2017/09/05

第185号:問題提起:ICT産業革命の変化に立ち向かう

<コンテンツ>
一旦下降する経済社会の中でも、地に足をつける
門前ばらい! が相次ぐ 労働基準監督署の窓口
  ・本年度の新人監督官の現場配置を控え現状次の通りだ
  ・そこで、厚労省の本省監督課に電話インタビューしたところ
  ・さて、ここからは、監督署に対する実務の専門的話
  ・実務のポイントは 次の三つである。
  ・この場合の根本的な錯誤は、監督官が業務を「こなす」
マイナンバー関連情報 (専門業者は投資回収できず?)
学術論文:「固有文化価値を生み出す労働価値と、その交換の仕組み」
  §1.世界最初に芸術性を産業に持ち込んだ経営者
  §2.「地方経済の起死回生」の取り組みのヒント
  §3.「新型女性労働」 とはどんな働き方?
  §4.学術専門家向け補足説明(この先は極めて専門的、必読推奨しません)


§一旦下降する経済社会の中でも、地に足をつける
社会の機能が空回りをして麻痺する中(この差異詳細省略)で、地に足をつけて着実に経営や生活の基盤を固めることが大切である。意地になって、トップの座を維持するとか、地位を維持するとか、あなたの身近でもそんな人たちが派手な動きをしているのは、8月後半から著しい状況である。恐らくそれは日本全体の世相だろう。(社会心理学としても)人々は、そんなに個性的ではなく、そんなに我が道を行く人ばかりではないから、そういえるのである。さて、
そんなときに、地に足をつけて着実に基盤を固める人たちは、転落をすることがない。着実に基盤を固めるために生活保護の申請をするのも、敗者復活を認める憲法に基づく権利で、安定した近代社会を作り上げて来た人類の知恵なのである。確かに善悪を問うことなく、人がやらないことをすれば、確実に不幸からは脱出できる。ところが、良心(Conscience:フランス語読み)に基づくことがなければ、一瞬の成功はあり得ても、明日には抹殺される可能性は高い。有名な例が、ホリエモンや橋下徹元大阪市長である。
この良心(Conscience)は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、そして仏教の一部にも内在されたグローバルな共通理念である。日本国憲法の、多数決で決めてはいけない基本的人権という権利は、この良心(Conscience)から記述が始まっている、そこには意味があるからだ。
さて、あなたは、今から更に下降する経済社会の中で、どんな行動を行いますか。


§門前ばらい! が相次ぐ 労働基準監督署の窓口
はてさて、その本当のところは何なんだろうか。労働基準監督官の、単に人手不足とかとは考えられない。ある情報筋からは、「監督官を増員をするが、就業規則作成整備とかの契約行為や民事的な動きを行う方向に厚労省は舵を切っている。実態としては摘発には重きをおかない」との転換を、厚労大臣が行ったとの話がある。ただしこれは、大手マスコミ関係で流れる厚労省関係のガセネタとは情報筋が違う。
だが仮に、現在の労働基準監督官に、契約行為や民事的な判断や動きを求めたところで、所詮は民間企業で働いたこともない公務員であって、まして民事法のマニュアル:要件事実や要件事実論など教育を受けている者は皆無に等しい。従って、「厚労省が舵を切った」と言っても、仕事をさばく質量が落ちるだけではないかと懸念される。それにも増して、労働基準監督署窓口が次に示す通りだとすれば、実際に監督署の窓口を訪れる人に限っての、「紛争解決機関」に変質している、すなわち公務員の民事介入(違法行為)の効果と揶揄されても仕方がない実態なのである。

本年度の新人監督官の現場配置を控え現状次の通りだ
残業不払い、パワハラ、長時間労働の訴えが相次いでいる。が、どうもここにきて労働基準監督署の監督官から、「電話で門前払いされた」との声が多く出されている。共通している酷いケースは電話による訴えを行った場合などである。
労働者が労働基準法などで相談したいといえば、総合労働相談コーナーに来いと振ってしまわれる。それはまだしも、監督官人員が少ない中での行政サービスとしては仕方がないかもしれない。
ところが、「法律違反だと思うから何とかしてほしい」といったことになると監督官は、電話では話を聞かない、名前を名乗れ!、監督署に来い!といった返答が即座に返ってくることが多いようだ。
第一線は退くものの現役監督官の言い分は、
「本人でない家族から訴えられても話が曖昧だ」とか、
「ガセネタかもしれない」とか、
「会社調査いったが、空振りに終わるかも」とか、
挙げ句は「曖昧な情報で監督官が下手に動くと、会社側に隠される」
といったふうな、まるで素人の専門職らしからぬ理由が返ってくる。
労働基準監督官は司法警察権を持っており、たとえて言えば通常の警察官でピストルなど武器を持ってないだけの公務員である。さらに、ある最前線の監督官は、個人の金銭などの利害がかかることだから、「調査に入ったときに氏名が分からなければ(事案本人の)特定が出来ない」と監督行政の曲解を言い出す始末である。まるで法律で禁止されている民事介入そのものを話しているのである。

