2017/04/04

第180号:いくら郵便馬車を見つめていても、汽車は生まれない

<コンテンツ>
「いくら郵便馬車を見つめていても、汽車は生まれない」
 ・事業活動にしろ、あらゆる共同作業で最も恐いものは、
 ・確かに、益々仕事しない凡人が増加している!
「同一労働同一賃金」は、通勤手当と社内食堂の程度の効果でしかない。
時間外100時間以上の罰則規定の美辞麗句。
 ★加えて、固有文化価値創造や生産に携わるための
 ★利潤の高い固有文化価値商品の提供と
 ★それどころか、こんな事態にあっても、
 ★労働問題専門家の、こぞっての疑問は、
起業家、事業家、資本家、の三種類に分かれる経営者の立場と素質
SNSとか従来メディアは、ICT産業革命では市場基盤や民主主義の要に。
そこで具体的な、SNSその他ネットから情報収集するにあたっての要領


§「いくら郵便馬車を見つめていても、汽車は生まれない」
これは、新商品や新規事業といった、イノベーションの理論を発見した、経済学者シューペンターの語った言葉である。
シューペンターは、イノベーションとして五つの類型を提示した。これを現代風にあらわすと次のようになる。
1.新しい財貨や新しい品質財貨の生産。
2.新しい生産方式の導入、新しい商品の商業的取り扱い方法。
3.新しい販売先の開拓、既存市場への新商品提供。
4.原材料あるいは半製品の新供給源又は既存供給源からの確保。
5.事業内外に形成する、新しい組織やネットワークの実現(独占の形成やその打破)
シューペンターは、初期の著書「経済発展の理論」においては、イノベーションではなく、「新結合(neue Kombinationen)という言葉を使っていた。
日本で最近よく用いられるイノベーション、それは「働き方改革」の理念も含め、世界で語られるイノベーションとは、まったく意味が違うのである。経産省は未だ、「技術革新」との間違った用語を使っており、それをマスコミが無頓着に流している始末である。端的に言えば、巷ではなされるイノベーション概念は、官民の官僚たちに都合の良い範囲や理解に限られているのである。
そして話題の「働き方改革」は、発表される資料や報道、そして取り上げられる民間企業各社の対応は、政権延命のほぼ、「付け焼き刃」である。そこには、イノベーションの理念は感じられない。ICT産業革命に突入しているにも関わらず、先ほど述べた1~5の類型すら感じられないのである。
そのため、少なくない有能人材は「働き方改革」は、「働かせ方改革」と揶揄する主張に耳を傾けている。

事業活動にしろ、あらゆる共同作業で最も恐いものは、
無関心・無味乾燥・希望のないといった人物心理である。それは、近年の行政機関向け経済学(財政学)などで議論されなくなったテーマ、「恋する愛する、そして勇敢さ」である。ちなみに「あなたが恋しい」とは英語で、I miss you といった単純なもの。愛は世界各地の文化に基づくさまざまな概念があり、博愛、エロス、アモーレ、同胞愛、慈悲、仁、その他さまざまであるが、数千年昔の古代の考え方に「愛の概念」を閉じ込めることはない。行動経済学では、勘違いも含め人並みの生活が手に入ったら満足を覚え、幸福は「愛」に関連する具現化で覚えるとしている。(経済学)シカゴ学派と言われる学説の多くは、家庭や共同体で分担を決めて厳格に行動を実行すれば、愛はなくなり、ただのルールに化け、幸福のはずが義務に縛られ不幸に転じるとするものが多い。(やばい経済学、やばすぎる経済学、有閑階級の理論などの著書)。そして「勇敢さ」があってこそ、満足ではなく幸福が感じられる生き方が入手できるのである。世界各地で、「幸福感とは満足度である」との話のすり替えは活発であるが、常にそれは他人に我慢を強いる場合に用いられるのである。

