2017/01/10

第177号:共感という概念の科学的発見が、人間社会を一気に変革

<コンテンツ>
なぜ、今時の組織は、益々空回りをするのか!
「愛情と勇敢さ」といったイメージの経済活動
   【失われた日本、30年目へのプロセスとは。日本は配給経済だったかも?】
   【成長も豊かさも確保している文化価値商品の姿、そして共感の存在】
「共感する」とのイメージから述べてみると……
「共感」の概念を取り入れて活用、以下その具体例を示してみる。
   1.顧客への姿勢が変わるから、売り方も変わり、売り上げも伸びる。
   2.商品やサービスの開発方法が変化する。
   3.無頓着なメールとか書面報告が如何に無駄か。
   4.会議に、「共感作用」といった人類の共同体コミュニケーション方法
   5.テレビ会議も、「共感作用」概念に無知であれば意味がない。
   6.共感といった概念の科学的発見は、ICT機器のコミュニケーション手段に変化
これら共感の具体例の根拠となる学術面の、「共感作用」の説明
   【第一段階:相手を無意識のうちに模倣している】
   【第二段階:繰り返しフィードバックして確認している】
   【第三段階:キャッチ・情動感染の後に瞬時反応】
   【この三段階を経てキャッチ・情動感染したとしても】
   【最後に、よく注意しなければならないことは】


§なぜ、今時の組織は、益々空回りをするのか!
どうして、個別企業のベクトルに力強さが出ないのか。
だがそれは日本国中のみならず、今時の世界現象である。とにかく組織がまとまらない、旧来方法一辺倒では、「ヌカに釘」であり「砂漠に水をまく」現象が続く。そして施策の割には成果が出ない。
振り返ってみれば、コンピューターで文書や紙が激減すると期待したが、結果は紙と書類の激増:ゴミの山であった。ICT機器は世界中の情報が入手出来、早く意思や情報が伝えられると、夢のように期待をしたが結果、現実に目立つものは情報の氾濫で探すのに一苦労、そしてICTを使い切れない人たちにはネットでの「身近な狭い世界」もたらされたのであった。自由さと利便の道具とは正反対の現象が激増したのだ。ましてネットによる情報収集システムは個人を、「敷かれたWebレール」に乗せ替え管理しようとの画策が繰り返される。
このことが、人間の創造力、構想力、着想力、洞察力、分析力といった能力の育成を阻んでいるのは否めない。そんな労働能力よりも、共同体構造での上位の地位を獲得すれば目前の生活は安泰するからだ。その結果、個別の商品開発力は劣化、脱法行為が商品開発と錯覚、挙げ句に商品利潤率の低下を起こしている。もちろん、労働または労働力だけを売っている、「雇われの立場」の可処分所得も激減の一途、おそらく団塊の世代が壮年期であったころの半額である。
それは、買い手が希望を持つことのない商品群、夢も消えれば、「愛情と勇敢さ」にも出会わなければ、働く意欲さえ激減するといった現象に現れる。さらにまたネット情報の現象ばかりを分析する不毛な情報:レトリックがはびこり、本質に触れない無難なインフォメーションの氾濫でもって、知識は少なくとも知恵を効率的に活用(頭の使い道)させるとの、組織の運営が劣化(学術的に言えばは統制劣化)しているのだ。これがベクトルに力強さが出ない原因である。


§「愛情と勇敢さ」といったイメージの経済活動
この用語に語弊はあるだろうが、成長する個別企業や経済活動に携わる経営者は、商品開発や流通・交通について、このようなイメージで語りかけている。それは、およそ550年前から商品経済が成長してきた過程でも一貫している。諸説=経済学・経営学・財政学といった学問は、細かく細部まで理論建てるために一般人には難しくなっているのだが、いわゆる民間活力による経済活動は、この「愛情と勇敢さ」といった概念の共通認識の柱があるからこそ、実態としての経済活動が存在していることには間違いない。
それは、戦時経済、公共事業、社会福祉事業といった国家や地方自治体が行う経済活動の「お題目」は様々あるけれど、やはり基盤にはこういった共通認識がなされているから、要は実現のための方法論の議論にすぎない。だが、この「愛情と勇敢さ」については、科学的に立証されてこなかったものだから、経済経営にも至らない迷信などに振り回されてきた。科学的とは、紆余曲折を経ながらも似非科学を排除し、合理的論理性を以って法則的に解明して発見した理論ということである。ことに経済学とは、「一方が得をして他方が損をする」ことを排して、みんなが幸福になるための科学である。