そこで、厚労省の本省監督課に電話インタがビューしたところ
そういった、電話では話を聞かないといったようなことは、本省から指示していないとのことである。
本省監督課とは様々意見のキャッチボールをしたけれど、“電話では話を聞かない”とか“名前を名乗れ!”と発言するような監督官の存在が、本省監督課からすれば信じられないようである。東京、名古屋、大阪といった大都市部の監督署では結構発生していることに気がついていないのも確かなようだ。確かに官僚機構は、上の方から下を見ても末端現場が分からない仕組みには違いない。
本省監督課は、「電話であっても(情報)記録は取っている」と話す。
だが、門前ばらいをして会社名とか訴えの内容とかを聞くことがなければ、現場の監督官の(情報)記録を取る手間の省けることは、大いに考えられることだ。それはよく見受けられる公務員のサボタージュである。
私が本省監督課に、「電話情報でも、キーワードを電子記録に残し、全国集計のビッグデータをとれば、傾向の判断ができたり、事件の当たりを予測もできるのではないか。そうすれば、監督官の人手不足も解消できるのでは」と語ったところ、確かに本省監督課は耳を傾けた。だがこの建議への直接の返答は無し、今の実情では出来ないことは確かに理解できるものであった。
本省監督課が強調したかったと思われることは、私の意見交換の中で、
「電話をかけて来た人の周囲で法違反があるから何とかしてくれ。という話は重要です」
と語ったことだ。これは最前線の監督官の、“労働基準法の申告制度を、単なる個人の金銭などの利害問題に矮小化する傾向”をはっきりと否定したものである。

さて、ここからは、監督署に対する実務の専門的話
ここまでは専門家同士であっても、素人の世間話域だ。
まず、門前ばらいが絶えない或いは増加していることは調査データがないとはいえ、インテリジェンスとしては存在する事柄だ。そのような思考パターンや曖昧さと矛盾に満ちた論理構成に労働基準監督官が陥り、その影響で社労士などの専門家が混乱をきたす原因を、ここでハッキリさせる必要がある。下世話な話は、巷に数多くの書籍出版がされているが、この際は無視して差し支えない。

