2017/03/07

第179号:ICT産業革命における、落ちぶれない仕事のコツ

<コンテンツ>
ICT時代に対し厚労省が「労働時間の把握変更」とは
いよいよ「ICT産業革命」の姿があらわになってきた。
まずは、ICT産業革命に有利な、仕事の立ち居振る舞い(表面の方法)
   ☆1.有能な労働者は、毎日、昼寝をしている。
   ☆2.仕事の知識は、「構成されるもの」と自覚している。
   ☆3.職業イメージに基づき労働能力全般発揮の学習をしている。
   ☆4.仕事は着手する前に、仕事展開をイメージしている。
落ちぶれるしか道のない行方、その人間と個別企業とは
要するに、「ICT産業革命」での仕事のコツとは
秀でた人材とか、秀でる場合の労働能力には特徴がある。
さて、ICT産業革命のなかで、人間のアプローチの対象は何か。
   ☆文化が人間に与える影響は極めて大きい。
   ☆経済は生命から始まり、生活維持である。
   ☆社会(共同体)とは、自由・平等・(博)愛の文化と経済秩序のこと。
==あなたの自身の信念で、現代日本を考える指標に推薦する経済書==


§ICT時代に対し厚労省が「労働時間の把握変更」とは
厚生労働省は1月20日に労働時間把握のための、「使用者の把握方法」を変更した。
早速、本省基準局長の通達を出して法令としての効力を持たせ、以前のものを廃止した。
ここではパソコンの使用とかWebでの情報収集にかかる時間は労働時間だと明記している。
使用者が労働時間ではないと合理的(証拠立証も必要)に説明出来ない限り賃金支払いの対象となる。また、それらが所定の事業場からの外出先や自宅であっても、暗黙をはじめ指揮命令が存在すれば労働時間となり、使用者は賃金支払いを要する。
仕事の上でICT時代には欠かせない動きが、ICT産業革命に見合った作業に変革されなければ、それは、そのまま人件費コストの上昇につながる。厚生労働省は、個別企業の改善策の事例などを一切示さず、そういった課題には杓子定規に対応する姿勢を見せている。せいぜい監督署の指導は、事業場での就業規則に、使用者任意の条文を書き込ませて、それを民事的な履行項目として使用者に債務を負わせ、事件となれば民事事件に追いやる動きが現われている。また、この4月からの新年度そして、来年の30年度と、全国で労働基準監督官の3ケタ増員を行う予定で、この秋にも研修の終わった新入監督官を重点的に都市部に導入するとしている。(変更内容は2月号メルマガ参照)
http://soumubu1.blogspot.jp/#178-14
個別企業の事業展開などには、Web情報収集は欠かせない。そこの労働者に、効率のよい収集作業や知識構成の能力を身に付けさせなければ、そのまま人件費コストが跳ね上がる。また、「各自で勉強するように」として各自がWebで勉強するとすれば、ことに知識構成能力を日本では小学校から大学に至るまで教えていないために、メールやWord作成作業は、「ほぼ、休むに似たり」の労働価値観もない事になる。頭脳で構成をせずに知識を集めるということは、雑多に集積するだけで役に立たない。記憶力だけ優れて構成力の弱いものは、行き当たりばったり思考とか、知識だけ持っている知識偏重に陥ってしまう。さらに、先進国に比べれば日本の教育制度のマイナス特徴である、文章の表現や構成能力の学習や真意を伝達する方法の学習とかの能力の欠落は、メールやWebに過度依存する組織運営においては、遅滞と非効率と不採算を招くばかりである。頭が良いと言われる人でも、受験答案や質問回答程度しか書けないのである。
(メールやWebの弊害解説は、2016年12月号メルマガ参照)
http://soumubu1.blogspot.jp/search?updated-min=2016-01-01T00:00:00%2B09:00&updated-max=2017-01-01T00:00:00%2B09:00&max-results=13#176-01


