2024/03/05

第263号:イノベーションの体勢造りを

<コンテンツ>
経済経営コンパス・ナビ
目前の経済危機、これをチャンスにする。
自由市場経済の根底を支える、アダム・スミスの発見と発明
経済外的強制に晒される、異常な人物育成は今も
人間の職業能力他:の発展経路と開発過程(解明)
統合失調症を始め、精神疾患多発とは、何なのだ?
  回復法の名称は「(当時)自己技法」と名付けていた

§経済経営コンパス・ナビ(総務部門は経営の情報収集参謀です)
【NISA】は高値売り逃げが肝。経済学に精通し自信と経験が無ければ近寄らないのが得策。日銀は今、上場企業の株を大量に保有しているから、ここで一気に売り逃げを狙う。その流れ先が素人NISAに偏るのは当然、株価が暴落する前に、同じく高く売り逃げることは投資家も狙っている。
事業行き詰まり。破産(借金踏み倒し)せず、腕とコネで続けられる。
その仕事を要する人が居るから。工夫とイノベーションでしのげる。
③価値観の変化共感・自由・快楽を文化の中に見出す長寿をEnjoy


§目前の経済危機、これをチャンスにする。
 たとえ、ゾンビ企業 Zombie company(世界共通語)だとしても、イノベーションをすれば、事業も会社も存続できる。その訳は、“何らかの社会での役割”、と“その仕事を要する人”が実際に居るからである。物事の視る角度を変えれば、公共事業や役所の現業部門は、ゾンビ企業と同様の運営なのだ。そう!!、切羽詰まれば役所流にやれば潰れないとの着想だ。中堅・大手企業も、要するにそういうことである。金融資本が、「もう貸す金がない。」とか、「貸付利息が目標に達しないなら融資止める。」と言っているだけ。破産手続き=要は“借金踏み倒し”、中小は続ければ良い。
 すなわち“価値観を切りかえれば良い”だけだ。ちなみに、先進国の鉄道や路面電車の交通公共機関は、近隣自治体の共同事業に切り替えることで、民営よりも、“結果の総事業費”が少なくなった。上水道事業も自治体運営だと安く、既存の民間払い下げ水道事業を、自治体が買い戻し運営している流れだ。
 ところが、これでは、個々の事業採算は合うかもしれないけれど、金融資本のイニシアチブによる経済牽引は出来なくなるから、途端に国内経済が落ち込む。昔からのコトワザの、「この世はリーダーの言った通りには成らないが、リーダーが居なければ、“もとから何も無い”。」と言うとおりだ。まして「新自由主義の隠れ蓑を口実」に、事業・融資・経済活動を、実のところは、汚職を始め手抜きの“刑事法犯罪塗(まみ)れ”にしてしまい、あげくは世界の金融資本体制を自滅崩壊させてしまった。だから、経済崩壊の危機は止まらない。そして、そこでの弱者&(自立ではなく)“自律Autonomy”の出来ない人たちの「死亡・病・貧乏・空腹」は免れないと地獄がやってくる。また、世界の社会主義国(日本の政策)の内実も実態も、さほど変わらないようである。
 さて、ラッキーにも、事業規模が、小さいとか、オーナー経営事業とか、とりわけ小零細企業であれば、価値観転換は即座だ。イノベーションも、工夫程度の小規模でも、即刻効果が現れる。それが、本号メルマガ:次のコンテンツの、経済学の父アダム・スミスの“発見”で、一気に成長した、現存の“自由市場経済”の過去からの歴史発展を見れば一目瞭然だ。それまでの封建時代の、“商業や職人”の経営手法や言い伝えでは、科学的な根拠に至らず、実践効果ばかりか併せて理解もされなかった。
何よりも、経済・経営危機を目前に、イノベーション体勢造りとは、
どういった“人物”を、経営者が抱えるか、場合によっては別会社
経営者と職場で以って、“人”を育てる。
  軽い精神疾患(汚名の人物は、キマジメだから、
   育てるには、意外と会社では好都合である。
    これからの時代、周囲の刺激になる異質人物なのだ。
工夫や細目なイノベーションは、
 ~社外社内へ広く行ない、習慣の如く繰り返すことが重要だ。
例えば、1日3時間・1週3日の、パート出勤時間。
さらに高学歴で子育てや介護を両立させたい女性は、
自律し自由を求めるから、大いにイノベーション戦力になる、
まして彼女らには、世間で人気ある働き方だ、これもイノベーション
残念だが、“守旧派”=イエスマンで、会社に抱きついて、「依存すれば何とかなる。」を“旨”とする、“怠惰な者”は、過去の経験しか知らないし、男女ともに“類”を呼び、“組やインフォーマル・ネット関係”を作る。“勤勉理念”は保身(=特徴は縦社会と知識偏重思考)に引っ張られ、今やそれは怠惰の新バージョンでしかない。そこに教育とか訓練、あるいは、様々にコミュニケーション(伝達・共有)を図っても、“怠惰な者”は価値観を変えようとしない。そして、この丸4年の感染症:経済停止その他を過ごしても、それでも価値観を時代に即応させなかった人は多い。やはり従来のように過去にしがみ付く心理が、メンタル面では強い。さらには物理的にも、何がしかの予防医療:副反応(旧来の“副作用”と同じ)?を被った人たちは、沈黙をしている。が、家庭生活と労働時間と体力の折り合いを、長寿のEnjoyを、いったいどう取り持つのだろうか。
価値観の変化 共感・自由・快楽(幸せ)を文化の中に見出す