実務のポイントは 次の三つである。
①民事法上の考え方や裁判例を監督官が熟知しているわけではない。
一方で、弁護士、社労士その他人事担当者は民事上の損害賠償に関心が高く、労働基準法の刑事法上の構成要件などが詳細には解らない。はたまた勢い、監督官の話からは民事法上の根拠もない会話が飛び出す。
②労働基準監督官は労働基準法の告訴・告発にかかる書類送検に論理が集中。
すなわち刑事法上の構成要件をハッキリさせる視点である。刑事法上の構成要件は民事法で話題となる要件事実とは異なる。本来、要件事実は終戦直後に裁判官の審理マニュアルとして開発された方式で日本独自のもの、今なお、その審理マニュアルとしての限界から裁判所は脱していないでいる。ここに弁護士や社労士の論理構成(が成立したとしても)、それと監督官の構成要件による説明との食い違いが生じるのである。
法律の目的や理念が異なれば、手続きはもちろん全てが変わる。例えば、タイムカードで労働時間管理をするとする会社の賃金支払義務は、タイムカード打刻時間の通りとなるだが、これは民事裁判での審判である。ところが、所定時間外に明確な労働を指揮する指示が出ていない時間帯での拘束時間は、タイムカード打刻が存在したとしても、一概に労働をしていた事実が認められないこととなるとの判断が、刑事法上の構成要件である。この場合、検察庁への書類送検そして起訴は行われなくても、民事上の債権債務は存在することとなる。民事法と刑事法の違いといった具合だ。
③監督官の「監督指導」の業務は、昔から問題にはなっていた。
それは、労働基準法で法定されているから仕方がないのだが。片や刑事法上の監督権限で会社や労働者と会話をする、他方では指導として労働基準法周知及び法適用を促進する論法である。すなわち権限や法違反の有無をかざすだけでは円滑に進められないとされる業務。取締りと法的を促進の両方が存在するのである。この段階で監督官は曖昧な話をしてしまうのである。
そのため昔は電話で、「30日分さえ払えば、解雇出来ます」と、何らの疑いもなく監督官は話をしていた。ところが、それを信じた使用者が労働者を解雇したところ、裁判所で会社は敗訴するわけであった。
最近の監督官の会話では、「労働時間の記録をつけることは会社の義務」と言い切るが、記録は労働時間や賃金支払の根拠となる記録というだけのことであって義務ではない。記録の義務化をする労働安全衛生法法改正の話題が流れているだけである。“タイムカードを打刻させるのは会社の任意業務命令であって、打刻により賃金を支払うとの任意契約を会社が行っているに過ぎない”といった解釈が裁判例の定説なだけである。契約の自由に基づいて会社には統治権があるから、社員にタイムカード打刻させる権限は在る。そして、自ら決めた時間管理の方法により賃金支払などを行う統治義務も存在しているのである。このあたりは労働基準法とはまったく無関係である。しかしながら、労働基準監督官には、そういった仕組みの解らない人が多い。
要するに、①~③を抱えているのだから、ただ単に聡明なだけでは、労働基準監督官であるなしに関わらず、いずれの立場を問わず、物事を「こなす」ことが出来ないのである。

この場合の根本的な錯誤は、監督官が業務を「こなす」
といった、画一的ルーチンワークで業務を進めようと監督官業務を矮小化するところにある。だから、忙しいから手抜きをする監督官とか、
刑事法上の構成要件が頭を支配しているから曖昧となりやすい電話の話はしない監督官とか、
個人の金銭などの利害問題に矮小化する個人的本音を吐露する監督官とか、
そういったさまざまな理屈で装飾した言動に、労働基準監督官が陥ってしまうと考えざるを得ないのである。それは労働基準監督官の頭脳レベルが低いのではなく、独特の仕組みを持つ労働基準行政の総督府の問題であって、単なる官僚機構といった運営技術では補いきれない課題でもあろう。
そして、弁護士、社労士といった専門家は、
監督官とは異なり公務員ではないことから、何らの異議なく自律する公民である立場から、こういったことを充分念頭に置いて業務を納める、より高度な職業能力を必要とする。加えて法的にも弁護士、社労士は免許制度ではなく登録制度である。よって、いわゆるこれは倫理ではなくは職業道徳の課題に至るのである。決め手は労働能力の前提として、我々は自律することがポイントとなる。「自立」は自ら意思決定でき自ら働くことで、「自律」は自らの行動基準と目標を明確に持ち、自ら規範を作り出すことである。