§いよいよ「ICT産業革命」の姿があらわになってきた。
旧来型の産業構造による経営は次々と破綻をしている。
それは、東芝や三菱重工の原発事業失敗もそうだが、宅配物流・情報流通・小売りその他での業界ニュースの底流に流れる大変化から、さまざま読み取れる。
その様々な情報源から流入するニュースや情報を読み取って、学問的経営的分析は困難だとしても、こういった変化の兆しが肌で感じられない様であれば、その人には一念発起・人生を考え直すことを推奨する。確かに、啓蒙思想家のルソーは、「~理解できる者など、ほとんどいない!」と独善的に言い切った。確かにそれは、18世紀産業革命などを例にとっても、その当時に、「今は産業革命の真っただ中である」ことを気づいた人はわずかであった。その後に、経済学その他の学問が発展したとは言え、それは現在であっても、ICT産業革命を推進する目的意識のある人物となれば、本当に希少になってしまう。とりわけ、世界の現時点の政治状況がICT産業革命を迎えるにあたっての、世界経済大混乱の現象であると観察している人は少ないのである。


§まずは、ICT産業革命に有利な、仕事の立ち居振る舞い(表面の方法)
まだ、今の時代で、これらは特異な奇異な、「仕事の立ち居振る舞い」としか見えない。
多くのビジネス書や自己啓発本には、数多く紹介もされているが、そのほとんどは旧来組織の個別企業では禁止もしくは排除されるような代物である。だが、後に述べる、「仕事の立ち居振る舞い」の真髄あるいは産業革命理念とともに、そういった立ち居振る舞いが行われなければ、ICT時代では急激に労働効率が転落の一途を迎える、これがICT産業革命の特徴である。だが、その立ち居振る舞いは産業革命必要なのである。
「社内のみんなが、やりにくい!」と言っての先送りは、個別企業もろとも、「社会から、お払い箱!」なのである。そう、これができる人材から実施すればよいのである。何も旧来のように、必ずしも経営トップが垂範率先しなくてもよい。

1.有能な労働者は、毎日、昼寝をしている。
ナポレオン、アインシュタイン、チャーチルなどは、24時間の内にしょっちゅう昼寝をしていた。
それは、時間当たりの労働密度が高いから、昼寝をしていなければ体調不良を招き、精神労働とかクリエイティブ労働は出来なくなるからだ。有能な自由業と言われる人たちも昼寝をしている。経営者ばかりか管理職には昼寝は不可欠である、でなければ、夕刻に限られる部下の指導育成で、適切な能力を発揮出来ない。昼寝しなくても差し支えないのは、監督職と言われる職位以下で、それは労働強度や労働密度を労働時間で換算できる「労働力」と賃金の取引契約人たちだけだ。とそれこそ、傾向と対策流儀の人事管理で間に合う部分が多い。

2.仕事の知識は、「構成されるもの」と自覚している。
仕事を着手する前に、その展開をイメージすれば、次々と多方面に渡って思い浮かぶ知識蓄積癖がついている。知識は整理された引き出しとか図書館のような分類はしていない。「傾向と対策」とか「過去問題分析」といった受験勉強ではないから、大量データとか問い合わせライブラリーのような知識の蓄積はやめてしまった。その場合の知識蓄積は知識が構成されたものとなっている。展開イメージをすることで、構成されて結びついているから芋蔓式(いもづるしき)に知識が呼び起こされるといった具合だ。だからこそ、目前の課題の事柄底流が把握できる、そうすればWebで検索すれば相当のインフォメーションが再び入手できる。だから、のべつまくなしに記憶しておく必要がないのだ。優秀な記憶力ではなくて、目標のベクトルとして情報を取りまとめ、目的のために情報を集中投入するための、頭脳基盤が必要なのである。そういった事の手助け=情報収集をICT機器が補ってくれる時代である、またそのICT機器の操作は秘書や部下に任せれば済むことなのだ。

