2015/07/07

第159号:真の「予見する力!」のもとに経済成長と富裕豊かさが訪れる

今月のテーマ「真の『予見する力!』のもとに経済成長と富裕豊かさが訪れる」
<コンテンツ>
経営者や管理職に必要な「予見する力!」とは?
 【結論=予見する力!を先に解説すれば】
 【実践=「予見する力!」の入出力パターン】
 【日本の社会や経済は当分の間】
 【ちなみに江戸時代の日本は不況政策の連続だった】
 【幼い頃から幼いながらも50年以上も】
 【順序が分かれば、予見は難しいことではない!】
 【おなじみの、一見して芸術?といわれる分野だと】

マイナンバー制で、誰が得をするのか?
(この分析を通じてこそ、目前の社会貢献=ソーシャルビジネスのヒントが)
  例えば1、公開される企業ナンバー
  例えば2、高齢女性のさらなる負担増
  例えば3、成長期の高校生でも課税直撃
  例えば4、非公式の緊急避難生活者の劣悪化
  例えば5、予防医療・健康医療が抑圧される
  #……さて、こうした問題は何ら個人の問題ではない。


§経営者や管理職に必要な「予見する力!」とは?
日本における職業能力として近年中に、この「予見する力!」が話題になる。
商品の買い手のニーズを時代と共にマッチしたものにする新商品開発こそが、商品経済の柱なのであるが、そういった先のことに対して、「予見する力!」=職業能力を使用するのである。この職業能力が十分に発揮されない傾向にあるから、個別企業の経営停滞や日本経済の不調が延々と続いているのだ。官僚や官僚主義者(召使たち)の冷めた着想では「予見する力!」を表現したり説明したり指摘することはできない。
だから残念なことに、その話題の大半は、画一的商品開発と商品流通(交通)における、欠損費を無くすための予見部分を無理矢理追及させる手段としての的外れな予見であり、堂々巡りや効果が期待できないものに行き着くのである。
その本来の「予見する力!」は、個別企業経営でも、日本経済や経済流通(交通)であっても、そのような欠損費を無くすための予見部分を発見する力?といった取るに足らない程度を越える、抜本的イノベーションや経営刷新といった職業能力として存在するし、商品経済が始まってこの方、そういった能力の連続発揮であったことが経済経営の学問的常識なのである。
異なった言い方をすれば、
欠損費の予見部分を無くす常套手段は管理(コントロール)する一部分である。ところがこの管理を繰り返し徹底重複したところで、ICT機器を使って分析したところで効率が悪いから、イノベーションや経営刷新を「予見する力!」を前提として展開するのである。
(新商品開発とは、売れる商品とは)
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/144
国家や企業の投資予算や借入金により開発されたとする商品や事業などは、後日必ず破綻をして損害賠償として舞い戻って来る。それは、ICT産業革命の最中にあって、その損害賠償から免れる個々人は皆無になりつつある。いわゆる「景気刺激政策」とかけ離れて因っているからだ。
現在、「予見する力!」をもとに創意工夫することで
新商品開発や新流通(交通)経路を、全国各地の民間個別企業が国内外を問わず促進出来るための措置を必要としている。その措置は民間が主人公で行われるべきであり、官僚や国家財源に群がる官僚主義者に発案させることはきわめて危険である。また、その措置は国家財源などをあてにせずとも民間で実行することも可能である。それが本筋における「予見する力!」だ。繰り返すが、この「予見する力!」を欠損費を無くすための予見力?を無理矢理追及させる手段と言い換えてみたり、「素人には分かりにくいから簡単に」とのことで素人説明を行って、(エコ運動を経費節減と誤用するように)似て非なるものに言い換えるから(哲学者の指摘)失敗するのである。
昔から既に、「予見する力!」は約150年前に経済学(ラスキン)で提唱されており、現代流に言うならばインテリジェンスの一翼として発見され、インフォメーションの弊害を指摘(知識が多いと知恵が回らぬ)しているのである。巷の書籍に論じられる「予見力?」はほぼ全般、こういった学問の歴史について無知にならざるを得ないようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=bVCEZ6CdpIM&feature=youtu.be