【失われた日本、30年目へのプロセスとは。日本は配給経済だったかも?】
★1.新製品を生み出しても工業化する過程で、商品の文化価値がはぎ取られることで、適正利潤が無くなり、延々と資本投下せざるを得ず、挙げ句に個別企業の存立が危ぶまれ吸収合併を繰り返す。そこに持ち込まれた理屈が、「より良い物をより安く」の美辞麗句であった。歴史的によく考えれば、占領軍GHQの経営・管理監督者教育を受けて商品を納入し、その後はアメリカ本土などに向け輸出行う過程で生まれてきた美辞麗句だし、確かに好き嫌いを除けば理論的にはそういう歴史だった。
★2.さて、大量生産をするとか、多品種少量生産をするとか、ニッチな隙間を狙うとか、これらいずれにしても、新製品・新サービス(シューペンターのイノベーションも含め)は、工業化の過程で、もっぱらスキルの「労働力商品」に変わり果て、当初の投入された労働価値なのではなく、その一部の労働力に限って投入された商品となってしまう。売らんがために感動めいたパフォーマンスを組み込むが、所詮は飽きられてしまう、それは当然のことだ。二番手の同一商品がその座を奪ってしまう。それはなぜなのか? 答えは、当初は買う側の「観念や思想を通しての文化に即した価値(文化価値商品)」は、売る側の労働能力全般でもって、価値を把握・価値を組み入れた。にも関わらず、無味乾燥な商品に値は付かない。そこで結果は「あなたの製品には飽きた。」との答えを出されたのだ。もとよりアートである文化価値商品は飽きがこないから、それを使用し続けることで買う側にも、「観念や思想を通しての価値増殖とか希望が湧いてくる作用価値」が生まれるのである。最初の文化価値商品の走りは、今でいう工業デザインだった。そして、文化価値商品の価格決定理論(国際文化経済学会で提出分)は、これだ。
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/611
★3.だから、日本の大手企業商品は次々と売れなくなっていったのだ。ほとんどの中堅中小企業の新製品・商サービスも、文化価値商品にはなっていないから、しばらくすれば売れなくなってしまうのである。スキルの「労働力商品」にばかりに資本投下をして、芸術家の失業対策事業はアメリカ(1930年代、ニューディール)でも行われたが、日本では独自の経済論(計画経済)を持ち込み、アートといった文化価値商品にいたっては、「アートは芸術家の世界、銭にはならない」と、そういった文化価値商品を戦後でも政策排除をしてきた。その売れない労働力商品を無理に売ろうとするものだから在庫の山、値引き、廃棄、投資損を押してしまうのは当たり前だ。これが未だに続いていることこそが、「失われた日本」の30年目の現実である。ここでも数多くの経済理論が言い訳として持ち出された。「需要・意欲という必要性」とか、「感情を排除した経済合理性」とかいったものであるが、それはそのほとんどが国家を運営する財政を柱にした経済学が起源ばかりであり、そういった経済学説が生み出された歴史背景が無視されている。それはアダム・スミスまで打ち出す新自由主義者の理解力の無さであった。すなわち、そんな口先話を持ち出してきた者に、その多くは“利回り資本目当ての金融機関”の営業に乗せられてしまったのである、彼らは確かに当時の花形役者だったから仕方がない。

