2014/06/10

第146号

<コンテンツ>
労働市場が構造規模から再編される変化
終戦直後に組み替えられた労働市場
学者とか官僚、それぞれの狭い世界では理解できない現場
経済学、中でも労働経済学の分野での労働の対価とは

【特別分析】通貨に交換されない労働市場の在り方と行方
 ・通貨に交換されない労働の分野とは
 ・通貨に交換されない労働の分野での特徴的なことは
 ・個人消費に直接提供される労働での注意点は、
 ・まして、マイナンバー制によって女性や高校生は、
 ・女性の社会進出化を促進、とりわけ高年齢老齢女性の労働対策を、
 ・こういった従来の労働が、労働集約型ビジネスに転換するチャンスが、

【特集】労働関係法律改正=個別企業での具体的な、9つの現象


§労働市場が構造規模から再編される変化
労働市場とは労働の配置と指揮による価値を生み出すインフラのことである。
歴史的には奴隷市場とか農業市場に代わるものとして、商品経済に於いて労働も商品として扱うことにより「発明」されたインフラ制度である。すなわち、通貨価値を生み出す主要な経済制度システムとして、現代社会経済には不可欠なものである。それによる経済成長と豊かさの享受は人類にとってかけがえないものとなっている。
世界経済の激変は、日本経済の成長をにぶらせ、経済や社会の豊かさを転落に向かわせている。このままでは、日本自体が世界から忘れ去られるのは、誰の目からも明らかな事態である。その日本に足場を置く個別企業も同様である。だが、その危機感を感じて海外進出したところで、資本力や人海戦術力において、日本の個別企業は比べものにならないこと貧弱なのだ。
ここにきて厚生労働省の官僚たちは、日本的労働市場の形成に躍起になっているようだ。
(参照:労働関係法律改正での個別企業での具体的な、9つの現象)


§終戦直後に組み替えられた労働市場
日本の経済成長は、米ソ対立の中での日本向けの巨額資本投下によりなされたとされている。だがそこには、労働市場の組み替えが存在したことを忘れてはならない。極東アジアにおいては、韓国、フィリピン、台湾にも直接間接的にアメリカからの巨額資本投下がなされているが、その結果の経済成長や経済豊かさは、日本に比べ貧弱軽薄であることは否めない。すなわち、日本には、労働の配置と指揮による価値を生み出すインフラ=適切な労働市場が成立したのである。この終戦後から高度成長までの労働市場形成には、アメリカの政府・民間資本の直接介入が数多くあった。それが、日本の労使関係・経済技術発展の基盤とされる労働市場、=終身雇用+年功序列型賃金+企業内労働組合といった図式なのだ。ただし、この労働市場はあくまでも理想であり夢にとどまり、大手企業の末端現場とか中小企業にまで普及したわけではない。
年功序列型の社員&賃金体系は、GHQと戦った末の「電産型賃金」が金融機関に波及し、一般企業に普及していって労働市場の受け皿制度を形成したのである。労働組合法は憲法改正に先駆けて占領の下で施行されたが、労働基準法は占領下にあっても日本独自の法律として労働経済の下支えをしている。
戦前の一部大手企業に存在した厚生年金は、日本の主要な労働者の退職金を国家として保障する制度である。ただし、米ソ対立の世界状況のなかで、採算を考えずに無理矢理創設したもの、昭和55年には厚生白書で年金の繰り延べ支給や支給率30%が提言されている代物なのである。同じく当時の必要性から健康保険も終身雇用の一環として形成された国家政策である。国民皆年金の制度も、当時の米ソ対立の世界経済状況を維持するための採算を度外視した社会制度そのものである。国民健康保険は戦前の富国強兵の兵力と労働力確保のための保険制度であったところ、ここでも米ソ対立の必要性から国民生活の引き上げを、保険料と保険給付の採算に関係なく実施している制度である。これらが日本の労働市場を支え、国民一般の人たちの就職概念とか幸福概念を形成しているのである。
さて、今ここで、こうした労働市場にまつわる制度一体が、終戦直後以来、抜本的に組み替えられようとしているのである。
こういった日本的労務管理と言われるものは、「日本的」と称される事で保守系や民族主義思考の人たちに歓迎されているが、ただし、それは全くの誤認であって、ジャパンな精神論一辺倒の非科学的人物の、「安住の地」として提供されているにすぎないのだ。もちろん、戦前の労働市場(とりわけ5年間の奉公人的労働契約)及び、それを悪用した悲惨な実態は当時の警察が取り締まる領域をはるかに超えていたから、そういった社会経済の一端を担った家族制度に“逆戻りしたい”とは、内心を突き詰めれば誰しもが望んではいない実態なのである。かといって、現状打破や改革系と称する人たちであっても、戦後新たに形成された労働市場の概念に思考が制約されたままの、「革新的理念?」でしかあり得ないのだ。事実、年金制度や社会保障あるいは福祉といった分野には、当時の「革新系」と言われる人たちの構想が主流を占めているのは否めない。
ところで、筆者の理論からすれば、
あくまでも人間の労働や経済の原動力は、「個々の夢や希望を、伝統(良いものだから)と習慣を駆使するエネルギー」にのみ、成功裏に存在するのである。個人的見解からすれば、この原動力が日本においては他の先進諸国と比べて希薄がゆえに、制度が官僚的硬直化を起こすと考えられる。結果、個人の原動力を活発化させる社会制度も弱いがゆえに、成長の原動力は劣化せざるを得ないといった労働市場なのだ。