【結論=予見する力!を先に解説すれば】
イメージ的には幅広い視野を持って、社会や経済を「予見する力!」が必要とされるのであって、それは平たく言えば物事のプロデュース能力と重なる部分が多い。その「予見する力!」は、前もって蓄積しておくことができない能力であるから、心身や経済的に富裕・豊かさの実態での余剰に依存する。もとより「予見する力!」は、将来の事業ないしは事業展開に備えて行われるものである。
すなわち巷で言われるところの、「まずは余裕を持つ」ことと共通した実践方法であり、「極力に余裕を持つ人間関係づくり」であり、「あくせく毎日を、交際や応接とか労働の消耗に走らないこと」なのである。だが、この歴史的にも成功者の経験則に裏打ちされた「富裕・豊かさや余裕」について、未だ経済経営学で法則性が解明されていないばかりに、似非合理的な理屈やレトリックに多くの人が惑わされてしまうのである。
例えば、「予見する力!」を養うため、
また組織的に個々人に蓄積するために、余裕を創り出す管理(コントロール)方法を実行するわけだが、その要点は出来る限りの共通作業をコントロールし人物・時間・物資や資金などにわたり、余裕を持たせることなのである。この余裕をもって次のステップに向けてビジネスを進めることが定石であり、これが個別企業経営や商品経済を拡大(事業化や事業拡大)をさせた方法である。それまでの成り行き管理の着想では、鶏が先か卵が先かといった風に、目前の作業が先か管理(コントロール)が先かと悩んでいた時代が存在し、まるきり古典的職の人物像である。この管理(コントロール)することによって余裕を生み出したことで、「予見する力!」を養うことができ、これでもって作業が飛躍的に進展することになった。経営管理における新しい社会的道徳(管理を適切にすることで無駄を省く)となったのである。…そう、その通り、道徳とは無知・主観満足概念ではない。
以上は社会科学で解明されているわけではないが、
形骸化を防ぐために歴史的裏打ちとして確立されている概念の通りである、
「仏造って魂入れず」とか
「心尽くし、気持ちを尽くし、思い(思索のこと)を尽くし、力(物量質量)を尽くし」
「気(気力)→地(地の利:条件)→事(作戦)→機(力とモーメント)」…呉子の兵法。
……代表的なこの3つは、巷にあふれるビジネス書の、出版社が売らんがための耳ざわりや心地よさとは全く異なる。


【実践=「予見する力!」の入出力パターン】
それは、
a.ティッシュペーパーを一枚ずつ積み重ねるような合理的論理性の上に立つ知恵(知識ではない)の集積によって、
b.目前や将来濃厚な予測の事実関係に対して、
c.その場で時空を越えて取捨選択結合できた工学的知識により具体化されるところの計画をもっての、
d.大多数の良心的人たちが現実的に実現できそうだと確信する、
e.個々の意思疎通における「意欲・感動・希望」を湧かせるイメージを意思として伝える作業の能力
……であると考えられる。
※1 知恵の集積はインテリジェンスに学び、これを体系づけることである。
※2 事実関係とは事実ではなく、そのような事実が生じる背景と関係性である。
※3 時空を超えるとは(x)×(y)×(z)×timeに歴史的裏打ちある叡智をconnectするところの5次元の作業。
※4 良心とは善悪ではなく、危害圧迫がない状態での素直な内心の気持ちといった概念。
※5 イメージを意思として伝える作業は、形式表面的にはプロデュースと共通する概念。
※6 契約その他行為の全般には意思が働く。(契約=申込と承諾の意思一致の繰り返し)


【日本の社会や経済は当分の間】
「生活のための収入」を合言葉に、画一的な文化に踊らされて、大多数の人がこのまま生活苦に支配させることになる。それは、個別企業の経営管理にとどまらず、生活様式や内心を左右する文化芸術にまで画一的な習慣を根づかせる。
そして、その結果はイノベーションの足を引っ張る経営体質となり、国内外を問わず商品を求めるニーズであるところの、人々の「意欲・感動・希望」とは正反対若しくは裏腹な商品開発が蔓延することになるのである。それはまた、社会的道徳とは何なのか?といった課題を追いかけようとする社会でもある。
ところで、投資予算や借入金による新規商品開発が成功した例がない。あくまでも投資予算や銀行借入金は、新商品が開発された後に、次のステップとしての供給拡大のためのものでしかないのだ。
人々の「意欲・感動・希望」への期待に応えていない商品は誰からも見向きもされず、実態は供給組織の惰性を延命させるための似非商品開発に無駄な投資予算や銀行借入金を浪費しているだけのことである。折しも世界経済は、過去に終焉させたはずの金本位制度に事実上舞い戻ってしまった。一方ではICT産業革命が進行するなかで事実上の金本位制度は金融危機?を生み出すきっかけとなり世界経済の足を引っ張っている。したがって、「意欲・感動・希望」への期待に応える商品や流通づくりは局所的にならざるを得ないが、あなた個人や個別企業が新たな社会的道徳を創造品から浮かび上がる(富裕・豊かさとなる)ことの条件がそろいつつあるには違いないのである。
だから、資金がないからイノベーションや経営刷新が出来ないというのは、子供だましの嘘である。個別企業内に能力もないのに、「まずは現存社員で何かをやってみる」という呼びかけも、自信過剰気味の熱病にかかっている社員を騙すための嘘である、もとより自信過剰の熱病社員が多くいての話だが…。