話題?の人手不足とは、各社の実態は使用者の、“ごり押し・使い捨て”が、アリアリとしている職場だから人手不足を起こすのだ。たとえ誰か就職したとしても、現場の監督職が理不尽だとか、新人を子分に従えようとする“おつぼね”が、さらに弱い新人にむけ、“嘘・マウント・いじめで暗躍”している。これが離職多発の主原因だ。
賃金の低さは確かに、地元ハローワークでの最低水準を走っているかもしれないが、新人は低賃金を覚悟して応募するから、離職や拒絶原因ではない。さらに、日本にはストレートにものを言わない、世襲習慣があるから、言葉通りを受け取らないことだ。

「こんな低賃金でやってられるか」と話すケースは、
その人の職場での“自由・平等・同胞愛”が侵害されている場合だ。
そこに、賃金アップをすれば、逆効果となり、彼女・彼は、重ねて怒る。
「労働基準監督署に訴えてやる」と言う者は、
もう少し賃金を上げて欲しいと願う=表示表現方法だ。
だから賃上げ改善を行えば安定・定着して働いてくれる。


§自由市場経済の根底を支える、アダム・スミスの発見と発明
“労働という概念”は、経済学の父と言われるアダム・スミスによって、「その生産に用いた労働の質量によって捉える。」といった経済学的発見によって、人類が労働を効率的に扱えるようになった。それは、自由市場や資本主義といった制度の底流に不可欠な、“交換体系”という表象空間の内部の決して表面からは見えない商品の基底(もとぞこ)である、使用価値や需要その他に基礎付けられない”“絶対的計算単位”というわけだ。この、一見抽象的と思われる、“質または量”で計測できる労働だ。
このアダム・スミスの発見と発明によって、それまでの封建的な経済外的強制や略奪による経済構造にあっても、“人々の価値観”の変化の基盤を作った。

(ア)資本を、自由に大量に投資する有効性(自由市場経済)、
(イ)物資その他を“商品形態”で自由流通(交通)させる方式、
(ウ)衣食住に関わる物資の“再生産”と、消費財のコントロール、
(エ)人間の“労働力計画=(子供を産み育てる)再生産”、
(オ)産業や社会機能整備のための“インフラ再生産”へと導かれる訳だ。
(カ)併せて貨幣(通貨ではない)が、農民・市民・労働者の、“細やかで束の間の自由”を手に入れる道具手段となり、“生きる意欲“をわきたたせる基盤となり、一気に価値観の変化へと至ったわけだ。