【成長も豊かさも確保している文化価値商品の姿、そして共感の存在】
☆1.だが、よく見てみると国内も世界各地でも、文化価値商品は適正利潤を確保し、多くの買手に行き渡り、製造元も買う側も・その商品を仲介する者も潤っているのである。もちろん、文化価値商品に投資をした金融機関も潤っている。例えば、世界的にも有名となった日本料理がそうだ。だとしてもそれは、決して必要な物でも経済合理性的な物といった商品でもない。そして、その売れているポイントは、①ヘルシーに見える、②実際にヘルシーである、③コツはあるが切る煮る焼く盛ると手軽、④後片付けが簡単、といった4項目だし、家庭でも料理出来そうだからさらに広がり浸透するのだ。そう、顧客との意思疎通がなされ、決して労働力商品といった一方的供給ではないのだ。
☆2.さてそこには、「共感」といった概念が、売り手・買手・流通などにかかわる関係者の間に存在しているのだ。「観念や思想を通しての文化に即した価値(文化価値商品)」であるから何らかの形での意思疎通=コミュニケーションを要するのである。それが、認知的にも感情的にも「共感」といった作用が生じたから文化商品の交換が成立し、同様に共感作用が継続するから売れ続けるのである。共感作用が科学的に発見されていなかったから、「愛情と勇敢さ」といった様なイメージの表現で交わされていたのである。
今になって考えると、筆者にしても、「何だ! それだけのことか、みんな知っていた」という事柄だ。筆者も周囲の人に話してみれば、「そんなこと知っている」の一言であった。だがそれは、周囲にもイメージされているから現実的な内容であり、具体的実現的な仕組みが、科学的に組み立てられる発見がなされたから、個人と個別企業で努力さえすれば実現する、といったことが証明されたということである。
☆3.すなわち、最も強制されない人間の活動・労働や経済活動は、=共感=だったのだ。
必要(=意欲)だから売れたのではない、感動的だから長続きしたのではない、希望があるから思い切って、「愛情と勇敢さ」を込めて買うのだ。繰り返すが、その共感や共感作用が科学的に証明されたから、今後は目的・意識的に、その科学的法則性でもって、活用できるということなのである。


§「共感する」とのイメージから述べてみると……
共感という言葉は1909年、共感(empathy)という英語がTichnerによって造られた。
そして、ここ十数年の間に、飛躍的な研究が進み、哲学から心理学そして脳科学へと、横断的な学問整理がなされている。
共感という人間の作用は、数千年前から察知はされていたものの、流儀や宗教的概念や感情作用としての認識がなされていた。だがそれは、客観的な根拠に乏しいばかりか、法則性が見いだされないことで、いつでもどこでも共感を充実させ伝承することが出来なかったのである。だが、神秘的とか非科学的だとか言われながらも、希望・愛・芸術(アート)といった共同体を支える役目を果たしてきたのは事実である。詳しい研究例はこちら。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784326251179
共感もしくは共感作用を用いる方法は、現代の行き詰まった社会共同体に活力を加えるものとして、その実態は世界的に広まりつつあり、裁判制度や仲介あっせん制度といった紛争解決制度にも盛り込まれつつある。それは決して妥協とか示談といった何らかの権力支配のもとでの合意無理強い形成と同じではない。
今や日本ばかりか世界中の共同体が、その安定的統治や効果的統制をすることが出来なくなった状況であっても、未だに、矛盾した対立物の統一による発展(ヘーゲル)とか、矛盾した対立物の是認と妥協といった論理構成に、マスコミ受けする知識人たちは毎度の如く明け暮れている。さらにICT機器が、その道具の使い方次第で、その統治や統制の崩壊を促進することにもなっている。
共感をコミュニケーションに用いる方法は、哺乳類にのみ与えられ、人類のみ飛躍的に発展した機能でもって共同体を支えることになった経過からすれば、共感でもって社会共同体の信頼と敬意を取り戻すことで、統治や統制をはるかにしのぐ社会共同体を形成することになる。もちろんICT機器がそれを充実させ、ICT産業革命は一気・飛躍的人類の心身機能を充実させる形で、共感が用いられることになるだろう。