【ちなみに江戸時代の日本は不況政策の連続だった】
その時代の世界での商品経済が進展するなかで、日本列島は特殊な世間体(社会に非ず)が徳川家康の知恵によって継続された。現代語で言う社会や社会共同体とはかけ離れた世間体である。幕府を批判せずものを考えない人間を育て上げる、その柱は3本=徳川家康が考えたと言われている。
1.生活する上で、経済的にぎりぎりに心身を貧しく困窮させること。
2.とにかく知性を乏しくさせる政策に徹する。(この時代の「知」とは知恵を指す)。
3.人間は動物だから、男女ともに性を抑圧し、性を気晴らしの道具に転換させる。
……さて、徳川家康は社会科学はおろか自然化学も発達していないこの時代に、かつ、迷信や子供だましが大流行している世間体の中にあって、どのようにしてこの知識(知恵ではない)を発見したのだろうか。むしろ幕府官僚はこれを疑問を抱かず実行した。
さてそれに続く明治維新では
経済成長最優先の富国および、列強国からの侵略を防止する強兵を図ったものの、日本国内の力量を集中することができなかった。そのために(反対派の弾圧に終始)、経済成長はしたものの富裕・豊かさは相当失うこととなった。それは日本での文化的要素も矮小化してしまい、あげく行政官僚&とりわけ軍事官僚の無能さや国内人材の「予見する力!」を否定することまで招いてしまった。
誰しもが良かれと思ったとしても、知識を自慢すれば誤用は避けられず、それは古今東西の歴史的裏打ち・哲学・高度学問によって証明されている。かろうじて徳川家康は知恵を自慢しなかったには違いない。日露戦争より後の軍事官僚たちは、ひたすら数多くの知識とサル知恵を自慢した。陸軍は満州のPR演説会を全国20,000ヵ所で行い→満州事変を演出し→偽失業対策としての満州開拓団と称して→軍事官僚が専門とする略奪経済を進め→計画経済まで導入した末、日本経済の崩壊・敗戦を迎えるのである。
要するに、少なくとも学問や歴史的裏打ちで「証明されている」事柄の上に初めて、「予見する力!」が必要となってくるのである。
→→それは、「誰かに学び・誰かが教えること」を効率よく進めなければならないのである。


【幼い頃から幼いながらも50年以上も】
筆者のように経済学や経営学を研究していると、同じことを新手口のように話し書いているだけの商品がやたら目について来る。新手人物の話なら聴いてみようという鵜目鷹目(うのめたかのめ)の人たちが寄って来るが、所詮は他人に依存する自立しようとしない人たちである。巷にはびこる新手口が昔とは変わっている部分と言えば、「どちらが現実的で何れが非現実的な言語であるのか」を選択したにすぎないだけである。
創造性・構想性・権利義務の無視された着想が基盤だから、
麻薬のような依存性習慣、不毛セックスの助長、無知・主観満足概念で道徳皆無的な内容もたない言葉、こういった「(商品を含む)もの」が客観的で普遍的だという感じを与えてしまう。この傾向は今の日本で現実に蔓延しつつあり、あげくは、戦前ドイツのヒットラー政権の甚大な借金地獄的経済となって現れるのだろう。一見して現代の社会的道徳は、それを許さないかのように見えるが、個別企業のイノベーションや経営刷新を確固たるものとするには、先の時代を見越した「新しい社会的道徳」が必要とされる。それは、個々人の生活における、「新しい社会的道徳」の実行も必要とされることは間違いない。
いわゆる先進国の地位にとどまった社会(ただし日本は落ちる一方)では、こういった研究が20年ほど前から次々発表・発見もされ定着が進みつつある、失われた日本の20年とは違って…。
「予見する力!」とは、こういった風に各々で構想され、道を開くための手段となる。