確かに、益々仕事しない凡人が増加している!
といったような現象や錯覚に陥りそうだが、今述べた「愛を具現化した幸福感」を味わうことを誰もがあきらめているわけではない。18世紀フランス革命の思想基盤をつくったとされる哲学者ディドロは、「封建時代にあって男女の恋愛禁止」からの解放を社会経済問題に展開したとされている。そういえば、日本での公序良俗は現在でこそ経済犯罪とされているが、戦前は(金さえあれば)事実上の一夫多妻制度にあって、男女の恋愛や事実婚を犯罪対象としていたのである。すなわち、そういった面も含めての観点からイノベーションを行うことには、単なる通貨確保を超えての深い価値が存在するのである。それは間違いなく画一的なものではなく、個々人、同居家族、経営共同体、趣味共同体、地域や地方その他に各々固有の価値を具現化することになり、それらの価値交換は労働能力を含めて商品として流通することになる。そこには、衰退消滅しつつある奉仕とか自己犠牲とか我慢といった世間体とセットになった論理や思考ではありえない。


§「同一労働同一賃金」は、通勤手当と社内食堂の程度の効果でしかない。
夢?でもありそうな話としてマスコミなどが、政府の広報PRをしている。大手マスコミは、政府が記者発表するから、てっとり早いニュース題材として流しているにすぎない。日本経済が、「失われた日本」に突入するまでは、大手新聞は題材をもとに幅広く報道、専門家の意見も紙面に載せていた。「同一労働同一賃金」は確かに、何らかの法律改正でもって、努力義務とか行政機関のイベント開催の予算措置は行われるだろうが、ほとんどの個別企業や労働者にとっては、「単なる話題」を超えるものではない。話題まで行き着くのかどうかも疑問な代物である。
現在、政府から解説されている基本方向を観てみると、同一企業内に限っての同一労働同一賃金である。なので、他社に外注するとか、ある部門を独立企業にするとかでの業務請負となれば、同一労働同一賃金の適用は関係ない。
また既に、大阪地方裁判所は平成27年7月26日の判決で、(滋賀県の運送業の)正社員育成にかかる人材活用仕組みが異なれば、住宅手当、皆勤手当は支給しないとしても不合理ではない。他にも家族手当、一時金、定期昇給、退職金について、裁判所が個別企業との労働契約に介入することは控えるとした裁判例を出している。判決では、いくつかの手当てを労働契約法違反としたものの、不法行為として支払いを命じた。(すなわち、契約不履行ではなかった)。その項目は無理事故手当、作業手当、給食手当、通勤手当のみであった。
すなわち、労働契約法と労働基準法改正の発議がなされない限り、世論が期待?する同一労働同一賃金は、法的に実現する必要がないのである。また、差別的取扱いの立証責任を原告側に求めている。すなわち、「働き方改革」での法改正が、この部分に及ばなければ、法的根拠もない道徳といった絵に描いた餅である。
そもそも、歴史的に論理的には、労働者の世論が期待?するところは「同一労働価値同一賃金」なのであるが、そういったことは十二分に承知しているはずの審議会でも、この「同一労働価値」は議論されたかどうかの痕跡がない。優秀な官僚が労働者側を外し人選した、優秀な審議会などのメンバーなのであるから、同一労働価値の概念を知らないことはなく、忘れたこともありえないと推測するしかない。
加えて、さまざま研究するのであれば、日本国内の賃金決定システムは、法治制度の形態をとっている国の中では極めて独特な制度である。グローバルな展開からすれば日本国内は異質異物システムなのである。多くの国とは異なって日本のそれは、個別企業と個人が賃金決定契約を行うことになっており、個別企業や業界団体に対して行政機関や労働団体(労働組合とは限らない)との賃金決定契約になっていない決定的制度の違いである。ここが最低賃金制度の如くとは異なるもので、同一労働同一賃金の社会担保がない制度なのである。
よって、そういった議論や把握が世論形成において出来ていないのであれば、「同一労働同一賃金」の議論自体が無駄、個別企業の経営管理者や総務人事担当者の心配も不要、それどころかセミナーも学習も研究も無駄、まして社内での対策など準備の必要すらない。すなわち、「同一労働同一賃金」への対策は、静観することすら意味がない。
……こんな素人めいたことだから「働き方改革」の経済政策面も全く期待出来ないのである。