3.職業イメージに基づき労働能力全般発揮の学習をしている。
「労働力」の時間による切り売りとは違って、労働能力全般を用いての価値を見いだそうとしている。
労働能力全般とは、頭脳の中では、「あえて公私混同」をしているのである。
なので、日頃から、買い手や売り手、作り手や消費者、提供者や利用者、そして最も重要な社会ルールとの兼ね合いといったことを、全身全霊で考えている。時系列的には、仕事のチャンスから~仕事の展開そして~仕事の完結にとどまらず~売り上げの回収とか自らの報酬確保までを描いている。情報化時代であるから、効率のよい労働能力全般の向上や鍛練のチャンスを増やそうと尽力もしている。情報や知識の選択とか物事の消費にWebを使うような、短絡無知なことは避けている。SNSの利用ひとつとってみても能力向上の役に立たなければ、情報収集だけの目的だけでは時間と労力の無駄遣いと思っている。あくまでも労働能力全般の学習効率が高められる道具として、ICT機器やAIシステムを使えば便利という着想に固執しているだけのことである。古来「労働力」は次々と機械化される運命だ、それが現代の機械化とはICTとかAIに支えられた技術であるのだ。例としては良くないが、アメリカ軍の兵力は次々とドローン(ロボット)に置き換えられている。

4.仕事は着手する前に、仕事展開をイメージしている。
仕事は時間や数量の定量ではなく、定性的であるとして、もっぱら中身の勝負と自覚している。
だから、その中身については、仕事を納めた後までのイメージをするわけだ。またそのイメージも次々と補正され深化し進化させている。だから、他人や後輩に追随されない中身の打ち合わせも生じているのだ。展開イメージに熱中をするならば、「労働力」を時間売りしているとの考えでは飽き足らず、雇われの身であったとしても、労働力×時間=賃金労働で1日を終わることなく、仕事外も含め何かの展開イメージに熱中している。だから、病気でもない限り、1日の時間割を決めている。例えばそれは、午前中は一切の外電を受けないとか、通話の予約をメールで確認しているとか、趣味・習い事・子育てなどの時間を仕事中であっても決めて実行といった具合である。それは、生み出す労働能力全般価値(労働力価値ではない)が、社会で受け入れられる絶対的ラインを超える定性的水準であるからこその仕事スタイルである。すなわち、自由業で成功しているスタイルなのだ。

☆………
この後の項目で、こういった、「仕事の立ち居振る舞い」を行っている理由を説明する。
理由なく4項目の真似をすれば、それは単なる、「安定した雇用先のない出来高労働者」へと転落するにすぎない。それは、昔ながらの頭の固い職人であったり、理屈ばかりの芸術家気取り、もしくは資産家に寄生する迷惑な奴!かもしれないのである。ICT産業革命が進めば、いわゆるサラリーマン概念の労働者は用事がなくなる運命にあるのだ。


§落ちぶれるしか道のない行方、その人間と個別企業とは
ここ100年位の仕事経験の認識とか昔話とかは、過去の事例や習慣である。
だから、理解しやすい思考がゆえに、圧倒的に多くの人はその思考にとりつかれてしまう。
まるで受験勉強の「過去問分析」「傾向と対策」など問題解答の様に。特に日本のエリートと言われる労働者は、加えて受験戦争に浸りきっているほどに、過去の事例や習慣と異なる方向や枠外が理解出来ないのである。無学な管理職は、部下のこういった若年時代の頭脳に合わせて仕事をさせ=教育が訓練を施さなかったものだから、先の見えないジレンマにも陥っている。基礎学力を付ける段階で記憶最優先の教育を受け、記憶優先の評価が主流の教育を受けているから、少々の努力ではこういったジレンマからは脱出が出来ない。
そういった人物は、誰かから答えを与えられ指示されるといったような働き方しか出来ないのである。
反面、能力の芽を潰されていないという意味で、受験戦争に浸りきらなかった人物に「天然リーダーシップ素質」のある人物が多い。
指示される働き方に浸っている人物は、人生全般含め、何事につけても「見直してみる!」といったことが出来ない。如何なる変化にも、まるで爬虫類かの如く対応して習慣化してしまうことが得意で、それを人生教訓や職業能力と勘違いしている。だから、創造、希望、人間関係といった行動経済学でいう満足や幸せといった要素とは無縁の人たちである。仕事は与えられない限り行わない → 重箱の隅をつつく類の会話しかなく → 提案された建議の反対しか着想出来ず → 構想する能力は無く → 寄生する範囲で従うだけである。こういった、浸っている人物に対する社会学や哲学・世界観は現代では存在価値を失っているから、彼らは益々:遥か古代の思考パターンに向かっていくのである。
話は飛ぶかもしれないが、現在の社会共同体では「自律する」ことを前提で自立した生活を促す自由平等を目指し、その道具として民主主義制度を導入しているから、「目的意識的に寄生する者」までをも社会政策の対象としてはいない。これは現代社会共同体とか法哲学体系の前提条件である。
そして、こういった事の命題から、
人間の能力について、アメリカ国立精神衛生研究所の研究によると、
リーダーシップをはじめ、知性、創造性、芸術性、特定学問、運動能力といった6分野は、幼少期からの芽を如何に育てるかといった課題であるとしている。