それまでは、商品価値は“食物を中心として全商品を含めて、
a.の表面とか、その商品が占める立ち位置よって、極めて曖昧な幻想原理的めいた物々交換に基づき(現在も続く=1個が数千万円もする宝石ダイヤモンドの取引のごとく)、その交換自体が需要に基づいて生じると幻想的に考えられていた。
b.なお、古代や中世にあって横行していたのが、商品交換ではなくて、武力や王権等による略奪や窃盗である。自由・平等・同胞愛のための社会の制度形成(フランス市民革命など)の中で、窃盗とは他人の所有物ではなく、他人の占有物を盗み取ることだと法律で定められ、併せて経営者の団結権(株式会社や有限会社)も法定され認められるに至った。
c.同年代日本での馴染みある、“お話”にあるところの、江戸時代:元禄期の商人=紀伊国屋文左衛門の儲け話といった類なのだ。
d.現代からすれば、希少価値とか季節物その他=捏造・騙し混在の類(現在でも極めて小さい市場規模業界で通用)であった。ちなみに、日本国内の中小零細企業は、未だこの程度の商取引価値観に留まっているようだ。
e.また、スーパーマーケットの業界は、その産業成り立ちの経緯からしても、大手中小問わず、地域経済政治(大店法に併せて商圏の確定、野菜など採算品の取り扱い義務など)と共に存立する、“物資配給事業”の事業域に留まってしているとしか考えられない、全く以って“岸信介らが導入したソ連計画経済”の名残としか受け止められない。
現代の“貨幣(通貨ではない)経済活動分野”は
労働価値生産 投機 賭博 の3つだ
繰り返すがアダム・スミスの時代とは、食物が重要な最も基礎的な対象であり、食物を中心として全商品を含む、“交換(商取引に至らず)”を目の前にして、アダム・スミスは冒頭の、「その生産に用いた労働の質量によって捉える。」と経済学的発見を成した訳だ。時は、重商主義と重農主義の、王国経済政策の大論争だ。
それに比べ現代では、芸術やArt域労働が含まれた“固有文化価値商品”が流通している。固有文化価値商品とは、「マニュアルや企画書に基づく労働の“スキルSkill”とか」、「複雑重複した労働の“パフォーマンスPerformance”とは」次元は異なる。
②その“固有文化価値商品”なるものは、個々の人物が相互に表現し、相互に受け止める“共感Empathy”を盛り込んだ、物やサービスの表象空間の内部が決して表面からは見えない使用価値や、その需要その他に基礎付けられている商品なのだ。
③共感といった概念は、その道の専門家の研究によると、アダム・スミスも、それを持っていたことを、アダム・スミスの記録から読み取ったとしている。“Empathy”という概念の語句は、1904年に造語され、この時点で同情Sympathyとか“同調”との区分が明確にされた。筆者の私が思うに、日本の“世阿弥”も、「能=胡蝶の舞」とか「離見の見」の教えからすると、共感の概念を感じ取っていたようだ。“共感Empathy”とのことで、科学的に解明され→概念の型や習慣にと形成されることによって、芸術作品は浮かび立ち、耽美・審美との分離も明確になった。
④この“共感Empathy”を盛り込んだことにより、“芸術には不可欠な希望や意欲を湧き立たせる”Art域の労働が意識的に、(“単なる手作り”とか“写実”)とは異なり、組み込まれ増幅されたりする。
⑤自由市場経済を基盤にした商品が自由流通する以前の、殊に“自由・平等・同胞愛”のための社会の基盤形成(文明Civilization)が、充実していない時代、またはその基盤が崩壊してしまった状況(全体主義とかカルトやセクト集団の存在)にあっては、“固有文化価値商品”は、ナチスのように独裁者の意向には沿わないとして、“退廃”と決め付けられ、弾圧されるかゴミ扱いされる訳だ。その場合、「耽美物・審美物」が、“芸術だ!!”と言い変えられおだてられ言い包(くる)められ、“権威披露や同調誘引・販売促進”などに用いられているに過ぎないのだ。
⑥よって、その場合の労働能力全般は“骨抜きにされ”、賃労働とか請負代金といった、名称の如何を問わず買い叩かれる。ばかりか「芸術家は金銭価値のない代物だ。」へと、“囲いこまれ納得せざるを得ない風習”に、芸術家はハメ込まれてしまうわけだ。労働能力全般ではなく無視され、労働力の煩わしさのみで、“報酬は高くなる”との労働力法則のみで以て、不正不当な経済効果にさらされているに過ぎないのだ、Art域労働・芸術家は頑張ろう。