§時間外100時間以上の罰則規定の美辞麗句。
いちばん大きな疑いは、休日(午前零時から午後24時の労働解放日)の部分が、ここでいう時間外100時間には勘定が入っていない、またこれをマスコミが明言しないところに、フェイク的美辞麗句がある。例えば週休2日であれば、1ヵ月は20日ほどの出勤日、そうした場合、100時間といえば1日平均5時間の時間外となる。ここに土曜日曜の休日出勤が加わった場合、効率性や生産性の高い労働(力)の発揮が、果たして可能なのだろうか。
これでは、再び戦前日本のような成り行き管理や身分制度管理による低生産性の経済構造が出来上がってしまいそうだ。当時の軍部は、生産性の低さを取り戻すため、気合い?の言葉や?ジャパンな精神など世間体にマッチした方法を当時の軍事政府が導入したのだ。それを敗戦とともに、国内専門家が温めておいた(工場法→)労働基準法での成り行き管理の基盤排除、職業安定法による身分制度管理の排除を行った。その根幹にも影響を及ぼしそうだ。

加えて、固有文化価値創造や生産に携わるための
クリエイティブやイノベーションを伴う業務となれば、こんなやり方では、ほとんど頭脳が鮮明に働く余裕や余地はなくなってしまう。近年20年の日本経済は労働生産性が益々低下し、その低下による賃金相場が激減している状況と見るのが妥当である。労働組合の力が弱くなったから、賃金相場が下がったと見るのは詭弁である。そもそも日本における労働が生み出す価値(時間当たり労働生産性)が低いことに加え、1999年からの派遣業改正に名を借りた非正規労働の増加は、労働能力全般のうち労働力に限定して労働者を働かせる制度を助長したものだから、益々生み出す労働価値が低下するのである。それは、昔ながらに「より良い物より安く」と日本製品は買い叩かれる日常に安住し、仕入れる労働力商品も、「より良い物より安く」と賃金を買いたたくものだから、その悪循環が積み重なって、いっこうに経済も個別企業の経営も好転しない。

利潤の高い固有文化価値商品の提供と、
それを支える労働全般能力の向上、その基盤となるクリエイティブかつ創造的労働能力形成を進める、そういった思考習慣が形成される労働行政が必要なのである。個別企業にあって、こういう思考習慣を積極的支援する必要があるのだ。時代遅れかつ実証や積み重ねのない教育訓練、あるいは後進国であった時代の教育育成理念では将来の見通しは無い。

それどころか、こんな事態にあっても、
長時間労働対策との美辞麗句!では、労働者の意欲形成には逆流効果しか生まれない。すなわち生活意欲や能力向上が、美辞麗句の発表以来、マイナスに働いていることは間違いないのだ。加えて、3月28日に運送業、建設業、医師は長時間労働規制の対象からはずしてしまうとの発表だ。一部労働団体の主張する「長時間労働の固定化」に注目が集まっている。そんな、その場しのぎの無為無策である。意欲旺盛な労働者こそ、長時間労働を克服して、労働能力全般での価値の生産向上に対する見識も高いことから、時間外100時間以上の罰則といった美辞麗句を耳にして激しく落胆するのである。美辞麗句は若年層労働者や扶養家族向けに発案されたレトリックや詭弁かもしれないけれど、育児、介護、男女平等、精神疾患などの実態と矛盾することから、労使双方から落胆されるばかりである。

労働問題専門家の、こぞっての疑問は、
「36協定の順守」とか、「時間外協定の締結手続の手続順守」といったことについて、実際には法令の求める手続に抜かりが数多く存在する状況を無視して、時間外100時間以上と美辞麗句を並べても無意味であること。それは、個別企業と労働者個々人との間の、時間外労働に関する契約合意がおろそかにされている実態=36協定の締結手続の作業が形骸化していることから、個別企業内部の統治統制が取れていない無秩序職場の問題なのである。それどころか、事業の経営四要素(収益性、生産性、労働意欲、効率性)に基づく、合理的真正な業務管理や人事管理が欠落し、無秩序職場の蔓延にブレーキをかける施策に個別企業内の管理職は必死なのである。そして、個別企業に課せられた17年ぶりに改められた労働時間把握にかかる対策(厚労省の今年1月)の方こそが、実務的には極めて重要であることなのだから、「時間外100時間以上の罰則」などに構っている余裕がないことなのである。
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11200000-Roudoukijunkyoku/0000149439.pdf
よって、個別企業の感覚的受け止め方には、「ブツブツだらだら残業するに労働者、法律をかざして摘発する監督官」とのグチが後を絶たないのである。