§学者とか官僚、それぞれの狭い世界では理解できない現場
ところで、筆者の情報収集や論理の組み立てが、なぜ世間一般と異なり、なぜ本質を押さえるからこそ経営管理に有効なのか。
(注:ジャーナリストの文献、その人の思考パターンや立場を知った上で読む必要がある)。
それは幸いにも筆者の親戚筋には年功型賃金の基となった「電産型賃金」を作った旧:日本発送電と各配電会社(今の電力会社)人事部賃金担当記者(伯父)が存在し、書籍文献には現われていない賃金制度実施の要諦を聞きおよんでいるからであった。それは例えば、「電産型賃金」の実施目的とは、電力供給を水力発電から火力発電に転換させるために優秀な労働者を全国的に確保するための賃金制度であった。加えて、この賃金体系導入をめぐって、当時は日本経済を後退させようとしたGHQ占領政策と対峙したことから、労使協調してGHQに対する電力停止ストライキを繰り返したのである。現在もそうであるが、電力ストライキで電気を止める場合、給電指令所の指図のもとに工場間や細かい地域ごとに電力スイッチを「遮断&通電」の作業を行わなければ、給電設備がどこでどのように破損するか分からない実務なのである。社長以下経営幹部が管理職に命じて具体的に停電指令を出していたのである。これが学者とか官僚などには認識できない歴史における真実なのである。
また加えて筆者は、少なからずの末端現場での現象を把握する手法としての、「どこでも誰にでもインタビュー」する個性(職業能力)を親戚と地元(近江商業)で培われていることである。とにかく筆者は世間一般のいう立場をいったん横に置いて、どこでも誰でもインタビューするのである。先月の総務部メルマガで労働者派遣法(事業法ではない)の本質を書いたが、そういったインタビューからのインテリジェンスである。それは形を変えて言えば、サラリーマン一般や労働者一般が、苦労と感じる物事を苦労と感じないように育てられているからにすぎない。それは困難な事態を回避する術・並びに「物事積上思考ではなく先見把握思考」の術といったもので、幼少の頃から徹底しての教育を受けていたからである。現在筆者が日本の財政学の重鎮その他に師事して、次々と経済学や社会文化学における諸説を発表できることも、それが個別企業の経営に直接効果的利益をもたらすことが出来ている由縁は、ここに存在するのである。
とかく、「物事積み上げ思考」に馴らされていると、「個々の夢や希望を、伝統と習慣を駆使して実現」することなく、「波風を立てないトレンド」の陰で自他共に苦労を黙認せざるを得ない我慢強さの選択肢を、学者や官僚たちは経営方針や管理とか政策に持ち込んでしまうのである。もちろん本人の性格もそのように順応していくのである。それは一般社会でも同じだが、個人が官僚的組織の中でいくら努力をしたとしても、こういった本質が掴めないうちは、
1.あなたに権力があるうちは周囲は静かだが政策は空回りとなり、
2.あなたの権力が揺らげば収拾がつかず、あなたは政策を引っ込めなくてはならない
といった具合なのだ。社会(共同体)でも個別企業の経営組織でも、根っからの無政府主義者(秩序崩壊にのみ喜びを感じる)を抱え込んでいることはまれであるから…。そういう無政府主義たちの妨害にあって政策が進まないのではない。
ちなみに、現在の官僚たちの世論誘導トレンドは、
数個の選択肢を提起することで責任回避する方式である。こういった二元論的的思考は、受験勉強に染められた人たちの思考にとっては極めて馴染みが良く、ゲーム感覚で議論に花が咲いて、今日も仕事をした!と錯覚するのである。それを官僚たちは利用しているのかもしれないし、ここしばらくは一流エリートが民間企業に流れ込んでいるから、受験勉強タイプの官僚みずからもゲーム感覚に花を咲かせて仕事をした気分になっているのかもしれない。国の補助金などが欲しくてたまらない大学教員や学者たちは、こういった官僚の喜ぶ手法と学説が不可欠であることを良く知っているから、学問自体が官僚にコントロールされた内容に傾かざるを得ないのである。良く似たことは芸術の世界でも存在しており、「美しければとにかく良い」式の芸術論を語る有名人、その人の背景を見れば、その多くは無能芸術家の類であり且つ資金の出所は特定されているのである。