§経済外的強制に晒される、異常な人物育成は今も
日本の伝統的組織的教育訓練とか精神修練”の肝(きも)は、実は“4世紀ごろからのキリスト教:(今のカトリック)修道院”で発展定着した方式なのである。その古くは日本の戦国時代に、カトリック・イエズス会が日本に持ち込み、織田信長らが戦の戦闘技法、築城新方式、鉄砲隊三段撃ち技法等と共に、(おそらく当人は闇雲に便利だとの類で)取り入れた、“修道院や神学校”での“師弟の指導関係”である。それは絵画の装飾様式(狩野派の“城内ふすま絵”)、お茶会(千利休)方式、芸事全般や寺社での手洗い設備、神道その他にも、更には日本の伝統と錯覚もする“作法や思考の型”へとも広まっていった、その詳細は、師弟共々の当事者研究が待たれる。
さて鎖国は終わり、明治維新の折にはカトリックの病院運営方式等も、急ぎ“文明?開化”と勘違いさせられ、海軍病院・陸軍病院はじめ医療機関では見習っていった。=その組織運営機能は、“豪華な院長室の設置”でのカリスマ雰囲気醸成、“院長巡回”と称する礼拝式行列でカリスマを霊性錯覚させる手段として、今も残る。映画やテレビ番組の「白い巨塔(大阪大学医学部病院がモデル)」がイメージとしては身近だ。
それらは日本の様々な職人に伝わる、親方との師弟関係とは全く異質だ。ちなみに、哲学者ミシェル・フーコー(1926年~1984年)は、ギリシアローマの哲学その他教育に見るような、
・“教育の主体は自己自身に配慮”、
・“真理を体得し事実を得ることを重視”、
・“古代なりその時代の「自己の技法」の体得”、
・“指導関係の明確な第一特徴は目標設定”、
・“弟子は目標に照らし知識と能力を持った者を師と選び入門”、
・“弟子の生涯指針となる綿密な行動や振る舞いの規則”、
・“この規則を弟子が体得し終えたときの時点に指導関係は解消”、
・かくて、“この弟子は、師自身の「師」にまで成る”
・~と言った根本的違いを、(あたかも邦楽や踊りその他の日本伝統風に近似したもの感を)哲学者フーコーはギリシアローマの古代に発見していたのだ。

これとは対照的な別世界に、“当該4世紀来のキリスト教修道院”がある。
【次に引用した、各項目を読んで、
日本流の、西洋クラシックのピアノ等楽器や声楽の育成、
茶道その他芸事での修練との共通点、ハット思い浮かべた方は
多いと思う。それは、単に師範も気付いていないだけだ。】
こういった修道院方式には、指導関係における終着は無い。
イ)師に依存し服従すること自体を自己目的化させる、すなわち「自己放棄」。
ロ)師は能力によって選ばれるのではなく、いかに卑劣な師に対しても絶対服従することに意味があるとする。聖なる行いの時間、師は聖となる。
ハ)こうした依存状態を乗り越え、「脱却し得る」など思うのは傲慢とされる。
ニ)依存や服従状態は永遠に続く。この絶対服従関係の中で、師に対して絶えず自身の内面を包み隠さず告白せねばならない。
ホ)それは外的な行動原理の習得ではなく、師と霊性に縛り付けられる。
ヘ)(その余は略)
ト)哲学者デカルトは、「霊的修練で自己自身に働きかける必要は無い。認識の明証性を研ぎ澄ますことで世界の真理に到達する。」と、これらに終止符を打った。《イ)~ト)項はフーコーの研究書籍から抽出。》
チ)“窃盗・暴行・詐欺・淫乱・粗暴・悪徳が横行”する世間体(=社会ではない)にあっては、そんな修道院の役割が、確かに在ったのかもしれない。が、修道院での精神疾患を患う事例とか“フランス:カトリックの堕落や反旗”そしてカトリック聖職者の僻地(当時はイギリスなど、今はアフリカ)への“排除島流し“などは相当多くが記録されている。それらの根本的解決は、イギリス名誉革命、アメリカ独立戦争、フランス市民革命といった、自由・平等のための“社会という制度”の充実拡大=文明Civilizationを待たなければならなかった訳だ。


