隆が盛んであった)。 むしろ依存症、強いていえば人間関係依存症に原因があるようだ。依存症が強いから、政治の混乱を自らの労働意欲減退の原因と、他人事のように思っている。職場のメンタルヘルス問題自体も、主要な根幹は依存症かもしれない。
社会の底辺セーフティーネットである生活保護も、ここ数年に予算増加し若干の改善が見られたにも関わらず、現実には生活保護を拒絶しホームレスを選択する人が目立っているとの調査結果だ。併せて、人間関係依存症の増加も報告されている。とにかく、詳細な論述は後にして、それ位に日本の、特に若者の労働意欲減退、生活意欲減退がはなはだしくなっているのだ。
これを、残酷な歴史学的な側面から視てみると、そこから導き出される予想は、
→意欲のない人物、
→希望が持てない人物、
→具体策を組み立てない人物、
→積極的行動が取れなかった人物、
→意見の違う人とも協力出来なかった人物
→といった順序で、篩(ふるい)にかけられて、
→生物的に消滅する結論にたどりつくばかりなのだ。
補足すれば、意欲のない従業員、意欲のない組織・集団に巻き込まれれば致命傷なのだ。
まるで現在は、心理戦争、真っただ中の様相である。


§日本経済の先行き議論は尽くされた
そういった社会動向にあっても、日本経済の方向性の議論は尽くされ、次は実行と選択を個々人単位で迫られているようだ。その先行き方向性とは、個別企業の経営方針が、最終消費者に向けての生活文化型商品産業の育成をすることにほかならない。
今、日本で流通しているほとんどの商品は、生活を重視して量産されていない。製造しやすさ優先の工業製品と変わりないのだ。最終消費者の生活や感性の消費にむけた直接商品に焦点を当てて商品生産、また量産化をすることから、従来の標準型・画一型・模倣型とならざるを得なかった工業製品型とは異なる物である。たとえば、百円ショップに見られる商品は工業製品型であり、作成キットや半製品組立家具などは、典型的生活文化商品といえる。
大手企業の工業製品型商品では、いくら顧客のニーズをつかむとか、生活や感性にマッチした物を考案したとしても、必然的にそれは失敗する。なぜなら、超高度工業製品だとしても、最後は最終消費者が購入することにならなければ経済が回らないからである。軍事製品は大量生産大量消費をしたとしても、最終消費者が購入しないから必ず財政危機を招き、戦後に超インフレ政策をとることで大衆に課税をして帳尻を合わせたにすぎない。
だから、いくら工業製品型商品の可能性を力説しても、社内のプレゼンでのごまかし程度でしかない。内心でも、この現象に気づかない担当者なのであれば、その者には基礎能力がない。


§日本の工業製品型産業に対する大量の資本投下は
もちろん見込めない。震災後4月の帝国ホテルの客室稼働率は35%、ホテルオークラも48%とのことだ。これは、採算稼働率ラインの70%を割り込んだというよりも、外資系や大使館関係の投資関係の外国人激減=日本への投資減少(震災復興が大規模ならば来日者は上向く)の兆候である。
米国のシンクタンクCSISのアーミテージは6月21日の経団連との懇談会で、日本への全面支援について、
1.日本が国際社会で必要な範囲で
2.世界経済にとって必要な程度の日本経済再生
3.中国台頭に対し、平和的に抗する程度の日本復活
……これが理由だったと明言している。1990年からの失われた10年の3回目を迎えて、世界での存在感の薄れている今の日本は、この程度なのである。経団連の「復興創生に向けた緊急アピール」(24日)も、意欲的な話ではない。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/066.html
もちろん、地震・津波・原発の復興財源など「在りもしないでしょ!」というのが「復興への提言」(25日)の言っているところだ。(経済学は銭金ではない、筆者は、銭金第一の復興イメージだからこそ無理と挫折しかないと思うが…。)
http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/#12
むしろ、多国籍展開をする大手企業は海外に拠点を移し、海外の工業製品型産業に投資が行われるといった姿が、グローバル経済の現状である。震災後、東北などのサプライチェーンの被災地外への移転がうわさになったが、現実は震災直後からの海外サプライ対策であった。「資金・財源さえあれば…」と釈明する輩は基礎能力がない若しくは無責任でしかない。
とりわけ、従来から日本の工業製品を支えてきた模倣型商品は、相次いで発展途上国に即時模倣され続け、日本の世界ランキングは下降する一途である。労働集約型の工業製品型産業は空洞化し続け、海外移転せざるを得ないが、そうなると日本の企業が工業製品型産業を担う必要性もなくなるというわけだ。
こういった行方を昔から見越していた、大英帝国、フランス共和国など歴史的に工業製品型産業を発展させたヨーロッパ先進諸国の経済は、過去に蓄積した産業インフラ基盤の上に「生活や感性」に焦点を絞った感性文化や生活文化商品型産業を発展させている。同じく、他山の石として見越していたアメリカにおいは、1935年に芸術家4万人の雇用政策を実施、現代につながるアメリカ文化型産業を発展させ、単なるアメリカ$と軍事力支配を避けた歴史もあるのだ。(日本人の、アメリカ大好き・イギリスイマイチの由縁でもある)。