§経済学、中でも労働経済学の分野での労働の対価とは
対価を報酬として支払うにあたって近年指摘されている学説とは、
1.労働価値の中で、唯一、労働力として時間単位計算が可能なものだけが対価の支払をされていること。
2.規模の大小は問わず、メジャーとされなかった労働と対価支払システムにあっては、法則性も公正性も度外視された報酬取引が行われたこと。
の2つである。これらの意味する所は、
メジャーな労働集団(企業の業務遂行集団)を形成した場合には、例えば企業組織内部におけるそれぞれの利益集団、企業内労働組合とか親睦会などの企業内利益集団といった形態はとるのだが、時間単位計算の労働力以外の部分は、法則的な対価支払の対象にはならず、交際費勘定とか、カラ出張から残業とか、福利厚生といった別建ての報酬として、いわゆる「景気の良い時だけの潤い分配」として支給をされてきたのである。メジャーに組み込まれなかった労働にあっては、ジェンダー、人種、民族(ロマ、部落、朝鮮など)その他での、ありとあらゆる区別・差別や身分が持ち込まれることによって、ダンピングが行われているとされる学説なのである。期間契約や有期雇用といった形式も利用されるとしている。
労働経済学や労働・労務問題に携わる者は、
マルクスの「搾取・収奪」理論を知ることが初歩的条件であるが、この「搾取・収奪」のマルクス学説は、先に述べた対価の支払が、「景気の良い時だけの潤い分配」との宮廷制度とか家父長制度など、法則性も公正性も度外視された日本独自の奉公人制度とか、あるいは著作:資本論のずさんな解釈による憶測その他が入り交じって、学問的にも先に述べた2項目が混同重複した論理展開となっていることがうかがえる。あげく感情論や宗教的推論に至るケースが多いのであるが、その原因は現場の現実を十分に観察・洞察しないことと、あえて改善改革の具体策を学説提起しない姿勢によるのだ。そして、厚生労働省の官僚たちも、労働経済の古典的概念として、こういった「マルクス学説?」を念頭に置いていることは確かである。その理由と言えば、これに代わる有力な学説が未だ存在せず、あのケインズ理論にしても「雇用」のテーマを最優先にしているといったトレントだからである。
なぜ今ごろ、こういった学説の萌芽が生まれて来るかと言えば、
2度の世界大戦を経たとしても労働市場と労働集団の形成が理想とされて来たことに対して、現代においては矛盾や不都合が構造的となったからこそ、学問的に指摘され始めたと診ることが妥当である。「全体を大ざっぱな基本的考え方で集団をまとめあげることができず、ICTの深化によって産業革命が進行している真っただ中である」ところに、理由があると言える。まさにルネッサンス期にヨーロッパがイスラム圏や中国圏を構造的に社会経済で追い越した瞬間、そこでは旧来からあった印刷技術を紙媒体で拡張させる具体的行為が存在した。さらに、17世紀から世界各地で商品経済が主流になるための市民革命が起こり王制の社会経済を追い越した時機、そこでは貨幣が通貨の形をとるといった使用目的変化の具体的行為が存在した。さまざまな詳細研究が待たれるのも、現在はこれらと似通った側面をもつのである。