§人間の職業能力他:の発展経路と開発過程(解明)
これは、すでに哲学その他の分野で科学的に解明されている。巷で流される“幻想や言い訳的な説明”といったものは、個々人を何らかの目的組織の内に不合理に縛り付けるものでしかない。そこには“自由な経済活動”とか、“自由・平等・同胞愛”に基づく社会共同体といったものを、個人の自律Autonomyの基盤を実現させない思惑が存在するのである。そんな巷で言葉を発する個人は、それを良かれと思って話しかける場合であっても、その根拠とそれを教えた者の動機には“悪徳と怠惰”の高度テクニックがあるかもしれないのである。世の中には、“金銭と社会的地位”さえもらえれば、あらゆる手練手管を集積組み合わせる~経営コンサルタントと称する輩も存在するのだ。
能力や思考の発展経路と開発過程は次のとおりだ。
st=最初に現場の真理を把握
  nd=認識(知るのみならず実践に生かせる)ある。
    rd=科学的に思考する
      th=型や習慣にハメ込む
        ~といった体験・思考経路だ。
技芸(古代ギリシャ等でのArtの意味)の実践こそが、科学に先立ち、科学的認識の可能性の次元を条件づける。中世ルネッサンス期には巨匠が産まれなかった。その原因は、科学に基づく教育訓練が成されなかったとの学説は確定している。
科学は、それ自身では何も生み出さない。先ず初めに在るのは、多少とも盲目的な行為であって、その誤りを修正するところから“実際に定まった真理”が生じる。
自由とは、自ら実践・実行すべきもの。それは制度や法によって他人らが与えるモノではない。
ところで、「規律とか規格」といった思考が強いと、イノベーションを生み出さない。ここに極めて曖昧な概念の“本能”といった言語がコミュニケーションに持ち込まれてしまうと、“真理・認識・科学”といった思考力の根幹をなす概念が破壊されてしまう。“本能”(フランス語instinct)という概念の言葉は、哲学者ミシェル・フーコーの発見によれば、19世紀に入ってから以降、司法との関わりの中で、“個人の規律への介入”を目論む一部の精神医学が、「正常と異常の中間地帯」を本能として概念付けたものに過ぎない。司法や社会ではすでに死語になっている(Wikipediaでも混乱の様相は激しい)。脳科学や神経科学の分野でも、“本能”の論理構成はあまりにも矛盾し根拠が成り立っていないことから学説として相手にしていない。日本でも今や、マウントを採りたいから、知ったかぶりの学問を披露するための、“幻想や言い訳的な説明”のレトリックに使用されるにすぎない。