【順序が分かれば、予見は難しいことではない!】
商品経済が支配的な社会にあっては、まず商品や商品の価値がいったい何なのかをよく知る必要がある。あれこれと手段を選好するものでもない。
(商品の価値とは何か、本来的に売れる商品が「固有価値商品」)
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/57

# 社会主義や全体主義でもないのに、「民衆参加を欠落させて、お恵み深い官僚」の画一的管理に期待や依存をすることは、商品経済や資本主義経済が瓦解する手助けにしかならない。その意味で税収回収増目的のマイナンバー制や保険料増収のための社会保険の被保険者拡大といった、官僚的縦社会構造が個人や企業の豊かさの足を引っ張ると言っているのだ。
# たとえ、「官僚や公務員が民主主義の牽引車になる!」と綺麗事をいったところで、「お恵み深い官僚」の画一的管理そのものなのである。行政施策と個人や企業の豊かさの同時整合を進める方法はいくらでもある。まずは画一的管理の枠外でのコントロールを宣言(官僚たちは臭いものに蓋をして野放しにする)して、明日に向けてICT産業革命として進展させることこそ、社会的道徳が創造される中で富裕・豊かな個人と企業が成育するのである。NGOやNPOはたまた近世の如く各種宗教団体に耐えること非現実的である。
# いう付加価値といった意味不明な概念では、
仕事の的を絞るわけがない。むしろ、「無知・主観満足概念で道徳皆無的な内容もたない言葉」で人々は相互に惑わされ、運命や個人的問題(自己責任)だと自らを欺いてしまえば、先ほど述べたように「麻薬のような依存性習慣、不毛セックスの助長」に起因した、「巧みな策略・表面的取り繕い・期待をそそる言葉」を使った詐欺行為の被害に遭遇するだけである。「小物詐欺師は大物詐欺師に騙され奪われる」のである。


【おなじみの、一見して芸術?といわれる分野だと】
芸術ではなくても単なるパフォーマンスが、形骸化したプロデュースによって売買される、けれども長持ちはしない。
その低劣なものは、歌の世界では各国共通で=声が高い・声が低い・声が長い=といった珍品歌手の手を変え品を変えといった演出姿である。
あげく素人は奇声を発し五線紙楽譜上の音をひねり出し異状音で注目を引こうとする。パルス(信号)と拍子(メトロノームなど)とリズム(流れ)を混同して、それぞれを異なって表現できない。
こういった似非テクニックは楽器や映像そして絵画やデザインといった日常を越えて、個別企業の民用日常商品にまで悪影響を及ぼすこととなる。だから長持ちしないどころか短命を招来する。そうなってしまうのも(芸術においてもやはり)科学的に解明された音の法則性や脳科学について無知で道徳皆無的な行為でもって台無しにしているからである。確かに飽きないかもしれない?けれど、気晴らしにはなるけれど、聞き手に、「意欲・感動・希望」の3つをセットで心から沸き上がらせるといった芸術性は無い。すなわちリピートしない代物でしかないのだ。……感性を重要視する真のマーケティングは、ここがポイントであり、これが新しい時代の「新しい社会的道徳」でもあるのだ。
あえて似非テクニック愛好者のために
形骸的露骨なテクニック表現をしたとすれば、
「画一的管理の末広がり組織に、先着順で留まり押し合いへし合い、楽しみと言えば用意された気晴らし、夢と言えば敷かれたレールを時間通りに生きるだけ」といった概念である。
# よって、順序である最初の第一歩は、「ただ一歩の意欲・感動・希望かもしれないが、ICT産業革命の中でICT機器操作に追われることなく、予見する力!を養って、職業も日々の生活も人生設計も意欲・感動・希望に向けて、活きる道にこそ余裕(富裕・豊かさ)と経済経営成長の姿」、これを心掛けて実行するので、みるみるうちに予見!出来ることになるのである。


§マイナンバー制で、誰が得をするのか?
(この分析を通じてこそ、目前の社会貢献=ソーシャルビジネスのヒントが)
政府機関、とりわけ税収や社会保障(厚生や労働の保険)関係の政府機関では、やっきになって導入準備が進められている。さてそこで、表現の自由のギリギリでもって、そのマイナンバー制の社会経済に与える悪影響の解説を試みる。
ところで、目前の社会貢献=ソーシャルビジネスは、民間の営利目的とされる個別企業でも不可欠な要素であり、それは近江商人といわれる人たちの企業運営マニュアル、「買い手よし、売り手よし、世間よし」とも同様の概念である。