§マイナンバー関連情報 (専門業者は投資回収できず?)
やはり、社労士関連業務の大手でも、マイナンバーは、とても微妙な事業であったようだ。全国社会保険労務士会も音頭を取ったのだが、社会保険労務士労使個々の実態は「笛吹けど踊らず」といったところであった。そもそも、士業資格業の共通原則は少なくとも、この半世紀においては、法的な権利義務が存在するところにビジネスチャンスがあり、ことに法改正はビッグなチャンスである。ところが、マイナンバーは、企業にとって権利義務の無い制度、そこに怪しげなIT企業がウロチョロしたとしても、所詮は法的担保能力がないビジネスであった。
1.財務省を除く各省庁の本省官僚、都道府県・市町村自治体の公務員、彼らの多くが、面従腹背、大抵抗を今も続けている。現実的物事や世論の反対にあうと、官僚業務の技術的基準が、全体主義者の政治的基準と衝突するといった、歴史の法則、これが今もなお繰り返されている、それは文科省だけではない。今まで延期され、この秋実施の初の「個人番号の連携事業」も再び、省庁のプログラム作成瑕疵が今頃発見?され、約1年の来年まで延期となった次第である。本省官僚たちの面従腹背も必死である。
2.更に、全国社労士会の「瑕疵多かりし就業規則のひな形」は、企業の有益性や事業効率を無視した内容であった。これは、事業主には法的権利義務がないのに、社会保険労務士が、「人(事業主)のフンドシで相撲をとる」という、一目瞭然!(倫理の規定がないとはいえ)、業務道徳にかかわる問題が存在していたのである。マイナンバー制度は事業主に義務や権利を課すものではない。もちろん、個人や家族も法律的には任意制度である。それをあたかも「必要な物事?」かのようにPRすることを全国社会保険労務士会は、音頭を取り、営業ビジネス材料を提供したのである。社会保険労務士は登録制であり、免許制ではない。よって厚生労働省の外郭団体ではない。弁護士会と同様に独立した自治組織である、少なくとも法律の上では。だから私の場合も、事業主の利益に反する労働者の利益に反するとのキャンペーンを張って来たのである。私どもの契約先などには、マイナンバーに係る投資又は損失を与えることを避けることができた。
3.更に、実施する段階になって初めて、家族の個人番号を世帯主が会社に提供することの法違反、自治体の責務である住民サービスを優先させ個人番号による世帯収入の名寄せ把握は後回し、マイナンバーが医療行為の実務に誤診を生む(病名で全ての疾病や傷病が語られるわけではない懸念)から医師会使用停止など、マイナンバーの欠陥が露呈できたのである。マイナンバーの苦肉アイディアは、未だ出されるものの、肝心の個人情報保護法に反する物ばかりが目白押しなのだ。個人番号の安全管理体制が整わない企業が個人番号を集めれば個人情報保護法違反だ。社員に家族の個人番号を持って来させても同法に違反、窃盗罪にも該当する。だから個人番号を集めていない旨を税務署、市町村その他に、用紙に添え書きする程度で告げれば差支えないのである。そうすれば誰もが法律に違反することもない、行政機関の公務員も仕事をしていることにもなる。
https://www.nikkei.com/nkd/company/article/?DisplayType=1&ng=DGXLMS3802H93DV20C17A8000000&scode=3802&ba=8


§学術論文を発表:
「固有文化価値を生み出す労働価値と、その交換の仕組み」
この9月1日学術論文を学術学会誌に掲載、翌9月2日の日本学術会議指定の学会で発表。
全国の書店で注文いただけます。(書店注文:書籍番号ISSN2185-3665 国際文化政策第8号)

http://www.soumubu.jp/koyukachi.pdf

今回の学術論文は、経営実務に特化した内容を学術論文にまとめ直したものです。内容は、今年1月ごろからの「総務部メルマガ」の記事内容と相違はありません。
1)最終消費されるモノやサービスに芸術性を持たせると、「売れる商品」になることを科学的に明らかにし、そのメカニズムを説明しています。そのために、芸術とまではいかなくともアート域労働に対する報酬(労働者への賃金源資)の確保の方法とか、芸術性を生かす初歩的社内教育にも触れています。そこには、商品の“売れる会社”と“売れない会社”の差異がどこにあるのか、それを明確に解明しました。
2)①スキル(技能)、②パフォーマンス(職人技)、③アートArt域労働と、あえて労働概念を三分野に分解することで、教育・育成内容と労働能力発揮の方法が明確になったわけです。アートArt域労働の取引を「貸与契約又は所有権譲渡契約」とすることで流通が活発になること。こういった能力の持ち主を、ICT産業革命の中で手っ取り早く集めるには、「新型女性労働」の人たちであることを、日本ではタブーとなっている、「資本主義の本来的姿による経営管理項目」の視点を踏まえて学問的証明も行いました。これらは思いつきではありません、筆者をはじめ当社(株式会社総務部)の約40年にわたる英知と実験の成果です。
3)9月2日、京都での国際文化政策研究教育学会発表においては、大学教授、企業代表者その他研究者から相当の好評をいただきました。世界的な新学説と斬新内容であるとともに、経営や実務の最前線の方からは、「直ちに使える」とか、日本の学術や経営でのタブーがよく理解できたとのご意見をいただきました。論文掲載の学会誌も、たちまち在庫が無くなり増刷に入るとのことです。