§生活文化商品型の産業へシフトの道
だとすると、日本国内の産業育成の柱は、生活文化商品型の産業に傾かざるを得ない。再生エネルギーや地産地消に見られるような流通スタイルに向かうことと合わせてのグローバル経済への展開、これを進める方向には希望が見いだせる。経済同友会をはじめ多くの消費財系企業のほとんどが、生活文化商品型(生活+感性)へのシフトを力説している。
http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2011/pdf/110624a_03.pdf
生産財系企業では、しきりに政府の財政政策次第と力説するのが目立つばかりである。感性の価値を含む日本文化型も育成されつつあり、「かわいい」の概念(フランス語にもなった)、フィギュア、アニメ、マンガといったものは世界に発信されつつある感性商品である。また、忘れてならないことは、高付加価値製品あるいは高水準サービスの商品を提供する次世代産業においても、日本文化に内在してきた伝統工芸や伝統芸能などの技術・技能・ノウハウが高度素材製品開発の裏付けとなっている事例も多く、今後日本の高度工業の方向性を示している。


§くどいけれども、失敗しない、重要ポイント
がある。生活文化型商品産業は、各地の地場産業と密着融合しなければ、最終消費者との経済循環が図れないことが条件なのである。経済循環を考えずして継続的商品生産は不可能である。顧客のニーズや生活や感性にマッチした物を売り続けることができたとしても、それは最終消費者の富を吸収するだけで、あげくは吸収する富が無くなるだけのことである。伝統工芸や伝統技能が、超高度工業製品や超高度サービスの基盤になっている事実からすると、日本の文化資本がイノベーションを支えている能力背景にあることは見て取れる。だとすると、地場産業の技能と大手工業の技術の融合がポイントとなり、その方法は技能と技術の情報伝達と意思疎通における「翻訳作業」による融合開発が決め手となるのである。
ところが、技能労働をないがしろにしがちであった模倣型工業製品を生産主力としていた大手企業にあっては、ここでいう「翻訳作業」を否定した訓練教育(標準化:マニュアル訓練)を続けてきたために、技能と技術の融合に反抗する労働者のたまり場となっている実態が存在するのだ。これを解消するための、大手企業存亡をかけた方針転換が具体的に現われないかぎり、いくら顧客の生活、文化、感性だと言ってみても、転換する術がないのである、例えば「ことづくり」といった言葉に象徴されるような生活文化型商品産業モドキであっては。
さらに、今までは、技術・ノウハウさえ「伝達すれば」とのことで人材マッチングとか一方通行的指導が中小企業向けに行われてきたにすぎないから、技術者と技能者の双方受入側からすれば拒絶反応を生じさせていたのである。「大手の硬直頭の技術者」対「中小の空っぽ頭の技能者」といったように。そこで、双方受入側の希望するニーズを調査するプロセス(型)を踏むことで、相互に情報伝達と意思疎通の「翻訳作業」を行ない、生活文化型商品群の発掘と量産化の展開を念頭に置いた手法が大切である。とにかく、この型が重要ポイント、多くの人間は(後述:コンピューター発明のウィーナー理論)、体得した能力を得れば型を生み、新たに学習したときは型を変更してノウハウを積むとのことだ。
これらは地道であるが、発展途上国に即時模倣され、新規事業を一夜でつぶされることはない。生活文化商品型産業が空洞化するとは考えられないので、有効な支援の蓄積も見込まれるものである。文化をもとに、地場産業と密着融合、最終消費者との経済循環がコツとなるのだ。循環を考えなければ、貧困化するのだ。「不幸は転勤の後に来て…」では、無責任官僚と同類だ。