§通貨に交換されない労働市場の在り方と行方
経済学にあっては、通貨に交換されない労働市場の研究は、長きにわたって行われてこなかった。
結論から言えば、経済学と言うのは所詮、様々な経済実験を繰り返した末の成功事例を法則的に整理しその裏付けを立証した学問がトレンドなだけ、だからである。ナポリ大学での講義が世界初の経済学ではあるが、当時は通貨の概念がなかったことから、アカデミックになればなるほど通貨とかICTが大学内で議論されない傾向も残っているのだ。その通貨に交換されない労働は、通貨という測定基準がない労働であり、専念した時間として数えられない労働であり、労働需給市場に参入しない非公式労働である。だから、ただ単に研究者の法則性や証明手法が困難であったからこそ、研究の取り扱いが遅れていたからにすぎない。だがそれは近年見直されており、そこではきわめて個人が豊かさとか富を実感する生活などの部分に個々密着している労働なのである。とにかく従前は、純粋労働力ではないから労働として把握できない(確かにその通り困難さを伴う)として、学問から排除して来た労働なのである。経済政策や財政学からすれば、掌握する範疇に存在していない労働であるから、政策実施にかかわる理論から排除して来た。

通貨に交換されない労働の分野とは
家事一般労働、家庭育児労働、高齢者介護労働、障害者介護労働、個人感情充足労働といったものである。確かに経済の成長は、こういった分野の労働にも踏み込んで商品を生産して来たことは事実である。それも、「生活が豊かになりたい」とする夢や希望を少しだけ叶える商品としてなのである。洗濯作業から解放する洗濯機、飲食加工作業を軽減する炊飯器・電子レンジ・ガス機器、暖房作業を軽減する暖房設備機器、買物や流通に画期的変化をもたらした冷蔵庫や冷凍冷蔵技術その他である。こういった什器備品商品が、通貨に交換されない労働の分野に入り込んで、経済のサービス化が進んで来たのである。すなわち、単なる機能商品を提供するのではなくサービス化商品を提供したからこそ、什器備品商品が売れたのである。さらに都市化が進めば、コンビニエンス・ストアは、街中の冷蔵・冷蔵庫の役割を果たし、都市中心部に移住する高齢単身者の住宅事情と相まって、家事一般や高齢者介護の分野に広まってきている。

通貨に交換されない労働の分野での特徴的なことは
もっとも注意しなければならない要点は、この商品化されたサービスとか物資だけでは豊かさや富を実感する生活は実現しないポイントにある。先ほどあげた通貨に交換されない労働との組み合わせがなければ、有効な消費がなされないのである。そこには、通貨に交換されない労働こそが、世界的に見て女性が非公式労働者として役割を果たしていることである。世界的に見ても、いわゆるキャリアウーマンはこれらの労働に携わっていない。むしろ、キャリアウーマンの母親や親戚とか近所の女性が非公式な報酬を得ることで、キャリアウーマンを支えているのである。経済のサービス産業化の中には、こういった非公式労働から公式労働が関与する商品化が含まれているのである。
加えて、こういった通貨に交換されない労働市場にあっては、その労働の取引関係に、前近代的結婚制度や家族制度、唯物欲求幸福感制度といった慣習による抑圧的人間関係が介在している。むしろ、抑圧的人間関係のもとに非公式労働が存在する、すなわち非正規非公式な労働の取引を強いられる立場にあるからこそ、世間体若しくは家庭内の抑圧のもとで労働が行われる実態にある。ここに紹介するイギリスの事例では、非正規非公式な労働は低収入家庭の主婦に集中しており、高収入家庭の夫婦の如く家事分担すら行われていないとされる、注目すべき研究である。低収入家庭の主婦こそが、女性地位向上の意識は低く、パートなどの非正規労働と非公式な家事労働などで、男性に比べ長時間労働が常態化し、それが普通のことだと受け止めている実態が報告されている。
今年はじめに、社会学としてイギリスの実態を研究した、貴重な本が翻訳出版された。
(『「労働」の社会分析-時間・空間・ジェンダー』法政大学出版局 2014/02/10)
http://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-67517-1.html