§統合失調症を始め、精神疾患多発とは、何なのだ?
哲学者ミシェル・フーコー(1926年~1984年)は、
「人間は個別化され、検索させられるに過ぎない。自然は調査される。」
と述べ、現代社会へのアプローチとか、先駆的哲学でもって心理学や精神医学に、大きな波紋を投げかけている。論理展開は、世界金融資本の崩壊地滑りが始まった頃から、このメルマガに210号(2019/10/08)で、“予定調和”を取り上げていた。経済崩壊初期の、個々人の気分障害への“目前具体策”などを取り上げ、その構造的社会劣化を起こしかけない、=“ポピュリズム”、“新自由主義”の裏での刑事犯罪や合わせて全体主義に傾くとか、筆者ながらに記事を書いた。この執筆当時“COVID-19ウイルス”が、カンボジア辺りで発症し、翌年2020年1月に中国武漢でウイルスは漏れ(らされ)、現在の劇場的な経済危機を迎えた訳だ。
https://soumubu1.blogspot.com/2019/10/blog-post.html#210-01
そこで、この4年半の間に顕著になった、精神疾患とか疾患めいた名称の流布についてまとめてみた(根拠となった研究や引用論文掲載は省略)。ADHD、アスペルガーその他、精神疾患の名称は50を超えている。うつ症状とか統合失調症は早期に治癒するとか、新型うつ病は人間関係改善で即座に消滅することも分かった。一方では、心理学?”辺りから生じた統計調査に端を発したと揶揄される様々な病状の懸念は、HSP(Highly Sensitive Person)その他が話題となっていることも否めない。また、「精神医学」と「心理学」を分ける垣根は法程度であることも否めない。資格や研究団体の異なり等の違いで学術には役立つ訳だ。
病状?の懸念は、HSP(Highly Sensitive Person:日本語訳は無い)、スマホ認知症(眼球の視野、脳や思考や視野狭窄)、発達障害ADHDなどに見られるケースでは、今の社会で人間は個別化され検索されることから、統計的分類で異なる人たちは、異常(何かの精神の病気の疑い)ではないかと偏見や勘違いする素人に引きずられ、レッテルを貼られ、集団から排除される傾向にある。病気を個性と勘違いして病院に行かない者もいる。統計?分類をして心理学の話題に載せようとする執筆本も少なくない。~結果、若年層を始め、区別・検索・分類するばかりで、具体策を考え出すための分析すら行っていないのが通例だ。無駄な論理構成も羅列され、思考エネルギーを消耗するばかり、心身ともに疲れる(統合失調、うつ状況、カンシャク等)要因だ。
「色々な人が居るから~」との、非科学的無知・無思考な言葉も、前掲の、“本能”の用語を使用する場合と同じく、“幻想や言い訳的な説明”のレトリックに使おうとする、そうやってその場のマウントを採りたい見え張り者も多い。それは、その場の会話の茶を濁すばかりか“自由・平等・同胞愛”の社会共同体志向の柱をも傾かせることになる。ある時、この手の者にインタビューしてみると、本人は権力志向で意欲を抑圧するというわけでもなく、安易に「これで、この場がまとまった。」と自慢している、すなわち、言語を記号のやりとりとしか把握できず、その場の“合意形成をバラバラに”していることに気がつかないのだ。~これでは事業経営を瓦解させる行為だ、この場合に、“イノベーションのチャンス”が到来していることも解らず、何のその見栄張りの“マウントを採り”なのだった。
若者や壮年層には現在、会話をしていても共感Empathy能力の弱い人が少なくない。言語で掲示されない限り悲しみや喜び等の心の動向を読み取り解せない人がいる。本人は、“会話とは質疑応答”の“形式と内容の中身”にある固執するものだと錯誤している。コミュニケーション(言葉の原義は“他人と共有”)で以って、相互に“ヒントの分かち合いShare・共有”をするものだとは思っていない。もちろん無思考で思考力は劣り、学歴が高い場合には虚栄心のためか、形而上学とか知識(量的)偏重に走る若者も多い。
統合失調症は、早期発見とか、施設入院が短いケースでは、意外にも早期に回復するようだ。これは筆者の人付き合いとか仕事の経験でもそう感じている。ところで、17世紀末には、現在日本の“施設入院治療”とは全く異なる方法で、当時は“理性回復”との考え方で、「医学哲学論第二版」をフィリップ・ピネル(1745年~1826年)フランスの精神科医が、共同生活実験を行い、その出版をもしていたのだ。ピネルは1789年からのフランス市民革命前夜の“百科全書派”との親交が深い。右の絵は患者を解放するピネル。
統合失調症を、少なめの投薬・入院保護せずして、治療回復を進める柱は、先ほど来から紹介する、ミシェル・フーコーが、その整理を行い方向性を発見している。で筆者私は、大阪市に現存の“ホームレス支援施設”との実践方向性と近似し、私も何故かいつの間にか仕事柄:実践していたことも痛感した。】
回復法の名称は「(当時)自己技法」と名付けていた(その病人を主体と表現)
①主体の行動習慣の確立を何よりも重視する。
②主体の心理の内在的理解に興味を示さない。
③主体自らが容認であると声に出して認めること。
④表面的にであっても規範に即した行動が取れるよう求める。
⑤可視的行動様式としての習慣の確立を何よりも追求。
⑥主体の自発性、自律性Autonomyが更に拡大するように試練を掛け導く。自律性とは自分の行動・欲望を自分で制御規範が出来る性質や特性の意味。
⑦自律Autonomyとは、自分を律する法(決まり)を自らの内に作り、そして実行。“自立Independence”あるいはself helpとは異なる。近代初期に、科学的理論の根底として形成された概念。社会共同体に在っての“相互依存関係”の中で主たるべく振舞う事の意味。
そもそも(筆者コメント)、“主体が生きていくため”ではなく、自由・平等・同胞愛から外れた規格化をされた社会化にあって、主体を規格化へと強いたことから、(情報の整理統合も出来ずに)精神疲労を多発し統合失調症を発症!!したのではないのか?精神分析とは精神疾患患者の管理手段としての道具。主体(個人)を個別化標準化して管理しようとする、そこに間違いがあるのではないか!?ところで昔から、精神保護施設では“遺産相続争い”の被害者とか配偶者の、“異常?”を口実に、隔離とか抹殺といった噂話が絶えない、筆者自身も危うく、その被害者に。また配偶者の精神疾患を理由とする離婚請求が出来るとする誤解も、未だ根強い。
“施設入院(保護)治療”の発祥とは19世紀後半の機械産業における無過失責任事故多発(労災が典型)を起しそうな懸念人物?を、医師が「何かをしかねない。」“異常と決めつけ”、精神科医師らが司法判断に先駆け“異常と決めつけ”隔離したことに端を発するとの説が有力なのだ。今の日本でも、会社に提出する診断書に精神科医は、そういった歴史との関係の有無は定かではないが、“うつ症状”としか書かない医師が多い。使用者が疾病の実態を知るには、“プライベート侵害”になるから、投与されている薬を知るしかない、うつ病治療の投薬とは違うから。ところが知ったところで、証拠不十分で解雇は不当と判決されるだけだ。

§【新しい経済社会で役立つ、本の拾い読み 20240305】
 今月、お勧めできる書籍は有りません。