§経営管理論は、世界に三つの流れがある
経営管理論は経営の失敗を防ぎ、成功を体得した積み重ねを体系化したものである。
第一は、米(英)のもので、日本の議論はこれ一辺倒といった危険と裏腹だったところの、よく知られた理論である。
第二は、北欧のもの、フィンランド、スウェーデン、デンマークといった人口数量をあてにしない、もっぱら教育と能力向上で勝負している地域の理論である。
第三は、アメリカや北欧の最先端経営管理を大学で学び、これを何千年の歴史のあるイタリア方面ノウハウに上乗せした理論である。それぞれの経営管理論には、哲学的背景もありハッキリした特徴がある。このメルマガでこれを解説しても、それほど意味はないから省略する。が、経営といえばアメリカ流だけ、経済といえば金融だけといった浅墓な経営管理能力では、この大恐慌の渦の中で消滅没落する。日本的経営方式なんかは、日はまた昇るときのエピソード程度で、日はまだ下がるときには話題にもならなかった代物である。東南アジアで取り上げられるのは、日本が進出しているからこそ、日本人が話題にしている程度にすぎない。だから早急に、こういった世界最先端の経営管理論も吸収していかなければならない。なぜならアメリカ流の経営管理論は、生活文化とは似ても似つかない工業製品型産業育成に焦点を当てた理論だったからである。
他に例えば、トヨタグループの生産・労務管理というのは、いわゆるテーラーシステムは最終的には個々人裁量(個人主義)に依拠するといったものを、トヨタの人事担当者が小集団裁量(全体主義)に差替えたところに特徴がある。これを人事担当者自身が自覚していたかどうかは知らないが、まるでレーニンがソビエト連邦にテーラーシステムを導入した、НОТ(ノット=ロシア語)と同一様相なのである。全体主義では、経営の理想よりも世間体が重視されるから、結果そんな製品が量産され、それにまつわる特異な労働事件頻発なのだ。トヨタグループは中部地方の地元地場産業を抱え込んで成長、この点は関西のような大手企業と地場産業が基本的に分離した経済圏とは異なっていると分析されているのではあるが、根本が全体主義であるとすれば、地元地場産業との包括密着した関係も特異な関係であるわけだから、北欧やイタリア方面流の生産体制とか商品構成を取り入れたイノベーションとの折衷にも限界がある。…すなわち、中国製品が30~40年かかっても技術技能革新は出来ない(だから模造品)ところの理由と同じような根拠だ。
日本経済や社会の将来は、経営全般からのイノベーションを達成しない限り、産業発展が望まれないことは確かである。行政の財政政策では限度のあることは周知された事実である。さらに、このイノベーションは、生活文化型商品=生活や感性と相まっていることから、日本から海外流出することもない。日本文化資本をベースにした、海外直販商品といった業態が主流となり得る。それは、日本の伝統工芸や伝統技能を念頭に置いて、輸出先地域別に、その地域の人たちが好み愛する商品を、日本で作って直販する業態も含むのである。これを地域経済から立ち上げ、創造的人間の大量育成を図る必要があるということなのだ。