§要するに、「ICT産業革命」での仕事のコツとは
記憶力の類から~インフォメーション情報の人工知能分析に至るまで、ICT機器を道具として使用すれば、こういった6分野で秀でている人物からすれば、とてつもない退屈なこと=労働能力全般の発揮の異なる事態なのだ。
そして現代日本では、
6分野で秀でている人物を発見・教育・輩出・訓練することについては、いずれの個別企業も平等に確保チャンスを与えられているといえる。すなわち、大手企業からは圧倒的に排除され、むしろ小学校の児童あたりから排除される可能性が多く、結果=発達障害にアスペルガーだとか知能テスト点数が低い(テスト集中意欲がなければ低い)だの何だかんだ言いがかりをつけて、画一的教育→社会制度から排除しているにすぎない。~したがって、6分野で秀でている人物は、まだまだ潜在化しているという推測から、確保チャンスがあると考えられるのである。
例えば昔の日本では、バブル崩壊前の優秀な人材の、製造業の新規事業の大黒柱となる「特定学問」での輩出は、1~2人/10000人と言われていた。それを理工系大学が、そういった人物の発見と基礎教育の役目を果たしていた。それはまた世界各地で、6分野で秀でている人物を、よく似た実践的雰囲気でもって、様々な機関や団体個人が発見・教育・輩出・訓練していた、確かにそういった研究を学説も存在している。これが優秀な人材確保とか国外流出といった話題のポイントである。
だがそこで、あくまでも、「決定的なのは、秀でた人材の確保 plus 事業を支える体制」である。……もう既に、これらは学問領域であり、ICT機器の創造的活用の範囲の作業に変わっている。(ただここには、巷で話題のビッグデータやAIに残存する幼稚性はない)。