§起業家、事業家、資本家、の三種類に分かれる経営者の立場と素質
資本家=ヒト・モノ・カネを調達する通貨である資本を投資する概念の人物。
事業家=おおむね軌道に乗った事業を、より永続的に経営管理する概念の人物。
起業家=新商品や新規事業(前述イノベーション)の着想から立ちあげ概念の人物。
それは、その事業の質量によって、起業家、事業家、資本家の三種類をこなせる場合もあり、それぞれ三人の別種類人材の投入が必要な場合もある。決して、一人個人の人材の有能さではない。はっきり言って、一人の個人に三種類の立場と能力を経営者に求めることは不可能である。すなわち、三種類の経営者を、それぞれ代表取締役、社長、専務、常務、各事業部長(工場長)、総務部長といった人材を配置する必要があるのである。それが達成できれば、いわゆる中堅企業として確立させることができる。ところで冒頭に、「ヒト・モノ・カネを調達する通貨」としたのは、何事も通貨による調達ができると錯覚しているケースが多く、地域性とか土地柄条件などに表現される、その地の労働能力水準を無視することを指している。
ところで中小企業の場合、
人に対して労働能力全般の能力発揮に重きを置くならば経営は安定する。安値時間給で労働力調達ばかりの経営は、この三人の別種類人材の投入を自ずと拒絶するか、あるいは企業存続の社会的要請は在り得ない。だから、いつまでたっても事業規模が小さいか、もしくは事業を引き継ぐ後継者確保が出来ないこととなる。これが後継者不足であったり、一代で終わる生業なのである。これとは異なって、労働能力“全般”の価値創造を求め、固有文化価値商品を提供しようとする事業は、社会共同体の需要に応じて事業を促進することから、起業家、事業家、資本家の三種類の人物が共同&順次、事業経営管理に携わるのである。
しかしながら、ここに述べた理由とは異なる、経済外的強制としての
無謀不毛な資金投資、利回り優先貸付資本の餌食、思想やイデオロギー事業その他が、経済活動とは異なる文化産物の消費事業として関わることとなるから、まさに複雑怪奇なのである。話題の森友学園事件は、この種のものであるから経済原則を逸脱し、社会的要請もないことから一瞬にして崩壊するのである。社団法人や公共事業であっても、それなりの経済原則を逸脱すれば崩壊するのである。
日本は官民の官僚から経済学者までが、古典的経済学に浸りきっているのが実態で、
従来から筆者が述べている通りマルクスの階級論理が非常に根強い。場合によって官民問わず、官僚主義機構はカルト宗教団体と肩を並べる二元論で、現実離れした似非理想論が組織存続の醜い美名のもとに語られる場合がある。それには理由があり、マルクスの著書「資本論」が極めて難解であることから、都合良く解釈翻訳した人物の説を鵜呑みにしてしまったからである。「資本論」そのものを直に読んでも解釈は無理で、ドイツ語の言語で読んでも然り、むしろ幾つかの解説本を読んでから「資本論」の現物を読んでみたほうが深く広く理解できる。そういった努力を少しでもしたのであれば、マルクス自体が「さほど階級理論にハマっているわけではない」ことが解かる。だが、「記憶万能」だけでは理解出来ないのが学問領域の分野であるから、「資本論」を読んだふり・読んだつもりが多いのである。そんな知ったかぶりは実に、まるで素人も学者評論家系でも多いのである。そもそも内実は、階級論争の敵か味方かの二元論しか理解出来ず、マルクスの特徴である唯物論的弁証は理解出来ず、経済学や経営学を語るしかない人物なのだ。そういった意味で大学卒業歴がなく、レトリックや詭弁を大学で身に付ける機会がなかった人たちの方が、よほど物事の本質が見抜けるセンスの持ち主なのである。
時はICT産業革命時代、知性や知恵があれば、知識はネットでタイムリーに探しだせるから、記憶万能的の読んだふり・読んだつもりには用事がないのである。学問領域の「論理構成」とか幅広い「見当付」といったものも人脈があれば外部活用できる。(このメルマガ読者の諸氏は、既にもそうではあるが)。