§「共感」の概念を取り入れて活用、以下その具体例を示してみる。
1.顧客への姿勢が変わるから、売り方も変わり、売り上げも伸びる。
同じ商品であっても、あなたの会社の独自商品であっても、顧客それぞれの購入動機に共感しているから、応接姿勢、売り方などが変化する。すなわち、
「顧客の要望を認知する共感&顧客の気持ちを受け止める感情的共感」
であるが、これこそが、顧客ニーズをつかむということである。これを継続的に行えば、継続的な取引となる。加えて、あなたが共感するということは、相手方も共感しているわけであるから、そこで創造された安心関係は継続するばかりか、顧客の要望や気持ちに応えた商品を次々と提供することになる。すなわち、共感がなければ、顧客へ持ちこむ商品は一方的な供給物となってしまい、同業他社と見比べられる末は値引き合戦、会社の独自商品も取り合ってくれるわけがない。これらは表面的には過去から言い古された理屈と同じだが、共感の根拠でもって応接姿勢、売り方などを改革できるようになったのが、共感という概念の科学的発見なのである。

2.商品やサービスの開発方法が変化する。
すなわち、文化価値商品の開発方法、その宣伝PR方法、その顧客ネットワーク情報の集積方法といった事柄が変化してくる。
「顧客の要望を認知する共感&顧客の気持ちを受け止める感情的共感」
に基づいて、商品やサービスの開発を行うのだから、これまでのボンヤリしたマーケティングとは制度も精度もが格段に異なる。発注者の恣意的意向に沿ったマーケティングは激減するだろうから、商品開発成功の確率は一段と高まる。まして、顧客と売り手の相互継続した共感が広がれば、そのネットワーク情報をICT機器に組み込むことで、飛躍的に商品開発は進展する。商品やサービスの開発とかイノベーションといったものの底流には、人間同士の共感といった作用が介在することにより、ポジティブに進行するのである。共感の作用は、ポジティブにアプローチすれば、相手方もポジティブに応える関係であることは解明されている。独りよがりのネガティブであれば、相手方もネガティブをいち早く読み取って、あなたの目の前から去っていく、独りよがりのネガティブは孤立する、ポジティブな独りよがり、というのは存在しない、これも解明されている。それらの共感反応は、脳の部位に至るまで脳科学で判明している。
「ものづくり」や「人をケアcareするサービス」のイノベーションも、共感作用を各に組み込むことで飛躍する。
http://netclerk.net/WebShomotsu/archives/22
すなわちそれが、「良いモノを売る→良いコトを売る」への科学的・客観的・具体的な変化をもたらす。

3.無頓着なメールとか書面報告が如何に無駄か。
共感作用が活用できることになったから、無頓着にすることが如何に無駄な作業であるかが判明する。メール、とりわけ書面報告は、文章を書く技術がなければ情報伝達には、お話にはならない。むしろ、受け手がその文章を読んで誤解する確率が極めて高い。まるで「インスピレーション・クイズ」と同格で、伝達情報や結果は、“どこへ行くやら、何をするやら”なのである。昔から「勘(インスピレーション)に頼る経営」は危険だとされているが、それ以上の「インスピレーション・クイズ」の経営を行っていることになる。そう、あなたの企業に、どれだけの文章表現の共通訓練を受けた人物(大学教授、裁判官・検事・弁護士)が存在するだろうか。そういった訓練を受けた者同士でも、客観的合理的思考パターンの挙げ句は、思考や着想の先細りといった、日本の現実なのである。日本の小中高の学校教育は原則:マニュアル解釈レベルである。
☆解決策は、メールとか書面報告は、数値や場所などの位置に限ることである。
短時間の会議や打ち合わせで、報告者からの発言と打開対策でもって、時間の変化とともに随時判断すれば、内容把握・時間効率・対応スピードは飛躍的に向上する。それはなぜか、報告者や発言者との「日常的な共感」によって、物事のアタリを付けることで、その人物がつかんでいるに情報のポイントが把握できるからである。これこそをICT機器でさせればよい。例えば、短いメールなどが刻々と送られてくれば、その集積把握で相当の充実した作戦も組めるからである。短いメールなどはその都度送信、事前に集計して会議に臨むこと(会議資料にあらず)にすれば、だらだらした会議も避けられる。すなわち、短時間の会議や打ち合わせで部下を育成する会議指導も充実できるというわけである。「根回し」とか「地ならし」の心配をする人もでてくるが、それらは会議の最中に行われた例がない、むしろ、顧客や個別企業外の共感作用による深い情報が集約されていないのであれば、「根回し」とか「地ならし」とは、何をかいわんやである。ことに書面報告は物事を原因から結果への因果関係を考えさせるといった、人材を育成するためには、その教育効果には有効な方法だと割り切ることが効率的である。
くどいようだが、業務や業務改善に役立たないようなメールや書面は即刻に辞めれば良い。解らなければ、電話して質せばよい。会議や打ち合わせの時間がないとでも言うのなら、管理職のもとに最もよく集まる時間帯に、机を寄せて物事の整理をしながら、「勝手に突然、つぶやく」といた形式の方がよっぽど効率的である。
数日おきに、「例の件、段取り良く進行中」とでもショートメールを送信することのほうが、よほど安心感を与える。