§1.世界最初に芸術性を産業に持ち込んだ経営者
固有文化価値商品とは、誤解を恐れず短絡的に表現すれば、
「少しなりとも芸術性を持つから、長期に広く売れる商品群」といったところである。
A.これを実際に事業として成功させたのは、イギリスの壁紙とか家庭雑貨で有名な「モリス」と言われる、ウィリアム・モリスのモリス商会である。彼は、「人間は感情の起伏がなければ生きていけない」と主張し、美術面での芸術を工業デザイナーに取り入れた。人間が価値創造を行う活動と平行併設して、生活の中に様々な芸術を取り入れ、そのことで経済活動にまで育成させ、社会を構成する必要と需要を産み育てる事業をやって見せたのである。
B.先日、国際労働機関(ILO)の事務局長G.ライダーは(2017年5月12日東京)、「仕事の未来を考える論点」を、a.仕事の個人化と社会影響、b.全世界の仕事量、c.商業的請負化へのシフトか否かと、3点を基調講演で示している。その意味では、固有文化価値商品は経済先進国が取り扱う、さまざまな観光産業をはじめとし、その他でも世界経済を牽引する規模になりつつある。
C.モリスは当時、工芸職人らの猛反対&妨害受けながらも、商品に芸術性を含ませて壁紙などから販売を始めた。18世紀中ごろは、現代のように経済学や経営学あるいは商品に関する学問がなかった時代であるから、試行錯誤、迷信や世間体からのモリスらへの猛攻撃、関係者の私生活スキャンダルまで利害関係者から取り沙汰された。だが彼らは貫き、これが世界の工業デザインの元祖となり、商業デザインの世界にも広まったのである。日本各地に店舗がある“モリス雑貨”のブランド:ライセンス商品である。
D.ところで、モリスの妻は、映画「マイ・フェア・レディ」(オードリー・ヘップバーン主演)の実在モデルである。当時の駄馬の世話をする「馬てい」従業員の娘であったが、下町で拾われ認められ、映画のように芸術に語学など多彩な能力を身に着け、モリス商会のメンバーとして活躍した女性である。
E.筆者は、そういった映画「マイ・フェア・レディ」のことを“モリス雑貨”の何人かに話すのだが、未だ知っている人に出会ったことがない。「あのマイ・フェア・レディの御主人が“モリス雑貨”なのよ」と話せば、まず団塊の世代より上の人は映画を知っているだから、もっと“モリス雑貨”の商売に役立てるブランド営業トークに使えばと思うのだが。“モリス雑貨”の商品地位が、お高いのか?商売下手?なのか。

芸術の文化産業開拓者(net引用)
ウィリアム・モリス 映画:マイ・フェア・レディ ジェーン・モリス


§2.「地方経済の起死回生」の取り組みのヒント
9月2日、学会での発表の当日、実務研究の方からは、「全国各地のそれぞれの地域事情があるが、それはどうか?」との貴重な質問をいただき、次の通りの追加報告を行いました。
地方経済の起死回生には、
各々の個別企業での固有文化の測定作業をすればよく解り、その項目(草案)は次の通り。
①地域思考性の特徴を測定(数値や証拠に拘らない、合理一貫性&事実一致性が必要)
②知識及び知恵の質量を測定(数値や証拠に拘らない、合理一貫性&事実一致性が必要)
③共感作用Empathyにたいする共感精度を測定(社会心理学&脳科学・神経科学)
④個人の自律性について測定(基本的人権と民主主義実施状況の度合い)
※感情の虚偽意識(世間に共有されている出来合いの観念)へのすり替えに注意


§3.「新型女性労働」 とはどんな働き方?
また、これについてのご意見も活発でした = 「新型女性労働」の経験則例示=
1.明確な労働契約、その内にも労働時間を日々調整する権利を認める。
2.仕事の出来仕舞い方式、職種によれば自宅で働く習慣の権利を認める。
3.同僚や管理職との意思疎通のeメールは止めチャットやインカムを使う。
4.自らの行動基準と目標を持たせ、その規範を自ら作り出す権利を認める。
5.年間や月決めの手当に、(後述する)アートArt域労働の貸借契約を含める。
6.パートも管理職や専門職に登用し、管理職給や専門職給の賃金を支払う。
7.他人や社会への共感作用と共感精度の程度を正当な労働能力として認める。
8.どんな仕事もアートArt域労働が欠ければ品質低下、売れない結末を説明する。
9.スキルは後で身に付く、パフォーマンスは練習すればよいことを認識させる。
10.アートArt域労働の基本を知ること、その能力を向上させる学習施策を行う。
  (例)服装は絵画、アクセサリーはアクセント装飾、それらはデザイン力向上
音楽リズムは話し上手、リズムと拍子は異なり、唄が仕事の品質を決める
詩は共感作用の物語、それは品物の意味を語る。コンテンツの芸術的表現
 (地味に、地味に、そして最後は艶やかにまとめる、それが基本方式)
「労働時間を日々調整する権利」は、20世紀初頭に、イギリスの経済学者マーシャルが提唱しているとの教授を会場からいただきました。現在オランダでは、労働時間調整法によって、仕事共有(ワークシェアリング)が、2000年ごろから職場のチーム単位で実施されることで、各人の自律心が高まり、結果として、オランダのGDPの伸び率は、日本の倍に至ったとの報告も行いました。会場からは、「男にも新型労働が必要ではないか」との指摘もされましたが、私は、「本日配布の論文本体の、妻の隷属問題」が頭にあったから、曖昧な返事をしました。要するに筆者は、妻の隷属を見ずして、単なる労働時間短縮や女性の社会進出の施策を実行したならば、問題となっている超過労働時間とか男女参画や家庭破壊は一層進まざるを得ず、複雑化すると考えているからです。