§秀でた人材とか、秀でる場合の労働能力には特徴がある。
知識・インフォメーション情報といったものを取捨選択するのではなく、
彼らは、「構成されるものとして全てを受容し創造する」、そういった知恵やインテリジェンスと言われるものなのである。
実はこれは、未来に向かって生み出されるだろう人間の能力ではない。端的に言えば、長い歴史のなかで、秀でた人物たちが個々バラバラに実行してきたことであり、その実行行為の定性的技術水準が、その時代の絶対的ラインを超えたときに、歴史的発展と重なり合って現われたのである。そのあらわれる原因は未だ解明出来ないが、現われた場合には共通した現象だ。知識と知恵、インフォメーションとインテリジェンス、これらは2000年以上の昔から区別して整理してきた人たちが存在したし、そういった人物を抱えてきた民族や国が滅ぶことなく続いているのだ。
★その取捨選択するとは、
いくら美意識だとか審美的だと理屈に論理つけしても、それはあくまでも過去から現状での共同体感情の鏡で行為されるしかない。労働能力全般でもって創造しつづけることを永続的に繰り返すのではなく、今その場にしかないものを選び出し → その共同体で受け入れられることだけを条件とし → 他を捨てさる取捨選択を繰り返すのであれば、人間社会どころか、種や民族までは滅びてしまう。極端に言えば、全ての歴史がそれを証明している。知識は頭脳の中で構成されない限り役には立たない。知識には善悪ばかりか、合理不合理、合法非合法そういった二元論以上に様々な側面を持っているからこそ、決め付けたりフィルターを通すと脳が認識する以前に偏りを生じてしまうのだ。創造とは、空間・時空・認知を超越する状況での結合から開始されるところの、構成作業(4次元又は5次元の世界)から手が付けられる。そして、人間の労働能力全般のうちの、「労働力」部分のみを売買流通させることこそが、フィルターにかけて労働能力の一部のみ取捨選択する姿なのである。日本の労働行政は、このマルクスが発見した「労働力」理論なのである。
☆人々の希望が叶い幸福となるには、
その創造物である=幸福商品が活かされる社会制度である。
として人類社会の最も重要な再生産とは、「子供を造り大人に育てる」の一言に尽きるのである。
その人間が生命を維持する次に、「1番クセ」になるものが、「恋」であり「愛」であり、振られても何度も繰り返す恋依存性、浸りきる中毒性は極めて強い。ちなみに、自由平等博愛のスローガンで有名な18世紀フランス市民革命、この背景には、自由な経済活動の確保が存在したが、思想基盤にはディドロ(哲学者)などが説いた、いわゆる「恋愛の自由」が含まれていたのである。
すなわち、秀でる人物を増やし、確保するには、こういった根本的なところから支える必要があるのである。


§さて、ICT産業革命のなかで、人間のアプローチの対象は何か。
文化が人間に与える影響は極めて大きい。
人間が共同体を構成する上で、互いに共感するという作用が極めて重要だということが科学的に発見されている。
人間は、ひ弱な動物だから集団共同で生きるからこそ現在に至っている。その種族や地域集団の生活技術の大半が文化であり、それを担ってきたのは、切り離された「労働力」が担ったのではない。現在に至る歴史を通して、それは人間の労働能力全般が担っていた。
これを集合させ組織的に発揮させるには、「共感作用と共感精度」が柱となる。それがコミュニケーション(意思疎通・意思伝達)である。
やはりICT機器は、これらを容易にする援助機能だけある。
ことに集団共同に欠かせないのか愛情が文化の原動力であって、人間は恋しくなり、それは「1番のクセ」になり、文化の中でも主要な位置を占めているのである。(共感については、2017年1月号メルマガ参照)
http://soumubu1.blogspot.jp/2017_01_01_archive.html#177-06

経済は生命から始まり、生活維持である。
人間の最も重要な再生産活動は、子供を造り育てること、これは根本である。
その過程で豊かな経済を夢見て努力する。あくまで経済成長とは、その結果の通知バロメーターにしかすぎないから、目的でもなければ統計操作の対象でもない。
夢見る豊かな経済には文化が大きく影響する。だから種族や地域集団ごとに固有な価値を持った品目とか道具が造作される。ひとたび、これが商品として交流・交換されるには、単なる純物質純物理的な効用にとどまらず、提供・供給側の文化によって固有な文化価値として具現化されなければ、経済原因に基づく商品にはなりえず、商品流通(交通)は生じない。そうした固有価値を持った商品が、消費・需要業側の許容範囲にアレンジされれば商品流通は増加して、需要側の文化価値も改めて変化する。それには商品の構想・創造・生産・製造・流通・消費・価値増殖・価値転換といった各段階での、人間の労働能力全般が投入されてこそ、文化的にも経済的にも価値を生むのである。
「労働力」のみが主要となって生産された商品は、単なる純物質純物理的な効用に限られる状況に支配されており、その流通には経済外的強制の作用(国や社会的な民間企業を含む公共権力)に依存しなければならない、また依存することこそ利便性が存立範囲に限って有用であるにすぎない。ここでいう経済とは、経世済民の言語からくるところの=全ての人が得をする:けっして一方が得をして他方が損をすることの意味ではない。