4.会議に、「共感作用」といった人類の共同体コミュニケーション方法
そもそも、まず報告から「インスピレーション・クイズ」と同格で作文された書類をもとに読み上げ進行する、「お役所流:審議会」までが、企業内にはびこる始末だから、なかなか作文には盛り込めなかった状況分析の議論をして意志統一をするまでに時間がかかる。およそ2時間を超えれば、特別訓練でもされていない限り頭脳は疲労してしまう。まして、「共感作用」といった人類の根本的共同体コミュニケーション方法がなおざりにされれば、会議の中身が根本から伴わない。そして、会議時間数蓄積、責任回避議事録作成、誰一人も指揮を取らず・責任も取らない会議といったものが完成されるわけである。ひどい場合には、そんな会議の中から次々と、無駄な行動や無駄な書面を仕事に持ち込むことを無理強いされるようになるのだ。それは、几帳面な人物が無意識のうちに主張することから、そのきっかけは始まり、議案先送り希望者が考えもなく同調するのである、そこに「共感作用」といった意思疎通はない。

5.テレビ会議も、「共感作用」概念に無知であれば意味がない。
「共感作用」である顔面表情、発声状況、身体姿勢などが手に取るように分かるTVシステムでなければ有効価値は激減する。その具体的根拠は後述するが、それはテレビの向こうの、お芝居の世界にしか受け取らないからである。すなわち、発言する人物の顔面は少なくとも等身大が必要であるし、別枠で発言者と聞いている者全員の身体姿勢がキャッチ出来なければならない。一同に会して議論しているときは、そういった状況なのであるにも関わらずTV画面枠内で済まそうとすることに手抜かりが生じることに気がつく必要がある。ことに発声については注目する必要がある、それは、顧客の話した発声などを、社内会議でその発言者が、顧客の発声を模倣してフィードバックしているからである。
  ①人が幸福であるときに発声する音声は、
   振幅の変動が小さく、声のピッチ声の高さでの変動が大きく、テンポが速く、低音成分が少ない。
  ②特に、喜びの音声には、陽気な笑い声の特徴が含まれている。
  ③友愛の音声には、一連の穏やかな、「おぉ」とか「あぁ」という声が含まれている。
  ④悲しみには、泣き声の特徴が含まれている。
  ⑤恐怖の声には、鋭い叫び、あえぎ声が含まれている、ヒステリックな発声は恐怖の現れ。
こういった事柄は、自己啓発本やビジネス本の類ではなく、学術的に明確にされている。だから、哺乳類は聴覚にかなり依存しているといった意味から、振幅の小さい音波を増幅した声をより聴き分ける(カクテルパーティ現象)といったこともあって、不具合なテレビ会議よりも、電話やスピーカホンの方が、まだマシなのかもしれないのだ。すなわち、テレビ会議に期待するほどに、仕事の結果的成果はテレビ会議では得られていないと見た方が、まずは妥当である。まだまだ現実の機器と使い道は、等身大の大画面でこそ、初めて一方的意思表示の伝達が可能な程度なのである。