§4.学術専門家向け補足説明(この先は極めて専門的、必読推奨しません)
学術学会の当日セミナーに、ご参加いただいた方への補足説明 (20170902 村岡利幸)
①今般の論文冒頭に良心(Conscience:フランス語読み)を持ち出したのは、この用語がキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の文化圏にあっては共通概念として存在し、諸研究によると仏教その他多くの宗教にも、用語は異なるものの、それが取り入れられ、「ある種の人類共通の文化概念」となっているところに因る。「善悪判断」はヘブライの発明とされるが、善悪と良心は次元の異なる概念である。明治初期に誤って「孟子(儒学者)」の用いていた用語(良心)を誤訳(1871年中村正直)したとの研究がある。ヨーロッパの市民革命前後に、「人間の作為によらない様としての自然状態に良心は密接に関係する」といった哲学、文学その他司法の判断が数多く存在ようである。それと同時に、「グノーシス(マニ教などを含む)」に関する激論は凄まじく、ノーバート・ウィナー(著書:サイバネティックス)とか、J.ガナシア( 2017年著書:「人工知能の真実を話そう」)など多くの研究者が、そのグノーシス論理を批判している。私の考えでは、グノーシスは歴史経過と論点の拡散によって掴みどころの無いモノとされているも、要するに、「知識偏重主義者」のなれの果てにすぎない思考習慣と判断されるでしょう。その結果、日本の工業製品の多くに当該グノーシス着想が表面化することによって、低価格や高度技術であっても、ISO(アイソ:国際標準化機構)その他の国際規格から排除されている原因ではないのか、これが私の分析です。

②文化資本や文化価値が、「経済活動に乗りにくい」 むしろ、「文化と経済がないとなれば汚れる」と主張する芸術家も少なくない。この課題を解決するために、筆者は200人弱の各界芸術家の名言を集積して分析を行なった。最も古い芸術家は15世紀中ごろ、興行師でもあった世阿弥である。(なお、芸術家名言を分析整理したExcelをご希望の方は、ご連絡を)そして、現在に至るまで、芸術性が文化の原因をして来たことは間違いがない。太古の昔から、アルタミラの洞窟壁画の通りである。

③歴史を振り返ると、経済学が形成されつつある当時の(自然)科学の論理に、その論理展開は大きな影響を受けつつ発展できたものが多いと思われる。経済学に「愛」を盛り込んだものはマルサスが最後ということらしい。ちなみに、ラスキンは経済学者に勘定されていない時代である。17~18世紀は、あまりにも有能大胆な論理を展開すれば、ハイネとかスタール(ルイ16世財務大臣の娘)のように哲学諸とか随筆家に扱われてしまう時代とのこと。それから、ラスキンの学説については、イギリスの習慣とか英国“欽定版聖書”の成り立ちの上で、内藤史郎教授の翻訳の深遠さに助けられてこそ、今般の研究が構築行きました、大いに感謝をします。