例えば1、公開される企業ナンバー
昨年、国税庁が提供した情報でもって、社会保険庁は社会保険(厚生年金や協会健保)の未適用の約80万事業所に対して一斉に実態調査を行った。マイナンバー制における会社ごとのナンバーは、個人情報に当たらないから公開情報だ。国家の行政機関でなくても自由に使える。
だが、そもそも自由平等・民主主義における行政機関の方法は、もっぱら民意に沿った政策誘導が本筋である。国の権力でもって個別企業に対して統制をかけたり規制をかけたりするのは、あくまで自由平等・民主主義=経営権利や契約自由が損なわれないためのもののはずである。法人格が生まれては消えまた生まれるのは、自由平等の原則である。税収や税収機構では自由平等こそが最優先されることは、情報漏えい防止以上に優先されなければならない。

例えば2、高齢女性のさらなる負担増
また、従前から所得税額と健康保険加入状況とは、ホンのたまに刷り合わせが行われていたが、近年の年金問題による職員不足から滞っている状況である。これがマイナンバー制を導入することで、所得税源泉徴収対象者である月額88,000円(年収106万円)申告のデータによっての、社会保険の未適用者洗い出しを行おうとしている。
その政策の理屈には社会保険料収入が前面に押し出されているが、とりわけ高齢配偶者のパートタイムにとっては、その多くの女性が支払う保険料の見返りに値するだけの年金額増加は見込まれることはない。医療保険の給付も、主たる収入者の扶養家族で3割負担の医療を受けられたところが、本人負担分の社会保険料である毎月の15,000円前後が家計収入を圧迫するのである。高齢者の就職困難や少額年金額による貧困極貧に焦点を当てずして、高齢配偶者を含め社会保険を適用させることは、その人たちに新たな貧困を生み出すことになる。これはいったいどこが、人類の叡智で追及した自由平等・民主主義における行政機関のなすべきこと?なのだろうか。高齢女性が闇の中で生活苦に追いやられことは間違いなく、介護保険自己負担の深刻さに加え、悪徳後妻業増加や嫁姑人間関係悪化などの社会の不安定を助長させるものである。

例えば3、成長期の高校生でも課税直撃
来年1月からのマイナンバー制で、国民個人の生活豊かさや、その恩恵に与っていた小売業は、多大な影響を受けることとなる。高校生のアルバイトは就学するための費用に使われるのが大半で、決して高校生の小遣いをはるかに超えて遊興費を生み出すものではない。いわゆる主婦のパートタイムと言われるものも、生活費補てんや文化的生活(憲法での権利)をはじめとした幸福を追求するためのものだ。これらは、「働きたい動機」といった意味不明な統計項目とはかけ離れた現実である。いわゆるこれらは経済豊かさの補足的なもので社会で人間関係に潤いをもたらす部分である。これも、いったい何処が人類の叡智で追及した自由平等・民主主義における行政機関のなすべきことなのだろうか。差別や区別をしてはいけないといった理念は、あくまで自由平等・民主主義を貫くための社会構造における課題であって、そもそもが格差是正を行わない国家の言うべき論理ではない。ちなみに高額所得者に対する累進課税はアメリカで発明された税制である、が日本では貧困層からの所得税増収を狙っているのだ。

例えば4、非公式の緊急避難生活者の劣悪化
マイナンバーを賃金支払先に届出できない労働者は、社会にどんな影響を与えるのだろうか。何らかの事情で現存人間関係から逃げなければならない人がいる。家庭内暴力などで心身破たん寸前の労働者は緊急避難をしなければならない。ところが、住民票を基盤としているマイナンバーを使ってしまえば、DV男に追跡される。
現状でも、避難して来た母子の子供の小中学校入学に住民票の所在を問われることはない。社会保険も雇用保険も杓子定規に本名と生年月日での被保険者手続を行ってはいない。すなわち、基本的人権を優先し保護することによって就労権や安心生活への危害が起こらないようにしているのである。この人たちにマイナンバーを無理強いすれば、働いたり社会保障を受けることができなくなるからである。建前だけではこの人たちを保護したり生活安定を図ることはできない。
加えて、世の中には悪徳企業も存在するから、この人たちの足元を見て賃金を払わない、不公正な対価や現物支給で強制的に働かせる事態が生じるのである。これらの人たちに負い目を味合わせて低賃金に追い込むことは普通に考えられる、まるで外国人研修生の賃金不払い事件かのように。