6.共感といった概念の科学的発見は、ICT機器のコミュニケーション手段に変化
といったきっかけを与えるだろう。既に、若年層のスマホ活用では、共感にかかわる絵文字が使われている。そのうちタブレットなどに等身大の顔が映し出され、ふたりの会話がなされているかもしれない。それに参加する人と出来ない人との間に、大きな意思疎通の差が生まれていることになるだろう。共感作用の基盤となる、「安心して関係の持てる間柄」とは、「信頼と敬意」で成り立つ関係なのだが、ICT産業革命は機器の発達と同時に共同体のあり方に変化をもたらすであろう。だとすると、ICT機器分野での、においセンサー、指感触センサー、3D視覚機器の開発は工業生産財や研究機関財には重宝されるが、それに比べ、一般消費者の共感にかかわるICT機器の活用・充実こそが、文化価値にかかわる利潤率の高い仕事に直結するであろう。
すなわち、様々な商品やサービスの説明を、人間を介し顔や声の表情でもって表現することを柱にした方が、結果的成果は確実であり高利潤率が無理なく保障される。そういった市場形成が、無理のない投資とともに現実となることを、共感といった概念の科学的発見は示唆しているのだ。そのポイントを押えれば無駄なICT投資に弄ばれることは無い、マイナンバーやビッグデータといったものが如何に非効率投資であるかも明快である。それは、共感という作用が、古来より人類の共同体を形成した要であったとの科学的発見の成果である。


§これら共感の具体例の根拠となる学術面の、「共感作用」の説明
人間の生み出す様々な労働価値と、そのための組織やネットワークに中心をおいて、かいつまんで説明すると、共感や共感作用とは次のようになる。

【第一段階:相手を無意識のうちに模倣している】
会話や人の話を聞くなどの情動体験の間、人は自動的かつ連続して、その人の顔の表情・話し方・姿勢・動作といったものを、頭脳の中だけ(聞く側の仕草には現れない)で模倣し、次に自分自身の動作をそれらに同調させる。人は模倣することに自覚して気付かないままではあるが、周辺環境を知覚したり、共同体的環境や社会的環境と相互したりする。共感や共感作用は、感情的共感(精神:気持ち)と、認知的共感(心の理論)の二重構造であり、脳の反応部位も異なる。模倣とは、そういったものに深く影響しており、共同体に向かっての「共同体的な絆」として機能していると解明されている。動物行動学者たちの研究によれば、こういった模倣をすることを系統発生的に古い同一民族内のコミュニケーションの基本的な形式としている。それは、哲学者ルソーが、「言語起源論」で主張していた事柄を裏付けている。社会的環境との相互は認知的共感に基づくのである。

【第二段階:繰り返しフィードバックして確認している】
そういった情動の体験は、その頭脳の中だけでの模倣から、その人からの聞き手がフィードバックした後の表装をも読み取って、さらに顔面・発声・姿勢からアタリを付けながら、益々相手方の情動を読み取って確認していく、といった一連の作用プロセスを進めて共感している。例えばこれは、目の前の人と友達になりたければ、「言葉を合わせ、動作を合わせ、呼吸を合わせる」といった心理的手法の裏付けでもある。また歌を唄うとの例では、リズム・メロディー・アクセントといった仕組みであり、それはスピーチをするときにも=ゆっくりしたリズムに乗せ・メロディーに乗せ・アクセントを入れると聞きやすいといった具合の方法をも裏付けている。歌や音楽が共感を培っているから、人類は様々な活用を行ってきた、その活用の最たるものが西洋音楽であることも理論づけられた、ただそれは情動にも機械的にも、癒しにも発散にもなりうる。

【第三段階:キャッチ・情動感染の後に瞬時反応】
模倣とフィードバックの結果として、人は瞬間ごとに情動をキャッチしていく。周囲の仲間の変化し続けている顔・声・姿勢を、自動的にキャッチして人が周囲の反応に対応していくのである。共感の少し角度を変えた作用プロセスの説明でもある。そこには、少なくない結果として感情移入(自分自身のことのように感じる)することが出来ている。更にそれは、他者の意図と感情が明確に現われていない場合でも、関わりが深いのであれば、瞬間的に追求することができるのである。まことに例えが不適切かもしれないが、マフィアは目つきの変化で組織的結束を判断する、浮気ならば目つきでアタリをつける、刑事事件も目つきの意思疎通に犯罪構成要件の兆しを見る。

