2007/01/09

第57号

white-collar exemption?が、年明け早々の話題となって現れました。新年あけましておめでとうございます。今年も総務人事・経営労務のインテリジェンスをお届けします。


<労働条件の中途変更とか雇用期間の短縮>
経済背景から、今やこのことを考えずに過ごすわけにはいかず、これをめぐって諸説氾濫・収拾のつかない雰囲気が日本国中に漂っている。
・退職金規定は本人同意さえあれば払わなくても済む?との錯誤
・本人同意さえあれば来月からでも賃金カット?ができるとの錯誤
・雇用期間の途中でも解雇予告手当さえ払えば合法?との錯誤
・会社の配置転換命令がいやなら退職すべき?との錯誤
・いざとなれば、背に腹は替えられないので、少々のことができるとの錯誤
個別企業経営が貧すれば鈍するのか、鈍感だから貧乏経営なのか、何れにしても愚かな話である。
それとも、大手企業の利益の源泉が人件費カットにあるので、この期に及んで、今さらそれを真似でもしようとでも言うのだろうか?

現実には、過去一時期流行したことのある、
・リストラでの退職強要や配転強要
・整理解雇四要件の要素化(要素は欠けても可、要件は一つでも欠ければ不可)
・変更解約告知(労働条件低下に同意しなければ解雇をするとの告知)
などは今や通じる代物ではない。そのような「甘い学説」では、会社側は敗訴と損害賠償+遅延損害金6%を覚悟しなければならない。それをいまだに、「やってみなければ判らない!」などと、労務担当弁護士を引き受ける輩も目立つが、この輩、立場が悪くなれば、紛争現場から逃げるのは常なのである。仮に、会社側が裁判などに引っ張り出されることがなかったとしても、高付加価値作業が至上命令とされる現代、職場の労働意欲低下による能率低下を招いてしまって、本業に差し障るケースが続出しているのだ。
とりわけ労働集約型事業となれば、不渡り手形をつかまされる事がないので気づくのが遅れがちで、最終は代表取締役の個人債務に圧し掛かる。それというのも、労働意欲の低下や事件の賠償による費用の出費は知らず知らずのうちに累積し、資金借り入れ金となってジワジワと個人保障をさせられるという風に…。解雇事件のトラブルとなれば、パートは100万円、正社員は400万円が経常利益から消えて行く勘定となる。
ホリエモンのライブドアでは、「年俸800万円で採用、2〜3ヵ月後には因縁?をつけて400万円程度に年収変更。パソコンも自前で用意せよ!」といった話は、余りにも有名である。ホリエモンの口癖は、「いやならやめろ!募集すれば次が来る!」と言っていたとのことだが、挙げ句の果て、誰もホリエモンに味方する人物はいなくなったのである。

white-collar exemptionの議論
が、にわかに急上昇して来たのは、ここでの労働者がもっている将来不安が焦点となってきたことのみならず、良識ある経営者が、その合理性や経済性を無視したカラクリに気がついたと見るのが妥当である。なので、これをいち早く政権の危機?と察知した政治家は、1月4日white-collar exemptionの慎重論?を口にしたのである。

本来の手順方法からすれば、労働条件変更とか雇用期間短縮は、
その1-
私的自治や私的所有の原則(これらは現代社会共同体の基本原則の一部)によって、就業規則などの改定作業から始められなければならないものであり(就業規則法理)、
その2-
就業規則が変更されたなら、何でもが可能となるのではなく、底流には労働者との自由な意思の合致(契約法理)を必要としているのである。
このような手順方法を無視して、「当事者同士で納得さえすれば、一旦納得させさえすれば、有効になる」と思っている素人の錯誤だから、いざ反撃をされれば、そんな会社側の主張はひとたまりもないのである。
要するに、
・契約不履行にはならないか?の検討
・相手に迷惑をかけて賠償の必要が出る不法行為となるか?の検討
を合わせて行ない、仮に訴訟を提起された場合の、訴訟物の積算見積もりをしてみなければならないとのことである。