個人消費に直接提供される労働での注意点は、
俗っぽく言えば、「いわゆる愛情が感じられない」場合にあっては、人間疎外(空虚さが同居する)労働として顕著に現れることである。個人消費財を自ら提供(自分で何でもする)には限度があり、家庭内分業を促進するとしても限界があり、なによりも「家庭」そのものの形成が崩壊するのである。そもそも「愛」といった言葉の概念は日本になく、最初の日本語訳は「お大事に」とか「大事にする」との、室町時代の外来概念である。日本に古くから存在したのは慈悲であるが、その慈悲では家庭は成立しない。「いわゆる愛情が感じられない」場合とは、単純機械的に分析定義できるものではない。ただそれは、家庭内離婚とか親子断絶あるいは介護放棄の原因とならざるを得ず、それを法律や世間体でもって強要するわけにいかない。筆者の着想は、ここに女性労働や女性地位における日本の後進性を解決する着眼点があると考えている。ここでの社会制度の新たな発明がなければ、官僚の政策が進むほどに新たな人間疎外(空虚さが同居する)がはびこるだけで、いっこうに日本経済の成長・豊かさはやってこないと断言する。

まして、マイナンバー制によって女性や高校生は、
所得税や社会保険料の直撃を受けることとなる事態である。あれこれ理由をつけても経済の豊かさが後退することは間違いない。筆者の試算では所得税だけでも女性や高校生から年間3兆円の増税であり、社会保険料(実態は税金)の増額なのである。
先ほどの人間疎外(空虚さが同居する)であるが、それを引き起こす医療・介護・保健衛生に係る商品構成を改善するだけで、医療費や介護費用は激減することを忘れてはならない。すなわち、成人病の多くは予防医学で医療費を大幅削減できるし、シェアハウスなどの相互介護と介護行政の組み合わせでも介護費用は削減可能だ。日本国内でも30年前、乳児と老人の外来自己負担無料化の実験を行った村があり国会にも取り上げられたが、嫁と姑が相手を憎んで罵りあっていた争い、これが肌で感じて激減したとの報告だ。また、医療費負担で気兼ねしての老人自殺も減ったとのことである。なお、所得税の配偶者控除廃止の動きは、増税が目的でであって、女性の社会進出と称してもその効果の期待できる根拠が薄い。

女性の社会進出化を促進、とりわけ高年齢老齢女性の労働対策を、
「より正規の公式労働」の内側に向けて進めることは、通貨に交換されない労働市場の在り方と行方に決定的役割を果たす。高年齢男性は年金やその他でそれなりの収入をもつものも多いから後回しでも良いが、とかく話題になるのは高齢者男性ばかりである。高年齢老齢女性の「より正規の公式労働」、それは別に頭の固い官僚に任せる必要もなく、その手法は民間企業が行っても差し支えがない。折しも有期労働法制の政府議論の中で、清掃に携わる高年齢女性の労働契約問題が話題となっている。すなわち、法律的扱いの狭間に資するのが高年齢老齢女性なのである。
以前の総務部メルマガでも紹介したが、フィンランドでは家族の行う高齢者介護労働に対し正規賃金を家族に支払うこととして、同時に家族労働者に介護技能の教育を施す制度を実施している。イギリスの地域密着型介護制度も、ほぼこれに該当する。子どもの家庭教師紹介ビジネスが成功して久しく、学習塾ビジネスも固有価値商品理論に基づく企業では成功している。ここにも高年齢老齢女性の労働のヒントがある。
勘の鋭い読者ならピンと来るのであろうけれど、