例えば5、予防医療・健康医療が抑圧される
個々人の確定申告における医療費控除を、インターネット申告する場合に限り医療費領収証などの添付を免除するとの方針を打ち出した。これは、インターネット申告する場合にマイナンバー記載は不可欠との前提で、マイナンバーを軸とする医療費の調査が充実すると言っている。
ところが、現在日本の医療は予防医療や健康医療を個々人が望むのであれば、そういった医療を提供してくれる医師を探すには重複して診察や継続治療をうけるしか道がないのである。確かに保険医制度はよい制度だが、厚生省が保険医のフランチャイズチェーン化を促進野放しにしている状態であるから、予防医療や健康医療が進展しないのである。「切った貼ったの大手術といった傷病治療」となれば、もちろん病気や疾病は悪化した後であるから医療費自体が高額とならざるを得ない。例えば、手術なしの脳こうそくでも2週間ほど入院しただけで100万円程(保険給付のみ)を必要とする。
この傷病治療だけを取り沙汰して医療費の抑制(重複診察や重複検査)を都合よく話題にしているのである。ところが官僚は説明しないけれど、現在の自由診療(患者が医師を重複して選択できる自由)においても、医療の検査結果は貸し出しが行われていたり検査コピーを患者が持ち歩けることになっており、そこでの重複が相当避けられている。既に複数の医者による予防医療や健康医療が仕組みとなりつつあるのだ。むしろ医療全般に高額検査や高額薬物投与を誘導促進させるような厚労省の保険医政策が問題なのである。マイナンバーによる治療費情報の集積の効果よりも、さし当たっては複数の医者による予防医療や健康医療といったものの啓蒙や促進こそが、高額医療費用を抑制する仕組みである。心臓疾患があれば誰でも短気・不機嫌になるし、脳血管疾患は多大なリハビリ費用が勃発するのである。いったい国家は何をコントロールしたいのだろうか?

#……さて、こうした問題は何ら個人の問題ではない。
これは、この100年ほどの日本の歴史のなかで同類のことが繰り返されて来た教訓から予見や予想出来る事柄である。戦後の経済改革理念の主流は、官僚のために国家統制を行えば経済が停滞して、あげく典型的略奪経済(軍国主義官僚)の侵略が行われ、さらに経済や社会が崩壊してしまったことから、日本におけるその道を遮断したことにある。アメリカの核の傘?にあっても活発な経済活動を自由平等のもとに行った(ただし多分に社会主義計画経済的だが!)ことである。
彼ら官僚や、そのおこぼれに期待する大手企業の官僚主義者たちにとっては、マイナンバー制は綺麗ごとの表向きの美辞麗句ではあるが、経済成長や経済的豊かさを日本にもたらすものではない。彼らとてエリートは高額収入を得るのかもしれないが、その程度の高額収入を得る前の個人的教育投資や高額収入維持経費(住宅費・生活費・家計からの交際費など)を差し引いた場合、彼らもやはり実質可処分所得は低賃金・召使同然の者としか考えられない。彼らには、他人よりも似非富裕・豊かさだという自己満足の趣味程度しか存在しない?かも。彼ら特有の知識の自慢こそ自己否定につながり、知恵と自律の欠落により昼夜暇なく働き詰めで過労の召使一家に満足するフリをする虚栄心でしかない。
たとえ若いうちに「私は将来、大きな仕事をする!」と豪語したところで、今の境遇で一歩も踏み出せない程度では概念的情緒的隷属を彼らは続けざるを得なくなる。そんな者たちを、経営者からすれば丸め込むのは一発で可能だ、むしろ経営者は手間が邪魔くさいものだから、その手の管理職や専任丸め込め職を採用配置するだけの話だ。おしなべて企業規模が大きくなる順に、画一的組織を無理強いするための「丸め込め能力」のある職業人材が人事部門に配置されつつある。「召使が召使を集める」のだ。
そう、先ほど述べた「予見する力!」などを持ってしまえば、(逆説的意味で)召使は精神疾患に陥る(ユング的精神分析)危険にさらされるばかりである、召使は予見してはいけないから。
すなわち、経営者の一人である、あなたも
国家の官僚政策やその他官僚主義的経営方針に載って、敷かれたレールの上を彼らの時間通りに人生を走らされていては、あなた自身の個人生活が心身ともに富裕・豊かになるはずがないのである。だが誰でもが、召使も奴隷女も脱出する手助けを求めさえすれば、そこから脱出が出来るのであり、それが社会における社会貢献する側の「予見する力!」でもある。