社会(共同体)とは、自由・平等・(博)愛の文化と経済秩序のこと。
社会とは、これを目指している制度とか思考習慣その他のものということもいえる。
社会の元の言語イメージはギリシャ語のソエキタス(戦時同盟)である。
社会とはまた、自由・平等・(博)愛を現実のものとするための道具であり、そのひとつが民主主義でもある。
歴史の節目ごとに社会は発展し、戦後になって基本的人権が最優先されることとなった。
これを担っているもののひとつが、「政治」といわれるものである。だが、政治は国家ばかりだけでなく、町内会や自治体どころか、個別企業の中にも存在している。
「三人寄れば哲学が必要」なのだが、(夫と妻に子供ができれば、たちまち指針を要す=哲学)人数を問わず物事を決めて申し合わせ(政治の原型)をすることで、これによって、文化と経済が秩序立てて何れかに促進されることは間違いない。
____20世紀初めの大恐慌から立ち直ったパターン
ドイツのナチス:ヒットラー、ソビエトのスターリン、そしてアメリカは第二次世界大戦前の、典型的3パターンである。
そして日本の場合は、日本の官僚たちは、ヒットラーやスターリンの計画経済の真似をして、ほぼ軍事産業一本槍の経済体制を強いた。
その場合には同時に幸福感は抑圧され、満足感の理屈で押しつけた。例えば、それなりの収入を得て安定した結婚生活を周囲が与えることを旨とすることで満足感を得られるからだ。「我慢するのは、みんな同じ」とか、「戦地の人のことを考え*銃後の人のことを考え」との満足感の理屈ばかりであった。
けれど、人間はそもそも、自分の好きな人と長い時間を過ごす時が幸せを感じるのである。
そして当時の、日本の恐慌脱却制度は、それとは違った。だから、昭和大恐慌からの立ち直りの兆しが出た途端、法律で「ぜいたく禁止令」を出し、警察官が男女の恋愛(公序良俗違反)を禁止介入する取締りをやった。デートの追尾どころか、カ“男女二人”歩けば、特高警察が職務質問まで行った。今日本の官僚が行おうとしている経済政策は、100年前の過去を繰り返す事しか出来ない思考パターンのようだ。


==あなたの自身の信念で、現代日本を考える指標に推薦する経済書==
『有閑(ゆうかん)階級の理論』 1889年 ヴェブレン
(ちくま学芸文庫 2016年11月9日 1,296円)→amazon
著者は、ロックフェラーが設立したシカゴ大学の教授のとき、この経済研究を出版した。
当時アメリカの成金や上流階級とされる人たち、また彼らを取り巻く人たちが、如何に見栄と世間体で経済発展の足を引っ張っているか!と分析している。文章は、現代日本の日常生活を思わせるような文体を心がけている。ただ著者は、表面的には「見栄と世間体が文明社会を作った」と言いたいだけの表装だが、そういった分析から底流に流れる法則性を読者が読み取り、具体的日常的そして個人的な領域までもの経済施策へのアプローチを読者に期待している。この研究が基盤となって、いわゆる制度学派と言われる経済学の体系が生まれ、それは、アメリカ政府の大恐慌からの脱出、さらには今日に続く経済発展の諸政策の参考思考概念とされるに至った。累進課税制度も、世界で初めてこの時代にアメリカで導入されたものだ。大恐慌に突入する前から、アメリカでは労働者教育が重要視され、ニューディール政策においても、単なる雇用量ではなく、職業訓練が重要視された。将来を見てアメリカは、芸術家の失業対策を2年間行いアメリカ文化の基盤を形成させ(ハリウッド映画のきっかけとも)、アメリカ経済文化は現在に至っている。日本では、この本は長年適切な翻訳がなされず、この研究は大方の経済学者から無視された感がある。それは当時の学者流儀からすれば、書物の研究文体が、独特表現随筆やジャーナリズムだと受け取られ、アカデミックな官製大学巨頭がゆえに、そんな教授や学者から嫌悪されたのではないかと思われる。