§似非ICT革命を予言していた発明者
コンピューター発明・開発の理論を確立したのはウィーナー(超幅広い知識を持つ学者で1950年に理論を発表=人間機械論:人間の人間的な利用)である。彼の著作で、ICT社会や必要機器が発明される以前から、必然的とする予測を明言している。その一つを要約すれば、「よく熟慮した上でなければ、猿とタイプライターとなる」といった趣旨である。コンピューターという用語が未開発な時点で、このウィーナーは人間の労働を、「猿とタイプライター」と警鐘しているのである。また、こんな趣旨のことも言っている、「猿が発する情報は無味乾燥で機械で代用出来、人間たるがゆえの通信文は行動の引き金として役立つ情報の質である。ただし、情報に壁を作るのは私の理解に必要な知覚と訓練である」。
ICT革命と言われている現代、新しい時代に合わせた経営管理を開発考案する必要から、著者も研究の真っ最中である、…おそらく経営学に重要な波紋がでそうだ。例えば、専制支配は人間の能力を何分の一以下に低下させるなど…。(注:難解な自然科学や哲学・宗教学が織り交ぜてあるので時間がかかる)。なぜ日本人の開発したOSが世界では不人気なのかの答えもありそうだ。
さらには、ICTソフト開発、パソコン周辺機器の開発担当者にとっては、いくら努力をしても無用の長物を開発している非効率性を除去することが出来る。そもそも商品というものは、その市場の文化水準、社会制度、哲学・宗教的要素によって、開発・生産量・製造規制が左右されるものである。日本に長く住んでいれば、どうしても日本的な商品しか浮かばないし、国内、海外に目を向ける場合には、硬直した日本的発想だけでは、開発段階はよくても販売段階で大失敗を招くこともあるのだ。ことに、キリスト教の影響が強い市場への海外進出には、この理論研究は不可欠だ。
ウィーナーのコンピューター発見理論は、コンピューター機器を実現したに留まらず、多くの自然科学者に対して、哲学や社会学の考え方を広めたとのことである。それは、人文社会学系の有識者の業績ではなかったということだ。確かに、哲学や社会学について造詣の深い人たちの中で、文系と理系は差があることは間違いないのであるが…。


§生活文化商品型産業の事業者の姿勢
日本航空:整理解雇の公判で、日本の民間パイロットの95%が加入する日本乗員組合連絡会議(日乗連)の山﨑秀樹議長(58)が意見陳述し、日航ではトラブルを報告すれば事情聴取で乗務を外され賃下げに、病欠すれば解雇対象となる恐怖から自己申告出来ない状況を指摘した。これに先立つ今年の2月、日航の稲盛会長は、「(解雇した)160人を残すことが経営上不可能かと言えばそうではないのはみなさんもお分かりになると思います」と記者会見。
http://blog.goo.ne.jp/hitorasiku/e/f13480334ba15dc3d9c518adf6bfb59f
こういった姿勢は、生活文化商品としての飛行機として相応しいかどうかだ。残った日航社員が顧客対応をどのようにしようとも、それはマヤカシといわれるしかないのだ。
もう一つは漆器……
生活に密着した商品である。古来から自然素材として安全・無害を強調して、今や強気で売られている。さらには、漆器は Japan ware として、日本産品の代表格である。ところが、この漆器が近年コストダウンや技能低下により、品物が危うくなっているというのだ。漆を塗るときの溶剤に問題があるらしく、低品質の物は口にするごとに塗料を口にしているという。漆専門店の話では、漆器の塗料は紙にこすり付けるぐらいでは本来色落ちしないとのことだ。漆器の口にする部分を紙の上でこすった場合、色落ちする度合いが危険さだと警鐘を鳴らしているわけである。確かに筆者の実験でも、全く色落ちしない漆器から、フリーマーケットの安売り漆器のすさまじい色落ちまで、それが試した結果であった。
色落ちする塗料自体の安全性は、それぞれの調査結果にもよるであろうが、「漆塗」と標榜するからには、生活文化商品として相応しいかどうかの人々の判断を惑わすことになる。もとより「漆まがい物」と明示するなら別であるが、どんな商品を選ぶか、よく調べるか否かを考える、これは買う人の判断であるとか自由であるとするのは、「羊頭をかかげて狗肉を売る」=詐欺商法と同じなのである。大量の資本投下を行ない→予定売り上げが達成出来ないとき→工業商品型経営では詐欺的商法が行われるのは自然なことである。
二つの事例を挙げたが、実はこういった事態を防ぐ制度を考案することが、「日本製品の安全安心水準」をブランドとして維持することになる。口にするだけで具体策がない、批判するだけで終わらせるとなれば、工業商品型産業と同じく先行きは暗い。
制度的な企画立案をしてみると:
地場産業や生活と密着した経済循環システムの上に生活文化型商品を供給することで、日本のみんなが世界に向けて、日本製品を自慢することで、世界からの信頼を得る高品質ブランドを維持する。
……こういった戦略は重要だろう。