こういった従来の労働が、労働集約型ビジネスに転換するチャンスが、
ここに存在するのである。それはあくまで、社会的認知のもとに「生活が豊かになりたい」とする夢や希望を、「いわゆる愛情が感じられる(それは共感作用の形をとる)」労働の提供を、労働力ではなく、固有価値労働として行えるか否かに成否がかかっている。従来のような「労働力」として扱おうとすれば、自ずと投資損となって失敗するのは当然である、投資損となることを知らないから詐欺行為にはならないが…。現象的には、提供先の人間関係トラブルとか事業所内労使トラブルの続発となって現われ、それに費やす時間と経費で経営破たんする。この固有価値とは、価値の消費や創造の段階で、関係者の「意欲・感動・希望」の3要素が一体となって作用している状況存在を指す。またそれは、「労働力」の交換を前提とした、労働基準法や職業安定法の概念にとらわれる事業である必要はない。ただし、労働契約法は近年成立したこともあって、いかなる労働集約型ビジネスも包括している。すなわち、労働時間で計測するのではなく出来高によること+賃金で報酬を支払わないことその他の労働概念である。労働基準法の適用枠外に、合法的に公序良俗延長線上に存在する事業であることが重要なのだ。
優秀な人物は、「一万人にひとりの割合」で育つと言われる。ちなみに、経済活動を含め事業というものをリードする人材は500人にひとりの割合ともいわれている。これは世界の共通した言い伝えであるようだ。事は、この優秀な人物を何れの分野の誰が確保するかである。経済界、学術界、政界、官僚、芸術界、経済興隆(ベンチャーのこと)、NPO・NGO界その他での優秀な人材を取り合いなのである。その優秀さは読者のあなたに潜んでいるかもしれないし、所詮、優秀な人物を確保する「何れの分野の誰」とは、読者のあなたに筆者は期待するところである。言い方を変えれば、一万人でひとりの優秀な人物を支えることなのである。