④心理学の実証研究は、行動経済学という現実世界への適用基準を発明した。ダニエル・カーネマンは、経済学者以外でノーベル経済学を受賞した。彼は行動経済学の分野を開拓した人で、自らを心理学者と語っているそうだ。「合理一貫性&事実一致性」といった論理構成に加えて、現代は「現実世界への適用基準」が必要とされる時代、すなわち基礎理論&工学理論の結合による「行動や実行」が、ICT産業革命により容易になりつつあることから、人々の参加という民主主義視点による思考習慣が取りざたされる時代に転換してしまったと考えられる。そこで、
・【合理一貫性】 自然であることとか良心の様などの哲学的論議は、神経科学や脳科学により解析が進んだ。「客観的合理的思考方法は、その人材を大量育成することを可能にし、集団が一体となって知識を徐々に蓄積していくには適した知識生産様式ではある。誰もが参加でき、客観的証拠という形に知識が収斂していくために、有無を言わさぬ形で、知識がある場面で固定される」として、「正しいことを知りたいなら結果だけを覚えればいい。プロセスの割愛が歴史的認識の空洞化はならない」(金森修2016年「科学思想史」岩波書店から引用)と、「実証主義」に陥ることを批判している。歴史の中のプロセスに合理性を見る作業は、変質した科学が普通の科学と混在している社会にあって、減の合理的思考の特徴や傾向を測る重要な評価項目ではないのか。
・【事実一致性】客観的物事の内の証拠のみを採用すると、一気に客観的合理的思考は収斂してしまう。証拠とは、あくまでも合理的推論の裏付けにすぎないが、ことさら事実のみを強調する証拠第一主義により、真実が隠れてしまう。「全体主義者は、専門教育のない者&教養のない者+職業経験の少ないインテリ達を理屈と行動で惹きつける。彼らは粗野で無教養の人間を理屈の自発的代弁者に仕立てる。インテリを組織や担当の口先ばかりの行動の任務者にする。して全体主義者は差配する者であったし、官僚は一枚岩ではなかった。権利や利害を守ろうとする頑強な社会層の抵抗に全体主義者は弱い。現実的物事や世論の反対にあうと、官僚業務の技術的基準が、全体主義者の政治的基準と衝突する」(C.ルフォール2017年翻訳:「民主主義の発明」から引用)~との考察の実証研究がなされている。
・【現実世界への適用基準】 「合理一貫性&事実一致性」思考判断は、ニュールンベルク裁判で国際的な確立を見たのであるが、ICT産業革命の真っ只中にあっては、経済資本や金融資本一辺倒の不幸を解消するには、学問的問題提起として「現実世界への適用基準」が必要とされると考える。経験技能やパフォーマンス職人技を学問的論理的に【現実世界への適用基準】として構築することは、芸術性作業への展開を促し、技能や職人技の保身的独占並びに固有文化の収束を防ぐものと考えられる。
そういう意味があって、その担い手の主力が、「新型女性労働」 であると推論した。セミナープログラムの三頁下から14行目に、「人類の最重要再生産は子供、情勢はその要となり、最も(作為されない)自然に近いから、良心の郵政行動に特徴がある」と結論づけた次第です。(これを共感的に認識させていただいた横田幸子先生の本年前期講義に感謝します)。

⑤現在、社会科学系学術に大きく影響を与えているものは神経科学、脳科学といった分野の発展とされている。それは、心の問題とされがちであった、「共感作用」とか「共感精度」といったものを解明した。それまでの科学では、観測不能な自己を扱うべきではないとしていたが、神経科学は「自己や主体性なくして意義や経験を構築することは出来ない」ことを発見し、自己は観測可能なものとなった。芸術活動や芸術性を商品に含ませること、熟練作業といった側面も、固有文化価値のプロセスを含めた成り立ちや労働全般能力の科学的解明で、法則化され法則的技巧で以って、共感性の高い疑似再現を多くの人が益々実行できる。
=アダムスミス 経済学最古の「共感」=
J.デセティ 2016年「共感の社会神経科学」勁草書房25p 引用:
「狙いを定めた一撃が、今まさに誰かほかの人の手足に振り下ろされようとしているのを見ると、
我々は自然に身体を縮め、自分の手足を引っ込めてしまう。」 (道徳感情論 講談社 4p)
共感という言葉は1909年、共感(empathy)という英語がTichnerによって造られた。そして、ここ十数年の間に、飛躍的な研究が進み、哲学から心理学そして脳科学へと、横断的な学問整理がなされている。これら共感の具体例の根拠となる学術面の、「共感作用」の説明
 【第一段階:相手を無意識のうちに模倣している】
 【第二段階:繰り返しフィードバックして確認している】
 【第三段階:キャッチ・情動感染の後に瞬時反応】
 【この三段階を経てキャッチ・情動感染したとしても】
 【最後に、よく注意しなければならないことは】(続きは、総務部メルマガ 2017/01/10 号参照)