1980年代から、主要先進国においては、「何れが正義か、公正か?」の発想よりも、余りにも「正義や公正」の中身が立場や状況によって転変する現実を踏まえて、物事の「変更手続を重視」する固定概念が定着して来たのだが、この正義・公正の転変(社会に対する不信感要素でもある)の部分を学習・認識せずに、表面現象の「変更手続」のみに走るものだから、素人の無知・錯誤となってしまうのである。その道のビジネス書を読めば、周囲からは一見物知りのように評価されるのだが、実のところは、「中身は空っぽ、口先だけ」と、真の実行力はないとされる由縁である。何処の誰もが言ってもいないのに、素人の錯誤を振りかざし素人ながらに意地を張るものだから、こじれた事件となっても、損害賠償などの後始末をしなければならなくなるのは、ひとえに会社側なのである。中間管理職の発言であっても責任をとらなければならないのは会社である。

いわゆる、「法律の条文文言さえ守っておれば、問題ない」とするのは、(これは団塊の世代に多い考え方で)大きな見当違いなのである。いわゆる法律というものは、表面的な文言の奥にある「趣旨や制度の概念」を指すものといったように理解しておれば、分かりやすいのであって、この趣旨や制度の概念に反すれば「当座は切りぬけた!」と思っても、明日には通用しないことになり、裁判に負けてしまう。そこで、「裁判になりさえしなければ、やり得」と考える人もいるが、これも浅墓で、「条文文言さえ守っておけば…」との表面的姿勢が、相手方労働者や味方をしてくれそうな関係者からの猛反発を受ける主要な原因となることも忘れてはならない。その表面的姿勢から労働者に怨念を抱かれて、自己中心主義者だ!と決めつけられた事件となり、相手方はありとあらゆる法律と理由・非難をかき集めるのである。ここに、あっせん作業とか和解作業などが、まずこの怨念を解くことから始められる由縁である。法律、理由・非難の論戦では解決糸口を探ることすら難しく、当事者の意向をよそに、会社対労働者の対決(訴訟とか労組闘争)をせざるを得なくなるのである。
実は、「法律の条文文言を守ってさえおれば…」との考え方が通用した背景には、労働者の納得を得るための前提条件があった。そこには、「モノの道理(合理性)と利益(経済性)」が前提として横たわっていた。そのような社会・経済の時代であったのだ。それが当事者間で十分説明され、意思が合致していたから、納得され、表向きは「文言を守った形」となったのである。個別企業において、このことは就業規則や業務命令通達でも然りであった。そう、団塊の世代の人達が華々しかった時代の発想にほかならないのだ。この合理性と経済性を無視して、条文文言を理屈に使っても、納得されることがないのは自明の理である。
労使当事者各々の合理性・経済性及び関係法律の合法性が保たれれば、それは確かに有効に機能するのだが、これらが保てる社会・経済の時代背景があるかどうかを判断出来ない素人が、新方式とかニュービジネスとかの名称を使い発案するものだから、これまた素人が錯誤してしまい、会社側の後始末が大変となるのである。「世の中、役に立たない物ほどよく売れる」(本田宗一郎)なのである。過去の例で例えると、「短期雇用契約の繰り返し」とか「偽装請負」導入で利益をかすめとられた経営者も少なくないのである。労働基準法18条の2が改正される直前までは、結構多くの労働基準監督官までが、「30日分さえ払えば解雇できる!」などと事業主に説明していたものだから、それを信じたがため、後から賠償金を払わされた事業主も多かったのである。

通常国会に提出されるであろう、話題の労働契約法案は、white-collar exemptionだけではない。
A.労働契約は、労働者及び使用者の対等の立場における合意に基づいて締結
B.労働契約は、信義に従い誠実に権利を行使し、義務を履行
C.生命・安全配慮義務の法制化(現在は最高裁の判例法理)
などの注目ヵ所も含まれようとしている。
ただし、この労働契約法制の話題を聴くときに注意をしなければならないのは、今述べたような注目ヵ所の背景に、
・道理にかなった(合理的)就業規則
・就業規則は周知されてこそ有効
・雇用契約の期間中解約は原則禁止
・短期契約の反復更新を排除
などの前提条件が存在しているということである。すなわち、この前提条件を無視した場合、いくら表面が合法的に見えても、あっせんや訴訟となった場合には、すべて会社側に後始末を負わされるという意味なのである。

マスコミと同じように、格差社会だ、規制緩和だ、と評論家ぶっているとか、諸説氾濫・収拾のつかない雰囲気に漂っておれば、個別企業もろとも、社会の底辺に落とされてしまうのである。
「頭の良い人だけ」が残ればよい、ニートやフリーターは「社会のクズ」と言わんばかりの行政政策であることには間違いない。
よって、総務人事担当者の役割は、きわめて重要となってくるのだ。