§SNSとか従来メディアは、ICT産業革命では市場基盤や民主主義の要に。
そのように活用すれば、経済も活発になってくる、自由平等・民主主義がなければ、経済活動が停滞する。戦前の日本が然り、18世紀アメリカ独立戦争もフランス市民革命も思想基盤はそこにある。1917年のロシア革命にしても、準備から初期までに資本家やプロテスタント(信徒連絡組織を古くからのロシア語でソビエトと称していた)が支えていたのも自由平等・民主主義であり、ペレストロイカの後もロシアでは資本家やプロテスタントが支えている。(なお、欧米流保守主義とは「秩序的自由平等・民主主義」との概念でグローバル化している)。世界中の、こういった自由平等・民主主義の情報や理念(インテリジェンス)が、官民の官僚主義者らが自らに都合よく誤訳・誤解釈させるから、とにかく日本に入ってこないから、アイディアや思考が狭くなったり偏ったりするのも無理はない。(ICT機器活用なら、昔ながらの原文確認は不要。むしろ文化の確認を)。
経済民主主義が万能と言っているわけではないが。情報統制のみならず、SNSを使っての相互監視構造を促進してしまえば、どうしてもヒットラーやスターリンといった独裁的な経済活動が重きをなしてしまう。通常人のさまざまな貧困に起因する心理圧迫を、一気に開放するかのような美辞麗句のスローガンを悪用して人心や経済をコントロールしようとするのが独裁的経済経営活動である。同時に彼らは、ヒットラーたちが行った、ヘイト・スピーチ(自らの集団に比べ、女、年寄り、子供、○○人といったカテゴリーや集団が劣ると決めつける主張)を同居させる経済外偽計活動を必須とし、それがなければ地位が確保出来ないでいる。視点を変えれば、民主主義というのは、多数決のみならず、基本的人権が最優先となり、新たなICT産業革命では権利保障が確保されることで、実態として経済の公平・平等へと発展し展開するということである。
表現の自由とは一昔であれば、各自が意見を述べようとしても、
印刷物や配布の費用を必要としたところ、SNSその他によって大幅に費用が軽減されることになった。また、もうすぐそこに動画やビジュアル配信、双方向同時コミュニケーション機器が開発されつつある。概念ばかりでなく、3Dとかインスタグラムでの意思疎通の進化を遂げる。そうすることでもってレトリックや詭弁といった「語句概念」の乱用で他人を煙に巻くことも少なくなるだろう。SNSはうってつけの相互監視盗聴システムであるが、そういった思考習慣をはるかに上回る民主主義の促進道具として、メディアがSNSとかにも舞台を移し、個人のメディアとして意見を述べることで、多大な経済と社会共同体への貢献が可能となる。表現の自由とは、イギリス名誉革命での良心の自由(当時はプロテスタントかカトリックを秘密にする権利から始まり)を基盤とし、政治経済に限らず、芸術の分野にまで広がった自由が、その資金や方法が個々人にまで安易に行き渡りつつある状況である。この歴史と現実を見れば、経済外的強制で地位や利権を得ている人物がSNSその他を毛嫌いするのを理解できる。従来メディアとかジャーナリズムは、職業的な労働能力全般は発揮してSNSその他にない価値を、各のメディアやジャーナリストが固有に価値創造すればよいのである。ここでもまたイノベーションが行われていないから、メディアの経営危機? ニュースソースの手抜き(取材が減り記者会見一辺倒)、権力やタブーへのすり寄りといった醜い姿に陥るのである。


§そこで具体的な、SNSその他ネットから情報収集するにあたっての要領
①その情報が、如何に古いかの確認。認知事項の生まれた年月日。
②その送り手たちの思考や目的の確認、背景に誰が存在しているのか。
③その内容と送ってきた内容の目的確認。事実の伝達それともPR広告?
おそらく、こういった事は、今後も日本の学校教育では教えることがないだろう。
そこでこれらは、小学生のうちから家庭で話して教えるとか、知人友人で教え合うとか、職場の同僚同士で話し合うことが重要である。詐欺目的やヘイトなどに影響される場合は、その全てが、相手対私個人といった関係で影響されるから、家庭や知人友人ディスカッションを経ることは感染予防対策のフィルターに有効なのである。
なお、事実とは、「人が知っていること」
事実関係とは、「事実の積み重ね、タテヨコや時系列の関係など」であり、
情報を評価する価値観とは、「人が思索すること」であって、心に感じることや雰囲気ではない。
そして、人それぞれの好き嫌いは、そのほとんどが、知っている(好き)か否(嫌い)かによって勘違いしている場合も多いのだ。