§労働関係法律改正=個別企業での具体的な、9つの現象
決定的に労働市場の構造的変化をもたらす事柄は、有期労働契約の無期契約への転換である、労働契約法第18条である。これをめぐっての厚生労働省の世論操作とPRには、近年に無くすさまじいものがある。
いわゆる、
通算契約期間が5年を超える場合は労働者の申し込みにより無期限の労働契約が成立すると法律で定めたことである。また、その場合の労働条件は、従前の労働条件が適用されることである。この場合の、「別段の定め」とは、立法主旨から不利益変更となれば法違反とされる。それは公序良俗に反するとの裁判例や判例法理を待つまでもなく、労働契約法第19条並びに同法第20条あるいはパート労働法により、その不利益変更部分は違反と即座に判定される構造となっている。巷には、「別段の定め」とか「5年以内労働契約終了」の契約を自由契約として締結すれば問題ない、とする詭弁が、利己的売上第一に走る社会保険労務士や弁護士に多くみられる。そういった誘惑に乗ると、訴訟が起これば企業が敗訴するのはもちろんではある。ところが彼らは、それを横目で見ている労働者の労働意欲が激減することでの経営要素(収益性・生産性・労働意欲・効率性)のエネルギーが激減する事態を度外視しているのである。
この無期契約への転換によって
1.企業組織内部の利益集団としての労働者(戦前制度で言うところの社員とか職員)と、それ以外の労働者であって無期契約の地位を保つ者の、二極の労働者概念に分かれることである。これをめぐって、就職意識は「就社なのか就職なのか」の2つに分割されることとなる。個別の企業に入社して出世と生活の安定を目指そうとの目標を捨て去ることが、国民的になされることとなる。過去の現実には、出世も安定も入社した時の夢とは別課題であり、むしろ出世しない人の肩書や収入の幻想にすぎなかった。とはいえ、いわゆる「ゆとり世代」と老人たちの評する年代(今年で28歳以下の者)の殆どは、そういった目標から既に脱却しているのだが…。
2.非正規労働者の多くは、無期契約の地位を保つ労働者となっていくが、業種や職種によっては限りなく非正規労働者であった者の労働条件に近づくことが予想される。厚生労働省は「ヨーロッパ:タイプ?」などと思わせぶりな紹介をするけれど、「job型社員」といっても具体性に欠けるものである。おざなりのように、最低賃金の確保とかセーフティーネットの整備といった選挙目当てに政策が並べ建てられるが、それが効果的であるとの異論もなければ実証経験も存在しないのである。まして、西欧や北欧のように労働組合が主導で労働者の職業教育訓練を行っている背景などは、日本に存在しない実状なのである。
3.労働者の大半を占める無期契約労働者の、この抜本的職業能力向上が不可欠であるにも関わらず、そこでの政策的施策を厚生労働省は何ら考えていないも同然である。したがって、新たな概念での職種ごとに、新商品開発の地域ごとに、世界の商品経済市場と互角に取引できるシステムを念頭においての、抜本的職業能力向上の教育が重要となるのである。決してそれは学歴高水準である必要はなく、頭脳の良さではなく、頭の使い方といった文化水準の問題である。頭の使い方が悪ければ、自然科学面でのイノベーションを追求したがるが、それでは世界経済での武器にはならない。
4.もちろん賃金体系も、「企業内利益集団メンバー」の賃金は年功序列型及び賞与や特段の福利厚生付のサラリーマン賃金に向かわざるを得ず、
それ以外の無期契約労働者は職務給とか専任給といった労働価値提供に応じた対価に対する報酬賃金に向かうこととなる。ただその途中経過では、サラリーマン賃金はゼネラリスト対応のものであるために修正が繰り返されるが、これが大手企業を中心とした企業内労働組合と経営者の論点となる。だがこの論点は社会一般では異質であり通用する論理ではない。労働価値提供対価型の報酬賃金は、ややもすると労働力(労働ではない)売買取引型賃金としてダンピングの対象とされることから、労働意欲の減退とか労働紛争の火種(=日本の場合は紛争の理屈付け)となって現れる。無期契約:労働価値提供対価型の労働者は、国内や先進各国の事例を見た場合、職業能力向上による労働価値提供内容の向上、それが商品単価の引き上げとなる循環の中で、「労働者の職業能力向上への期待」の存在によって、個別企業でのプラス方向のベクトルが働くこととなる、これは実証されている。引き上げられた商品こそ消費者が求める商品となることがマーケティングの柱となる。
5.非正規労働の悪根源と言われている労働者派遣は、無期契約労働者の職業紹介ショップとして有能な職人職能労働者をプールしておく事業に転換せざるを得ない。転換しなければ、現状でも累積赤字で経営が困難な状態に加え、様々な不都合が舞い込んで来る毎日といったビジネスを覚悟しなければならない。効率の悪さによる採算割れの事態である。日本経済のメジャーに位置する人物は誰しもが、現状の派遣が益々もって使いにくくなると判断しており、そこに無期契約労働者の大量形成といった厚生労働省の世論操作にさらされていると判断してよい。そして、メジャーに位置しない従来型の派遣業ビジネスで利益を得ようとするのは愚かそのものなのである。大半の経営側と労働側の弁護士でさえ、直に派遣業へのかかわりがなくとも、来年10月からの派遣と偽装請負関係法改正での訴訟の激増を予想しているのである。