【この三段階を経てキャッチ・情動感染したとしても】
共感による情報は、とにかく取扱に注意しなければならない。それは、共感情報に対応する場合には感情的共感情報をさておき、認知的共感情報(客観的合理的要素)をきわめて重視しなければ、失敗を起こしてしまう可能性が少なくないことである。比較的多くのことを知っている人ほど他者の持っている知識を過大評価するし、比較的わずかなことしか知らない人ほど、他者の知識を過小評価し易いからである。したがって、
「共感することで、まずアタリを付け、客観的合理的に確かめながら、事を行う」
といった具合になるのだ。これは“ひらめきが在って、次に具体策を行う”との経験則を裏付ける研究そのものだ。要するに、「感情的に話を膨らませてしまう」といったことによる失敗が、また周囲からあおられることによって失敗が、発生するということである。新商品開発とか、経営方針や戦術の議論は、賛同者ばかりが集まれば、「感情的に話を膨らませてしまう」から、失敗に注意しなければならないとの経験則の裏付けでもある。ポジティブな独り善がり厳重注意なのである。
加えてまた、現代日本人の言葉感覚からすると、共感という行動が、上から目線だと「同情する」との言葉概念と化し、同じ目線だと「共感する」であり、下から目線だと「憧れる」といった言語に言い表されることに注意する必要がある。

【最後に、よく注意しなければならないことは】
①共感という能力的進化は哺乳類となって発展獲得したものである。それは、かなり聴覚に依存しており、特殊化された哺乳類の中耳の構造で振幅の小さい音波を増幅して内耳に伝えることで、人間の発声の周波数音を検出している。このような機能は顔面や頭部の筋肉・末梢神経によって制御もされており、迷走神経とも結合し交感神経や心臓の動きと直結しているとのことだ。すなわち、「聴覚や発声」からの共感と、その「顔面や心臓」との直結は、それがメンタルヘルスの引き金にもなっているということである。
②反面の事柄も存在する。ストレスに対する動物的強靭とは、共同体コミュニケーション能力が後退する場合も含むことが存在する場合もあるのだ。それは、共感能力としての「より正確な共感による思考や感情を、より正確に推定していく能力」といったもの能力欠落しているケースが見られることからだ。その人物の成長過程や教育過程で、共感する能力が欠落もしくは阻害されている場合である。ストレスに強い動物的強靭を一概に、哺乳類の前の爬虫類と決めつけるわけにはいかないが、共感能力の欠落には間違いない。秀才や天才であったしても、何らかの過程で共感能力が欠落し阻害されている場合がある、こういった人物の障害を見抜く必要があるのである。すなわち、共同体コミュニケーションを造り上げる業務、すなわち管理職や監督職には向いていない障害を持つ人物なのである。現在日本では人間性がないとか心が解らないとか曖昧な概念の人物と呼ばれることが多い。
③それは、さまざまな心理学テストや精神医学的な研究からは類推判別されないケースは多い。だが例えば、特定の人物・特定の階層といったふうに、その相手に対する共感能力の欠落が認められるのである。特定の人物のケースとは妻を虐待するなどのDVがその例で、特定の階層のケースとは人種、職業、貧乏、学歴の差別といった例である。それらの共通するところは特定の者に特化して共感性が欠落していることであり、同時にそれは複数階層への差別対象をもっており、共感能力欠落により会話は自分自身に向かっている現象=自ずと他人を育成することはなく、表現力に共感性がない障害に因って、殊更に理論やレトリック(人をごまかす展開)に終始するのである。なので、いわゆる人間性とか、法や社会習慣などを説いたところで何らの効果もない。彼らはただ物欲、権力欲、名誉欲に忠実なだけで、恥も外聞もまして理性も持ち合わせがないという現象面が現れる障害なのである。
④すなわち、共同体を形成した要であった共感能力の欠落に対する障害の、早期発見と対策で、それを「性格だ」とか「頑固者だ」とかで放置放任するのではなく、障害者に対しても人間関係の幸せを回復できる方策が科学的に明確になったのだ。ただし、どういった施策を実施するのか、その選択は最終的には、社会共同体が決めることである。ただ言えることは、共感能力欠落障害者の排除排斥策を発案・賛同する人物は、共感能力欠落障害者が圧倒的に多いということである。さて、排除でなくとも人間関係施策は、人事労務関係ばかりか、家庭や結婚制度の根幹を揺るがすことにもなるだろう。