6.個別企業の、無期契約労働者の人事労務管理において、労働価値提供といえども労働力だけを売買取引しようとのことでダンピング、すなわち人海戦術型業種(簡単なマニュアル以内での業務遂行完了)の事業所内での、未熟練労働者の大量採用と長期労働者の排除といった経営手法が存在する。まるで、マルクスが著書:資本論に示したイギリス産業革命後の劣悪な労働者状況に似たところがあるのだが。これに対して厚生労働省は国家権力による世論の納得ないしは押さえつけを進めるだろう行政が考えられる。それは、終戦直後に日本経済から軍国主義者を一斉排除するために憲法改正に先駆けて労働組合法を施行し、労働組合運動の活発化を容認する手法のようにである。ただし今回は、いずれの労働組合幹部たちも頼りにならないから、それを推進させる勢力を労働側弁護士たちに求めるきらいがある。それは、労働組合の交渉力に頼るのではなく、労働側弁護士たちが活用しやすい法律や法令の改正を繰り返していることにうかがえる。「日本が法治国家」であるなどとは事実関係からしても、おとぎ話なのであって、個別企業経営は地域経済の伝統や習慣に基づかざるを得ず、法律や裁判は紛争の後始末機関でしかないのである。
7.「雇用期間満了」といった雇止め(基本的には解雇概念)が正当とされるには、細かい契約ごとの労働者の承諾を証明するような契約書と契約交渉経過、雇止め時点の有給休暇単数相当分などの「今回限りの特例退職金」(いくら今回限りとしても頻度が高ければ通常退職金扱い)、期間満了報奨金制度、といったものを整備する必要がある。それもことごとく書証や証人が必要となる。ところが、こういった事は現場では無頓着極まりなく、見識ある人事担当者の言うことを聞かないのが大手企業始め現場の実態なのでもある。したがって、会社が敗訴する原因の一端もここにある。雇用保険の失業給付の需給の事実、解雇予告手当支払いの事実、振り込み退職金への意思表示の無い事実その他労働契約に直接関係のない事実関係といったものは、労働者の退職意思を示す証拠には採用されない。世の中には、期間を記入していないパンフレットのような労働条件通知書を配布する事業所現場も存在するようであるが、この場合はパンフレットを渡した時点で無期労働契約の成立と法律で判断される。もちろん、最初の1年の労働契約書を渡しただけで3度目の期間に突入すれば、これも無期労働契約の成立となってしまう。要は、本当の臨時雇いでない限り、雇用期間設定はきわめて難しいことになったのだ。
8.頭の「おめでたい」社会保険労務士や大手企業人事担当者の作成した就業規則には、社員の定年は定めていても、それ以外の労働者の定年を定めていない個別企業が数多くある。従来からも法律的には、有期労働契約の繰り返しをすれば、就業規則に「期間契約の就業規則は別に定める」であるとか、もとより適用される就業規則が存在しない場合には、労働者本人が死亡するまで労働契約は継続されるのである。事実そういった手抜かりによる会社の「終身」雇用は存在したのだが、事件数が少ないことにより社会一般では気がつかれていない。そういった「おめでたい」人たちの多くは頭が良いから、労働基準監督署の甘い囁きに乗せられて、社員以外にもいくつものパターンの就業規則を作ってしまって、あげく訳が分からなくなってしまったのである。良く似たことは昔、「パートには退職金は無い」と就業規則に記載しなかったことから、退職金を支払った企業が少なくなかったが、それと同じからくりである。今回は、「無期労働契約の労働者には退職金は無い」と記載すれば免れると錯覚する人も多く発生するだろうが、こういった労働契約法違反になることに気づかない「おめでたい」人たちは後を絶たないであろう。
9.厚生労働省の官僚たちは、先ほどいくつか示した個別労働関係の紛争を、当事者同士で決着させようとしている。それは、分かっていても現状でそこまで行政が介入するとなれば、「下世話な経営者」とか「無政府主義者」に対応する手間暇が生じて来るから、裁判所に役割分担させようとの政策判断をしたと思われる。だとしても、行政としての当事者責任から逃避する官僚たちの姿勢は、日本社会を維持する行政の職務怠慢としか言いようがない。社会秩序を維持するための社会コストは国庫金で賄うから納税するのであって、民間の紛争当事者に負担を負わせるのは基本的間違いである。端的に官僚たちの言い分を代弁すれば、「事件になって判決が出れば、面と向かって国家に歯向かわないから、説得の手間が省ける、といったテクニック」となるのだ。もとより、社会というものは理論やテクニックを持ち出せば論争を招来するのであって、社会(共同体)自体こそが自由平等を実現するための手段にすぎない、のであるから。